第25話 【ダイバ13】

「おはようダイバ」

 教室に入った途端、廊下側の席に座っている快斗に声をかけられた。

「よう快斗。風邪はもう大丈夫なのか?」

「うん。もう平気だよ」

「そうか。ならよかったな」

 軽い会話を交わして自分の席に向かう。

「あ……おはようダイバ」

「おはよう茉莉」

 俺の右側の席に座っている茉莉が、俺を見て、前髪を軽くいじりだす。

「どうした? 前髪になんかついてるのか?」

 なぜか今日は茉莉が前髪をいじるその仕草が気になって、俺は口に出す。

「え? あ、うん。ちょっとね……」

 茉莉はどこか恥ずかしそうな表情で言う。

「あ、ダイバ! おはよう!」

「お、恵太。おはよう。どうした?」

 茉莉との微妙なやりとりをしていると、恵太がやってきて軽やかに右手を上げた。

「いやあ、今日もいい朝だなって思ってさ。あ、おはよう小野澤さん」

 恵太は笑顔のまま、茉莉にも挨拶をする。

「おはよう栗原くん。いい朝だね」

「でしょ?」

「あ、そうだ。とりあえず快斗のとこに行こうぜ」

 恵太の笑顔に、俺は嫌な予感がした。茉莉が近くにいるときに、アヤちゃんの話はしたくなかったんだ。

「え? ああ、そうだね」

 俺に腕を掴まれて、恵太は大きな体を俺に委ねるように着いてきた。

「あれ? 二人とも朝から俺のところに来るなんて珍しいね」

 昨日の物理の授業でやったところをノートに写していた快斗が顔を上げて言う。

「いや、ちょっとな」

 俺は快斗の左隣の席に座り、その前の席に恵太を座らせた。

 一息ついて、茉莉の方へ目をやる。茉莉はチラリとこちらを見たあと、ミッチと話を始めていた。

「ノート写してんのか。偉いな」

「まあ、昨日休んじゃったからね。取り戻さないと」

 俺の声に、快斗がペンを走らせたまま答える。

「快斗はさすがだなあ。

 恵太はアヤちゃんとはなんか進展あった?」

 俺は真面目な快斗に感心しながら、前を向いて恵太に尋ねる。

「あ、それがさ。ごめんダイバ!」

 恵太は勢いよく両手の手のひらを合わせる。

「ん? どうした?」

「ダイバってさ、二十七日は予定があるんだよね?」

「あ、ああ。そうだけど……」

 視界の端で動く茉莉のシルエットに意識が集中する。

「で、予定を合わせようと頑張ったんだけど、どうしても二十七日しか遊べなさそうだったから、昨日快斗を誘っちゃったんだ! ごめんよ。先にダイバに断るべきだった」

 そう言うと恵太は頭を下げた。

 恵太の声に、快斗は手を止めて顔を上げる。

「あ、そういうことか。いや、別に気にすんなよ。俺だけ合わないんじゃ仕方ないよな」

 申し訳なさそうな顔をしている恵太の手前、俺は自分の持てるだけの穏やかさで答える。

 でも、心の中は少しだけモヤモヤしていた。

「本当ごめん。次に遊ぶときにはしっかりみんなの予定を合わせるから」

「え? 遊ぶのって二十七日だけじゃないのか?」

 恵太の言葉を聞いて、モヤモヤした心に蜘蛛の糸が垂らされたような気分になる。

「あ、決定してるわけじゃないけど、今日の朝綾子さんと少しメッセージでやりとりしたんだ。『八月になったらまた遊ぼう。遊ぶチャンスが二十七日だけしかないわけじゃないよね』ってさ。だから、その時は前もって誘うから」

 蜘蛛の糸は、俺が思っている以上に丈夫なようだった。

 また、シノさんに会える。そう思うと、少しだけ心が軽くなったような気がした。

「ちなみに綾子さんたちってどういう人なの?」

 快斗がペンをノートの上に転がすように置いて、こちらを向いた。

「あ、そうか。昨日ちゃんと言ってなかったか。えっと、綾子さんは、フルネームは百井 綾子って言ってすごく美人なんだ。髪は肩くらいまで伸ばしてて、身長は佐々木さんより少し低いくらいかな。だからスタイルもいいんだよ」

