17 刻殿

 本殿を出ると冷たい風が吹き抜けた。季節は秋が深まりその空気に冬の色をつけ始めている。杏化天元は側に衛士を三人引き連れて刻殿へと足を向けた。

 刻殿は正面から見て本殿の左側に位置している。本殿とは違い、その構造は渦巻きのように円を描いている。中心にトキの寝室を置き、それを取り囲むようにしてトキの身の回りの世話をする者たちの寝室が配置されている。その構造からか、トキを忌み嫌う者は嫌味を込めて刻殿を「鳥の巣」と呼ぶ。

 杏化天元が刻殿を訪れたことがあるのは観月の宴の一回しかない。そのため、向かいつつある道すがら心臓が早って仕方なかった。

「刻殿の正面はこっちか?」

「はい。そちらでございます」

 連れ立って歩く衛士たちに確認を取りながら入り口を探す。建物の側面をぐるりと回るように歩き見つけた玄関には誰もいなかった。

 正面から刻殿を見た杏化天元は、違和感を覚えた。

「………これが本当に、刻殿なのか?」

 衛士たちに尋ねると皆一様に頷く。その行動を見て杏化天元はもう一度視線を刻殿に向けた。

 刻殿の玄関は、どんなにお世辞を言おうと努力しても言えないくらい、朽ちていた。入り口の大きさは本殿に負けないくらいに立派なのに、修繕が完璧でないためか所々木々が割れている。建てられた当初は立派に塗られていたであろう塗装も剥げてそのままだ。刻殿の役人たちが必死に体裁を保とうと努力した跡がわかるくらいに専門家でない者の修繕が目立つ。唯一きちんとしているところといえば、周辺に雑草が生えていないことくらいか。

 ───刻殿の維持には資金がかかって仕方がないのだったはずだが。

 正面玄関を見る限りでは、むしろ資金が足りなさ過ぎる有り様だ。しかしそれも中に入れば違うのかもしれぬ。そう思い杏化天元は声をかけた。

「失礼する。誰かいるか」

 玄関から声をかける。中は薄暗く良く見えない。目を凝らして見ると、火を灯し飾る場所には何も置いていなかった。

 ───旅立ちのために不要なものはすべて処分したということだろうか。

 しばらく待つが、誰もやって来ない。すると衛士がおずおずと言った様子で声をかけてきた。

「………杏化天元様、その、刻殿は人が少ないので、もしかしたら誰も気付いていないのではないかと」

「人が少ない? そんなことないだろう。トキの身の回りの世話役、執務の補佐、建物の維持管理など、それらを行う女官や役人がいるはずだ。本殿や寝殿にいる役人の数を思えば、膨大にいるはず」

 ───あれだけの資金を受け取っている刻殿なのだから。

 そう思って発した杏化天元の言葉に衛士たちは互いの顔を見合わせる。その動作に杏化天元は不安を募らせる。

「まさか………巣立ちのために人減らしを行っていたのか?」

「そういうことでもないみたいなのですが………昨年辺りから自然と皆、次の行き先が決まりまして。そこから人員を補充していないのですよ」

 そんな馬鹿な、という言葉を杏化天元は飲み込む。

 ───衛士たちの言葉が本当なら、刻殿は少ない人数で保っていることになる。しかしそうなると疑問がある。刻殿は資金がかかり過ぎると大氏たちは口々に言っていたが、人がいないのなら一体どこに資金がかかっているのだ?

 様々な疑問が思い浮かぶが杏化天元は考えるのをひとまず止めた。このままここで立ち尽くしていても時間の無駄。そう考えたのだ。仕方ないとはいえ無断で建物内に入ることを後ろめたく思いつつ、杏化天元は中に入る。衛士たちはその行動に少し戸惑った。そして誰も杏化天元についてこようとしない。

「どうした?」

 振り向いて尋ねると衛士たちは困った顔をしていた。

「その………我々は許しを得なければ中には入れません。なので、どうしたものかと………」

 その言葉に、それもそうか、と杏化天元は納得する。

 刻殿はトキの住まいだ。そのためここではトキを守るための決まりがある。その中に、トキからの許しを得なければ役人たちは刻殿への立ち入りが出来ない、というものがある。もちろんその役人に天元は含まれない。しかし衛士たちが中に入るにはトキの許可が必要なのだ。だから困っている。

