23 壮途の儀

 壮途の儀は刻殿で行われることとなった。

 書殿にいる役人たちが壮途の儀について書かれた資料を必死に探し出してくれたのだ。それには簡潔に、トキの断髪、とだけしか書かれていなかった。それではわからないと思った役人たちは他にも情報はないだろうかと引き続き探してくれたが、それ以外は何も見つからなかった。なのであとはトキの望むままにという話になり、なら刻殿で、とトキが提案した。

 壮途の儀は年末に差し掛かる頃、静かにその準備を始めた。といってもたいした準備はない。杏化天元のしたことはトキの髪を切るためのはさみの用意を伽耶に頼んだだけで、あとは刻殿の役人に任せた。だから杏化天元は当日を迎えるまでそれがどのような儀になるのか何も知らない。

「失礼する」

 杏化天元は刻殿の入り口でそう呼びかけた。それを小さな女官が出迎えてくれる。その少女は丁寧にお辞儀をし、杏化天元を刻殿へと招き入れた。

 時刻は日の陰りつつある夕刻。偶然にもそれは観月の宴が催される時刻と同じだった。空は橙から深い藍色、そして黒へと変貌しつつある。今日は朝から雲の少ない晴天だったため、今は星々が遠くで煌めいているのがよく見えた。

 刻殿の廊下には松明が置かれ、その炎のゆらめきが廊下を神秘的なものに変化させていた。揺れる炎に合わせて動く影が暗闇をより濃くし、時々ぜる松明の音がそっと現実に引き戻す。

 壮途の儀は、トキが直した天井のある広間で執り行われるとのことだった。少女は杏化天元をそこに案内すると静かにお辞儀をして去っていく。

 広間には大きな敷物が一枚敷かれているだけで何もない。そしてその中心に、トキがいた。

「やあ、杏化。今日も一日お疲れ様」

「ああ。今日も一日、ありがとう」

 トキは敷物の上で一人胡座をかいていた。それに倣い、杏化天元も隣に座る。

 トキの長い髪は解かれていた。その髪先は床に広がり松明の光に照らされて幻想的に見える。まるでこの世のものではないような美しさ。これこそが、神の御使たる証拠である。

 杏化天元はその長い髪を見ながら尋ねた。

「どうしてトキは髪を切らないのだ?」

 書殿に残されていた資料に、壮途の儀はトキの断髪である、と書かれていた文字を見て、初めてその疑問を抱いた。国では女子は好んで長髪にするが、男子は皆短く切っている。長髪を美しく保つ管理が大変だからである。それなのにトキはそれに関係なく伸ばし続けている。

 トキは杏化天元の問いに、記憶を辿るように天井を見、答えを口にした。

「確か………前のトキが言ってたのは、勿体無いから、だったかな?」

「勿体ない?」

 予想外の答えに杏化天元は首を傾げる。それを面白そうにトキは見た。

「そうそう、思い出した。ほらさ、トキの髪色はこんなだろう? 白色なのに、翳ると桃色に変色する。珍しいし、これこそがトキの証拠ってことで、切るのは勿体無いって役人たちから言われたんだそうだ。だから旅立ちの前にこれを売って資金にした、とかなんとか言ってたなぁ」

「そう、なのか」

 杏化天元はそれを聞いて、昔のトキもいろいろと苦労したのだな、と思った。

 しばらくすると女官が一人盆を持ってやって来た。トキを叱責し、啜り泣いたあの女官である。盆の上には徳利と対の盃がある。彼女はそれを二人の間にそっと置き、側を離れた。盃は、檜を薄く丸く削り口当たりが良くなるように塗装されており、窪んだところは月を模していた。とても品の良い盃に杏化天元は一瞬見惚れる。

「そういえば、紅流葉ちゃんとの婚礼の儀はいつ行われるんだい?」

 トキの気軽な質問に杏化天元は盃から視線を外した。

 紅流葉は杏化天元の婚姻の申し入れを最終的に受けた。申し入れをしてすぐに彼女の両親が杏化天元の元へと手紙を寄越してきたのだ。手紙には数多くの疑問が記されており、杏化天元はそれに一つひとつ丁寧に答え、許可が降りたのが先週のことだった。

 紅流葉は杏化天元の申し入れを聞いた時、嬉し涙を流した。藍明と仲良くしている杏化天元の姿を幼い頃から知っていて、ずっと片想いしていたのだ。まさかそれが叶うとは思ってもみなかった、と泣きながら藍明に漏らしている。

