第18話 【ヒデさん】

 散々悩んだ挙句、おじいさんは二本のコーラを手に持って、ゆっくりとした足取りでレジにやってくる。

 噂をすればなんとやら。……いや、コンビニで品物を買う以上、絶対にレジには来なきゃいけないんだけど。

 ゆっくりとした足取りで近づいてくるおじいさんの顔が、だんだんはっきりと見えるようになる。

 俺の脳内で、あの日の映像が鮮明に浮かんだ。


 当時まだ幼かった俺とは、ひょんなことからヒデさんという老人と仲良くなったんだ。

 ヒデさんと出会ったのは一度きりだったけど、今でも鮮明に思い出せるくらい、大切な出会いだった。

 幼稚園のすぐそばに、大きな公園がある。当時はあいつに手を引かれるままデタラメに街を走ったせいで、ずいぶん遠くの公園に来た、と思っていたけど。

 そして、山と呼ぶには大袈裟で、楽というのは嘘になる長い坂の先に、屋根全体が植物のフジに覆われた東屋がある。

 公園全体を見渡せる東屋には、長いベンチが四つ。

 ヒデさんも含めて、俺たちは四人。ベンチも四つだから一人一つずつ使えばいいのに、俺たちはわざわざ同じベンチに詰めて座って、卵焼きをもらったりヒデさんに色んなことを教えてもらった。

 俺にとって、ここまでが大切な記憶。

 この東屋に関する記憶は、ある事件に上書きされたままだった。

 臆病な俺は、あいつとは違って何もできずに泣いていた。クゥちゃんのことを守るって言っていたのは、俺だったのに。

 ヒデさんはそんな俺を優しく抱きしめてくれた。泣きそうになるのを必死に抑えて、ただただ抱きしめてくれたんだ。

 ……事が大体解決した頃、俺たちはあいつのお母さんの提案で瀬田に引っ越していた。

 あいつは、全てを忘れていた。

 そしてクゥちゃんは、どこか遠くの街へ引っ越してしまった。

 あの日を覚えているのは、おそらく、俺とヒデさんだけ。全て忘れたあいつは笑顔で過ごしている。でも、それでいい。それがいいんだ。

 ……あいつは、俺の大切な友達だから。


「お会計お願いします」

 俺をあの日から連れ戻したのは、の声だった。

 現実に戻った俺は、十二年ぶりに聞いたヒデさんの声で、懐かしい気持ちになる。

「はい。コーラが二点で、二百五十八円になります」

 ヒデさんは硬貨を丁寧にレジの受け皿に置いた。

「ちょうどお預かりします」

「レシートと袋は要りません」

「かしこまりました」

 シールをペットボトルに貼り付ける。

 ヒデさんは「ありがとう」と言いながら、俺をじっと見つめていた。

「君の名前……。乾、ですか」

 どきりと心臓が跳ねる。

 俺が一番恐れていたのは、ヒデさんが俺のことを覚えていること。

 忘れたい思い出の登場人物であるヒデさんに、泣いてばかりだった俺の今を知られることへの気まずさや、恥ずかしさがあった。

 さらに言えば、俺は今、失恋したばかり。到底元気な姿とは言えない。

「あ、はい。乾と申します」

「そうですか」

 ヒデさんの表情が読めない。俺に気づいているのか、名前が気になっただけなのか。今ヒデさんが何を考えているのか、何もわからなかった。

「すみません。聞きたいことがありましてね」

 ハットに手をかけて、ヒデさんはよく通る渋い声で言った。

「聞きたいこと……ですか。なんでしょうか?」

「久留島にある、大きな公園を知っていますか?」

 ヒデさんの視線が、真っ直ぐ俺を貫いた。

「久留島の公園……ですか?」

 今俺ができる限り、精一杯の演技。白々しいのはわかっている。

「わ……」

「——店長は何か知っていますか?」

 俺はヒデさんに嘘をついたあと、助けを求めるように店長の意見を求めた。

 今、ヒデさんの言葉を聞いてしまったら、俺は俺でいられなくなるような気がしたんだ。

「うーん、久留島ですよね? 大きい公園となると……うい公園かなあ」

「ういど、ですか」

 店長の言葉にヒデさんが頷く。ヒデさんの相槌も俺と同じで、どこか白々しいような気がした。

「すみません、私が知っているのはこれくらいでして……。久留島はここからですと新瀬田駅から一本で行けるので、もしよろしければ実際に行っていただいて、その土地に住んでいる人間に聞いた方が早いかもしれません」

 店長が頭を下げる。俺も同じようにした。

「いえいえ。こちらこそ急に変なことを聞いてしまって申し訳ない。知らないのであれば、

 ……それでは、私はこれで。お仕事頑張ってください」

「すみませんお力になれず。ありがとうございます。またお越しください」

 店を出ていくヒデさんに、店長は深いお辞儀をしていた。

 ——ヒデさん、すみません。俺は十二年前のことを全部覚えているんです。うい公園のことも、あなたのことも。

 俺はボーッとしたフリをしながら、遠ざかるヒデさんの背中を見ていた。

 ——嘘をつくのは、苦しい。それをわかっていながらも、俺は逃げたんだ。

 湧き上がる罪悪感と自己嫌悪。


 いつもより長く感じた帰り道の途中。

 俺は自転車をコンビニに置いたままであることを思い出すまで、やたらと強く吹く風の中をただひたすらに歩いていた。


 *******


 先程立ち寄ったコンビニエンスストアで、私はコーラを二本購入した。

 一本にするか、二本にするか、いい大人がかなり悩んだ。だが、これも全ては彼女の笑顔を見たいがため。最終的に私は二本買うことを選んだ。

 彼女は自他共に認める倹約家だったが、しっかりと血が通っていた。両手にコーラを持った私を見るなり「もったいない。一本で十分よ」と呆れるだろうが、すぐに笑顔で「ありがとう」と言ってくれるに違いない。

 とうの昔に老体になった私が、コーラという若者の飲み物を購入したわけは、至極単純だ。コーラは私たちにとって思い出の飲み物であり、明日赴く場所にはコーラが欠かせないのだ。私がどれだけ老ぼれになろうがそれだけは変わらない。大袈裟な言い方をすれば、永遠に、だ。

 そしてもう一つ。こちらはコーラよりも大きく、かつ思わぬ収穫。いや、『再会』と言った方が適切か。

 十二年前、あの公園の東屋で出会った三人組の子どもたち。今日出会った彼は、私の勘違いでなければ、その内の一人だろう。

 苗字は乾だから名前は……そうだ、快斗。乾 快斗くんだ。大きくなった彼に会えたのだ。

 小さいながらも聡明で、物分かりのいい、優しい子だ。おそらく、今もそれは変わっていないだろう。

 あれから十二年の時が経っている。そうか、彼ももう高校生か。

 彼はどうやら私のことも初土公園のことも覚えていなかったようだが、私はそれで構わない。むしろあのような体験は忘れてしまった方が彼らのためになる。特にと呼ばれていたあの子は。


 私は今日、何年かぶりに友人と再会した。当時幼かった友人は健やかに育ち、私のことをすっかり忘れてしまったようだ。

 それでいい。

 彼らがあの日のことを忘れて、元気に過ごしているのなら、それでいいのだ。

 ——少し寂しいけれど。

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