第16話 【シノ4】と【ダイバ11】
私のあだ名はシノ。みんな私のことをシノって呼んでくれる。
下の名前で呼ばれるのは嫌いだった。理由は自分でもわからないけど。
あだ名は彼にもあった。
なぜかはわからないけど、私は、ダイバという彼のあだ名を好きになれなかった。
「シノさんって呼んでいいかなって。……ただ、それだけ」
彼は私をシノさんって呼んだ。その瞬間、私の心の中で、何かが「違う」と叫んだ。シノってあだ名は、気に入っていたはずなのに。
「あ……」
——あなたが私に言いたいことは、それなの?
こんなことを言えば、きっと彼は困惑するだろう。私は言いかけたその言葉を抑える。
「そうね。好きに呼べば?」
代わりに私の口から飛び出てきたのは、私でも驚くほどに冷たい一言だった。
「わかった。……よろしく」
私の心が締め付けられる。消してはいけないロウソクの火に、ふっ……と、勢いに任せて息を吹きかけてしまったような気がして、後から焦る。
寂しそうな、泣きそうな、悲しい笑顔。彼は健気に笑っているように見えた。
……あの日と同じように。
——なあ、
——ごめんね。
私の脳内に映像が浮かび上がる。
泣きじゃくる小さい女の子に、病室のベッドの上で健気に笑う男の子。
——気にするなよ。おれさ、夏希のこと……。
「……ごめんなさい」
ここで映像は途切れてしまった。続きはあるはずなのに、いくら頑張っても何も浮かんでこない。
「……シノ? どうしたの? 急に謝るなんて……」
綾子の声で、私は我に帰る。
「シノさん?」
恵太くんも心配そうな顔で私を見ている。
「大丈夫か?」
綾子たちと同じように私を心配してくれた彼の顔を見る。その瞬間だった。
「……う」
記憶の蓋がこじ開けられたような感覚。
——おい! おい、夏希!
——やめて! 乱暴しないで!
身体が震える。
私の心の奥底に植え付けられたような、根源的な恐怖。
彼と会った時に感じた言い知れぬ不安は、これを思い出してしまうことだった。
*******
俺の呼びかけにも応じずに、シノさんはどこか遠くを見ていた。
「おい、おい!」
心配になって、思わず俺はシノさんの肩に手をかける。シノさんは何かに怯えているような顔で、体をブルブルと震わせていた。
「シノ、顔が真っ青だよ? 本当に大丈夫?」
アヤちゃんもシノさんのそばに寄って身体を支える。
「えっと、こういう時は確か……」
恵太がポケットから携帯を取り出して操作をし始めた。
「……私なら、大丈夫よ」
シノさんは震えながら微かに答えた。
恵太のケータイには番号が打ち込まれていて、通話ボタンを押せば繋がる状況だった。
「熱中症?」
熱中症ではないと思っていながらも、俺はシノさんの体に触れながら話しかける。
「かもね。でも、大丈夫」
そう言うとシノさんはそっと俺の右手に触れて、「もう大丈夫だから」と体から離した。
「かもねって、あのなあ……」
俺の言葉を遮るように、シノさんは二人の方を向く。
「恵太くんも綾子も、心配かけてごめんね」
「いや、それは大丈夫だけど……」
「シノ、本当に平気なの?」
携帯の電源を切ってポケットに入れながら、恵太はアヤちゃんと顔を見合わせる。
「もう平気。綾子の方は恵太くんにちゃんと靴を渡せたのよね?」
「うん。それは渡せたけど……」
「なら、私は先に帰るね。ごめん」
シノさんは取ってつけたような会釈をしたあと、スタスタと歩いて行ってしまった。
「え、ちょっと。シノ!」
アヤちゃんは焦ったようにシノさんの後ろ姿と、取り残されたように突っ立っている俺と恵太の顔を交互に見る。
「……二人とも、せっかく久留島まで来てくれたのにごめんなさい」
アヤちゃんが頭を下げる。申し訳なさそうな顔を見ると、こっちが悲しくなる。
「いや、綾子さんが謝る必要はないよ。ねえダイバ?」
「そうだな。それよりもシノさんのことを追いかけた方がいいんじゃないか? シノさんに何があったのかわからないけど、今は誰かがついてあげた方がいいと思う」
「たしかに。そうした方がいいよ」
「ダイバくん、栗原くん、本当にごめんなさい。また今度何かで埋め合わせするねっ!」
アヤちゃんは深くお辞儀をした後、シノさんを追いかけるために走り出した。
「シノさん、どうしたんだろうね?」
アヤちゃんの後ろ姿に手を振りながら、恵太が呟くように言う。
「さあ、わからないな」
瀬田駅よりも広い久留島駅の改札に残されてしまった俺たちは、特に何をするでもなく、ただただそこに立っていた。
「……どうするダイバ。せっかく来たんだし、久留島でなんか遊んでく?」
「いや、帰ろう」
「そうだね」
恵太の言葉に頷いて、踵を返す。
俺たちはただバスケットシューズを受け取りに来ただけで、久留島駅を後にした。
「そういえば僕、綾子さんの連絡先貰ったんだよ」
瀬田駅に向かう電車に揺られながら、恵太が思い出したように言った。
「よくあの短時間で交換できたな」
今思えば、俺が彼女と出会い、アヤちゃんと話をして、シノさんが帰ってしまった一連の流れは三十分も経っていない。
「ダイバがシノさんとぶつかってたときにね。会話が盛り上がったから、勇気を出して連絡先交換してください! って言ったらあっさりOKされたんだ」
「すごいな」
「正直、今でも夢なんじゃないかって思ってる。でも携帯を見ると、そこにちゃんと百井 綾子って名前があるんだよね」
恵太がポケットから携帯を取り出した。
「よかったな」
「うん。ありがとうダイバ」
アヤちゃんの連絡先を眺めたあと、恵太は大事そうに携帯をカバンの中に入れた。
「いや、俺は何も。ただただシノさんとぶつかってただけだから」
「……シノさん大丈夫かなあ」
恵太の言葉に、俺は何も言えなくなる。
シノさんが震えていたわけや急に帰ってしまった理由、そしてあの冷たい言葉の意味、その全てが俺にはわからなかった。いや、おそらくアヤちゃんや恵太にもわからないだろう。
「何もなければいいんだけどな」
適当に返して、俺は彼女の顔を思い浮かべる。
心が疼く。
彼女とぶつかったとき、俺は嬉しかった。ずっと会いたいと思っていた人と、やっと会えた時のような気持ちだった。
彼女の体が震えていたとき、俺は悲しかった。
彼女が帰ったとき、彼女を追いかければよかった。
俺はずっと、多分ずっと昔から、後悔していたんだ——。
今日会ったばかりの彼女に、心の中でそんなことを思った。
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