「そうですね。年明けて寒さが薄らいだ頃になるかと思います。紅流葉さんは体が弱いから」

「そうか。僕も参加できたらいいなぁ」

 気軽な様子でトキが言う。

 トキの横顔を杏化天元は見る。翳りのない穏やかな表情だった。それを大事に思い、そしてそれがいなくなる寂しさを思った。

 トキは巣立つ。しかしそれはすぐではない。杏化天元が冬の出立を引き留めたからだ。巣立ちを遅らせることを抵抗されるかと思ったが、トキはそれをすんなりと受け入れた。

 ───相変わらず、何を考えているのかよくわからない。

 しかし、それでも良いと思えた。

 トキの言葉は民の言葉であり、神の導く先の言葉。トキの想いは民の願いであり、トキの行動は神の思し召し。故にトキは国の安定を導く神の御使とされる。

 そのトキの感情をすべてわかるだなんてこと、簡単にできるはずもない。

 ───トキは民の代弁者なのだから。

「さあ、そろそろ儀を始めようか。阿瀬美、持ってきてくれるかい?」

 トキが奥に声をかける。それに応えて女官が盆に鋏を載せて持ってきた。鋏は伽耶が用意しただけのことはあって持ち手に見事な彫りが施されていた。杏化天元はそれを持ち、トキの背後に立つ。

「切る、といってもどの程度だろうか?」

「さあ? 前のトキは肩に触れるくらいの長さを残していたけれど、僕は短いのがいいな。杏化に任せるよ」

 杏化天元はそっとトキの髪を持つ。人ではあり得ない髪色に、確かにこれは切るのを勿体無いと思う人がいるのも仕方がない、と思った。

 幻想的で、神秘的。

 数度、髪を手でき、そして鋏を入れた。切られた髪が床へはらりと落ちる。

 ───鋏を伽耶に頼んでよかった。良い切れ味だ。これならトキの髪を痛めつけることもないだろう。

 そう思いつつ静かに鋏を入れ続ける。二人は始終無言だった。しかしそこに緊張感はない。ただ、二人でこの時間を噛み締めていた。

 杏化天元が鋏を下ろした頃には空は黒に染まり、星々が空一面に瞬いていた。

「これで良いか?」

 成人男性と同じように短く切り揃えた。杏化天元にとって髪を切る行為は初めてのことだったが、丁寧に気持ちを込めて作業に励んだ。それがトキにも伝わったのだろう、トキは切り終わった髪先を指で触り、そして笑った。

「ああ。とてもいい。髪って重いんだなぁ。ものすごく身軽に感じるよ」

「それはそうだろう。これだけ切ったのだから」

 床に落ちた髪を見る。白と桃の髪が床一面に広がって、それが松明の明かりで煌めき揺らいでいる。そこだけ別世界のように見えた。その髪を静かに二人の女官が片付ける。二人の作業の邪魔にならないように杏化天元はそっと側を離れた。

「阿瀬美、この髪、旅の資金にできるかな?」

 トキが揶揄からかうように尋ねる。それを聞いた女官は怒ることなく、口元に優しい笑みを浮かべて頷いた。それにつられてトキは穏やかに笑った。

「さあ、飲もうか」

 二人の女官が散らばった髪を片づけ終わったのを見計らってトキが言った。杏化天元はその誘いに頷き、隣に座る。

 トキが盆を近づけて徳利を持つ。それに合わせて杏化天元は盃を持った。注いでもらい、今度は杏化天元がトキの盃を満たす。

「………良い旅を」

「ありがとう」

 二人並んで盃の酒を飲む。

 杏化天元は、酒は刻殿の役人たちが用意したものだと思っていたが、予想以上に良い味に驚く。甘さの中に程よい酸味を感じる。役人が買うには高価過ぎるくらい良い酒だ。

 杏化天元が驚いている姿を見てトキが笑った。

「これはね、宇木が用意してくれたんだよ」

 その言葉に杏化天元はまた驚き、視線を盃の酒に移動させた。ほんのりと黄色く色づいた液体が松明の灯りで輝いて見えた。

「そうか。宇木が用意したか」

「うん。いままでご苦労だったって言ってた。まったく、あいつはよくわかんないよ。僕に対して怒ったり、いきなり謝辞を言ったりさ。何がしたいんだか」

 トキはそう言いつつも楽しそうに酒を口に含む。それを見て杏化天元は微笑んだ。

 杏化天元が刻殿の資金を不正利用した事実を指摘したあの廟議の後、宇木をしばらく謹慎処分とした。その間に宇木家にあった豪華な家財を田造が全部調べた。先日ようやく全貌が判明し、これから田造の差配によってすべて売却される予定となっている。その間にいろいろと考えたのだろう、処分を解除されて廟議に参席してからは、相変わらず不機嫌ではあったが、真面目に働いている。

 二人して、ゆっくりと酒を飲んだ。冷たい夜風が、酔いつつある熱った頬に心地良かった。

 杏化天元は、いろいろと話したいことがある気がしていた。確認しておきたいこともあった。しかしそれと同時に、それは今聞かなくてもよい気がしていた。

 ───トキは巣立ち、そして新たなトキを連れて戻って来る。それがわかっているから何も不安はない。

 ただ二人、こうして並んで酒を飲む。それだけで満たされた。

 杏化天元は空を見上げた。そこには観月の宴の時に拝めなかった、大きな満月が浮かんでいた。

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