24 朝

 年明け最初の朝。阿瀬美はいつもよりも早くに起き外を見ると、そこには見事なまでの新雪が降り積もっていた。昇りつつある太陽の日差しに雪は照らされ、薄暗いにも関わらず大地には明るさが感じられた。

 阿瀬美はそっと刻殿を抜け出てその雪を踏み締める。さくり、と雪が重みで音を鳴らし、足跡を残す。それが楽しく感じられて、阿瀬美は刻殿の周囲を散歩することにした。

 冷え切った空気は息を白くし耳を凍らせ鼻を冷たくした。それでも静謐な空気の中を一人静かに歩くことを阿瀬美は躊躇わない。痛みを感じるほどの静けさが、どこか愛おしく感じられた。

 ───まさか、こんな穏やかな心持ちで新年を迎えられるとは思ってもみなかった。

 阿瀬美は歩きながら思いを巡らす。

 初め、廟議の決定で壮途の儀は執り行わないということになっていた。その理由に、冬への備えを準備するのに資金が必要だからと言われた。壮途の儀を行うのは無駄だと判じられたのである。壮途の儀は、天元がトキの旅路の無事を祈り次なるトキを迎え入れる約束をする儀式である。それを否定した大氏や大名、そして何よりも天元が、阿瀬美は許せなかった。壮途の儀を執り行わないということは、トキはもう宮中に必要ではないと役人たちが考えた、と思ったから。

 しかし何がきっかけなのかわからないが、杏化天元は大氏や大名を説得するため行動を起こし、そして説き伏せた。どのようにしたのかはわからない。ただ側に控えていた衛士たちの話では、彼らのずるさを杏化天元が指摘したとのことだった。

 そこからは目まぐるしかった。まず朝早くに書殿の役人数名が刻殿に押し寄せるようにしてやってきた。建物全体を見て周り、刻殿にある物を一つずつ見て回った。それを片っ端から詳細に記録して、彼らが出ていった頃には外は真っ暗になっていた。

 その後、当麻に呼び出された。当麻が言うには廟議の不備で刻殿への資金額が大幅に減らされていたとのことだった。それを全額補填はできないが、以前よりは資金繰りがいくらか安定する。先当たって刻殿の修復箇所を至急取りまとめるように言われた。

 刻殿の修復箇所は膨大にある。それらすべてを取りまとめ、どこを早く修繕して欲しいのかわかるように優先順位をつけた。それを急ぎ当麻に伝えると、すぐに専門の職人が刻殿にやってきた。職人たちは刻殿のあまりの様子に唖然とし、昼夜問わず作業に明け暮れた。

 その対応をしていたらあっという間に壮途の儀の手配をする時期が来ており、それが済んだと思えば年の瀬の準備に追われ、結局刻殿で働く者たちの次の仕事先を探すのは年明けから行うことになってしまった。

 大変だったのは刻殿だけではなかった。噂に聞くと、書殿や本殿の一部の役人が不正に多額の資金を受け取っていたらしい。その全容を調べるため、杏化天元が直々に田造の中でも優秀な何人かを選び抜き、彼らがすべての役所内に調査に入った。資金が何に使われたのか、それを探すために彼らは置いてある書類をすべて広げて中身を確認し、隠されたものはないかを調べるため部屋中の荷物をひっくり返したらしい。彼らが来た後はまるで台風だった、と本殿に務める女官の一人が青ざめていたのを阿瀬美は忘れられない。

 資金全体の正確な流れを解明するには今しばらく時を要すということだった。

 阿瀬美はそんなことを思い出しながら刻殿の周囲をしばらく歩いていると、遠くに別の足跡が見えた。その足跡の持ち主は阿瀬美の足よりも少し大きい。視線を上げれば足跡をつけた人が少し先にいた。その後ろ姿に阿瀬美は一瞬誰なのかわからなかったが、すぐに思い出す。

 ───そうだった。お髪を短くされたのだった。

「トキ様」

 小さな声でその名を呼ぶ。しかしトキは阿瀬美の声には気づかなかった。その側にいた男性と談笑していたからだ。その姿を見て阿瀬美は微笑む。

 ───杏化天元と一緒だったのか。

 杏化天元も阿瀬美の姿には気づかない。穏やかに雪を見つつトキと楽しそうに話をしている。

 阿瀬美は彼に対して長い間、思い違いをしていたことを反省している。

 初め、杏化天元はトキを毛嫌いし宮中から追い出そうとしている悪い人間だと思っていた。天元であるにもかかわらずトキの重要性を認識せず、地位に固執している浅はかな人間だと考えていた。杏化天元が天元の地位を戴いてからトキが刻殿に引き籠もり始めた。だからその原因は彼なのだと思い込んでしまった。

 それと、伽耶の噂があった。トキを追い出せという趣旨の噂。そのような無礼な発言をする大名を宮中から追い出そうとしない態度が許せなかった。

 それなのに、杏化天元は他の者たちが反対する中ただ一人、刻殿にやって来て引き籠もるトキを説得した。そして廟議を取りまとめ壮途の儀を執り行うに至ったのだ。阿瀬美はトキのためを思ってそこまでする天元を初めて見た。

 ───彼は天元に相応しい方だった。

 トキを大切に扱おうと努力し、資金の不正を正そうとしている。それがわかってから、阿瀬美は杏化天元に敬意を払うようになった。

 しかし、トキは巣立ちを止めようとは言わなかった。おそらくこれはもう変えられないことなのだろう。それを惜しむように、騒ぎの後から杏化天元は足繁く刻殿にやって来てはトキと話す。その行動が、刻殿に務める役人たちの心を和やかにした。

 巣立ちは桃の花がほころぶ頃に、とトキから言われている。トキの寝室の側には小さな中庭が拵えてあり、その中庭には桃の木が一本植わっている。トキはそれが蕾をつけて花開いた頃に巣立つつもりなのだ。

 ───それまでにすべての旅支度を終えなくてはならない。

 阿瀬美は静かにその場でお辞儀をし、二人に見つからないようにそっと刻殿へと戻った。

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