「へえ〜。美人さんなんだ」

「そう、めちゃくちゃ美人! でも、美人だけどとても優しい。明るくて、分け隔てがない感じなんだ!」

「えっと……恵太って百井さんのこと……」

 快斗は俺の顔と恵太の顔を交互に見ながら確認を取る。快斗と目が合ったとき、俺は静かに頷いた。

「やっぱり二人にはすぐバレちゃうな……」

 恵太はおどけるように肩を落とす。

「二十七日に来るのって、俺と恵太と百井さんの三人だけ?」

「いや、もう一人いるんだ。僕たちはシノさんって呼んでるんだけど、この人も可愛いよ。髪型は……なんて言うんだろう、ミディアムって言えばいいのかな? 僕は髪型に詳しくないからわからないけど」

 恵太の説明を聞いて、俺はなんだかこそばゆくなる。シノさんに対してもう少しいいプレゼンがあるだろ。と言いたくなる。

「なるほどね」

 快斗は落ち着いた声でそう言うと、ペンを手に取りノートを取り始める。

 ——キーンコーンカーンコーン!

「二十七日、楽しもう」

 予鈴が鳴る。ペンを走らせながら、快斗がぽつりと呟いた。

 本当は、俺も参加したい。そんな気持ちを抱きながら、後ろ髪を引かれる思いで茉莉の横の席に向かう。

「ダイバくん。ちょっといいかな?」

 茉莉と談笑していたミッチが俺を教室の角に呼んだ。

「ん? どうしたミッチ?」

「あのね、席に戻ったら、茉莉の前髪褒めてあげて」

 ミッチが俺の耳元で囁く。

「え、俺が? なんで?」

 ミッチの言葉の意味が俺には全くわからなかった。

「かあ〜! これじゃ茉莉も苦労するねえ」

 俺の返答に、ミッチは芝居がかった動きで右の手のひらを額に当てる。

「苦労?」

「あ、いや、ごめん。今のは忘れて」

 今のは忘れて、と言われて本当に忘れるやつなんていないと思うが、そう言われては追及もできない。

「とにかく、茉莉は前髪を気にしてるの。なぜ、は女子にしかわからないことだから、ダイバくんは気にしなくていいよ」

「女子にしかわからないなら、ミッチとかメグが褒めてやればいいんじゃないの?」

 ミッチは大きなため息をついた。そして大きく息を吸うと、人差し指をこちらに向けて言った。

「逆、逆! 異性だからいいの! 気持ちが理解できる私たちが褒めても、ただのお世辞にしかならないの。ダイバくんが褒めることに意味があんの!」

 ミッチの圧に、少し後退りする。

「わかったら、ほら! 席に戻った!」

 ぐいぐいと背中を押される。

「わ、わかったよ。変なやつだな」

「あ、言ったな? 変で結構!」

 両手でミッチに軽く首を絞められながら、俺は今度こそ席に戻った。

「どうしたのダイバ?」

 ミッチと騒いでた俺に、茉莉が首を傾げる。

「え? ああ、いや、なんでもない」

 ミッチに茉莉の前髪を褒めろと言われた。なんてことを漏らせば、後できっとミッチに首を絞められる。それも次はおふざけなしの力で。

 そう思った俺は、わざとらしく咳払いをして椅子に座った。

「そう? なんか二人ともすごい楽しそうだったから」

「まあな。……あ、それよりもさ、その、茉莉の前髪なんだけど」

「え? 前髪?」

「おう」

「前髪がどうしたの?」

「いや、その、似合ってるなって思ってさ。すごくいいと思う」

 誰かに言われたことを実践するのは、なんとなく恥ずかしい。

「え? あ……本当?」

 茉莉を見ると、なぜか俺以上に恥ずかしがっているようだった。茉莉の顔は茹で上がったタコのように、見事なくらい真っ赤になっていた。

「……うん」

「そっか。……えへへ、嬉しい。ありがとうダイバ」

 茉莉はいつもの元気な物言いをどこかに捨て、静かにそう言うと、前を向いてしまった。

 何をするでもなく、ただただ前を見る茉莉の横顔を、俺は頬杖しながら見ている。

 換気のために開けていた窓の隙間から風がやってくる。きっと、茉莉の髪を揺らすために。

 サラリと動いた綺麗な髪の隙間に、茉莉の笑顔が見えたような気がして、俺はなんだか嬉しくなった。

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