「わかった。お前たちはそこで待て。私一人で行く」

「ですが、もしものことがあれば」

「大丈夫。トキの住まう刻殿でもしものことなどありはしない」

 そう言いつつ、杏化天元は雀居が指摘したことを思い出す。

『刻殿で働いている者たちは皆、トキ様ばかり見ている、と言えばよいのでしょうか。誰も彼もがトキ様を崇めている。国はトキ様がいるから成り立っていると信じているようでありまして………それが異質なのでございますよ』

 あの言葉が本当なら、刻殿の役人たちは杏化天元を目の前にして何をするのか、少し不安ではある。トキを排斥するような行動を取り続けた杏化天元を敵対視し、何かしらの行動を起こすかもしれない。

 ───しかし、だからといってここでぼんやりと待ち続けるわけにはいかない。

 外は少しずつではあるが夜に向けて太陽が傾き始めている。日が沈むまでずっと玄関に立ち続けていても何も変わらない。それはここ連日、大氏や大名たちと話をして痛いほど理解したことだ。

「心配してくれてありがとう。行ってくる」

 佇む衛士たちに声をかけて杏化天元は中へと入る。

 刻殿の中は、とても静かだった。火が灯されていないから部屋全体が薄暗いのもあるし、人の気配がまるで感じられない。本殿を歩けば人がいない空間を見つけるのに苦労するが、刻殿はそればかりなのだ。そのため中はひんやりと冷え切っているように感じられた。

 歩きながら、昨年の観月の宴のことを思い出した。杏化天元が唯一刻殿を訪れた宴である。

 観月の宴はトキが主催となって行われる満月を祝う宴である。一年の豊作を祝い感謝すると同時に、天元がトキの照らした道に間違いがなかったことを確認し、冬を超えるための備えを行う宣言をする行事。宮中において、天元は太陽を司り、トキは月を司る。太陽は先を照らし、月は行く道を照らすのだ。それを踏まえた宴が観月の宴である。

 観月の宴は数ある宮中行事の中で唯一、刻殿で執り行われる。だから杏化天元はその時の記憶を辿って廊下を歩く。

 観月の宴は夜に行われる。そのため前回杏化天元が刻殿を訪ねたのは日も傾いた頃だった。刻殿内の各所に松明が置かれ、暗いながらも火の光で歩きやすかった。その時に比べると、今歩く廊下の印象があの夜とまるで違う。そのことに杏化天元は戸惑いを隠せない。

 暗闇に照らされていた刻殿は幻想的だった。ほのかに照らされることで影に不安を見、明かりに神秘を抱かせていた。だから細部までよくよく見ないまま素通りできた。

 ───刻殿は、こんなであっただろうか?

 歩きながら杏化天元は首を傾げるばかりだ。

 刻殿内の壁には隠そうにも隠しきれない傷や汚れが無数に存在する。廊下にも凹みが見られ撓んでいるところもあった。踏み締めると音が鳴る箇所もある。天井には染みが見えた。

 ───朽ちるに任せるような趣き。これが本当に金のかかりすぎる刻殿なのだろうか?

 疑念を抱きつつしばらく歩いていると、ようやく遠くの方で人の声がした。それと、何やら物を動かす大きな音もする。近づくにつれ彼らが何を言っているのか聞き取れるようになった。

「トキ様! 危ないので降りてきてくださいませ! 私がやります!」

「いやいいよ。僕がやる。阿瀬美はそこで見てておくれ」

「嫌です! 早く降りてきてください!」

 そしてトキの笑い声。初めて聞く軽やかな笑い声に杏化天元はそんな声も出せるのかと驚く。

 ───なんだ?

「失礼する………………トキ、何をしているのだ?」

 杏化天元が見た光景は想像していたものではなかった。

 そこは物がひとつも置かれていない大きな広間だった。そしてその広間の中心に大きな足場が組まれていた。上に登れるように木々を重ね合わせ固定し、それを支える男の役人が三人。その側に不安そうに上を見る女官が一人。そして足場の上に細長い木々を抱えたトキがいた。

 トキは杏化天元の言葉に驚き急ぎこちらを振り向く。その動作で長い白と桃色の髪が軽やかに揺れた。トキは杏化天元が初めて見る驚きの顔をしていた。

「何って、杏化天元こそ、ここで何を?」

「私はお前を訪ねて来たのだが………何をしているのだ?」

 繰り返し尋ねる。トキはそれが面白かったのか普段見せるものとはまるで違う砕けた笑みを見せた。

「天井がね、痛んでしまったから直そうと思ったのだよ」

「天井?」

 そう言われて天井を見るとトキの言う通り、雨漏りのためか天井の木が一部腐っていた。何度もそれを防ごうと塗料を塗った跡があるが、それではいよいよ駄目になったのだろう。だからそこを一部切り取って新しく板を貼ろうとしている。

「でも、杏化天元が訪ねて来てくれた。どうしようか。できれば自分でやりたいところなんだけど。この作業を阿瀬美にさせるのは不安しかないよ」

 その言葉に側にいた女官が怒ったように叫ぶ。

「そんなことおっしゃらないで降りて来てください! 私がやります!」

 どうやらこの女官が阿瀬美らしい、と杏化天元は思った。長い髪をきちんと結え、役人が着るような着物を彼女なりに工夫して来ている。それが日常用の着物なのだろう、ところどころほつれ直した跡が見えた。

 トキは阿瀬美の怒りに慣れているようで動じない。

「でもなぁ。うっかり指でも怪我したら一大事だ。僕がやるよ。杏化天元、天井の修理が終わるまでそこでしばらく待っていてもらえるかい?」

 その言葉に足場を支えていた役人たちが戸惑った表情をする。その様子は、天元という国で一番偉い人を待てせても良いものかどうか悩んでいる風だった。

「私は別に構わんが………だが皆、心配している。一度降りてきたらどうだ?」

「でも日が沈めば作業が出来なくなるし、ここでやめたら阿瀬美が勝手にやりそうだし」

「なら、作業しながらでいいから話をしないか?」

 杏化天元の提案に女官が怒ったように睨んできた。そのことに杏化天元は少し肩を竦める。

 ───どうやらこの女官、心底トキの身を案じている。なるほどこれが雀居が心配していた、天元よりもトキを大事にする刻殿の役人、ということのようだ。

 トキは少しの間、不思議そうに杏化天元を見た。しかし異論はなかったらしく、わかった、と言う。

「ならこのまま話をしよう。それで? 今日はどのような用件でわざわざ刻殿までやって来たのかな?」

 トキは足場の上に座り、持っていた木材を落とさないように気をつけながら膝に乗せ、腐った天井を少しずつ剥がし始める。本当に作業をしながら話をするつもりらしい。杏化天元は意外と慣れた手つきを見せるトキに驚きながら本題に切り込むことにした。

「………トキ、私は壮途の儀を執り行いたいと思っている。もし儀を行うことになれば、参加してくれるか?」

 トキが力いっぱいに天井を剥がす。腐った板はあっという間に剥がれ木屑を床に散らばした。トキはそのまま板を放り投げ床に落とす。それを急いで女官が拾った。

 女官は杏化天元の言葉に驚いたのか、じっとこちらを見てきた。その視線を感じながらトキへの説得を試みる。

「トキが私に対して愛想を尽かしてしまったのは仕方のないことだと思っている。私は自分のことばかりで、廟議で責められたトキを庇おうともしなかった。大氏たちの言葉の真意を図ろうともせず、ただ先代天元と変わらないようにすることばかりに気を取られていた。だから、トキが私を見捨てて巣立つのは仕様が無いと思っている。悪いのは全部、私だった。けれど、だからと言って大氏たちが言うように儀を行わないで旅立つお前を放置するのは、嫌だ」

 トキはある程度天井を剥がすと膝に乗せていた板を天井に当てる。大きさがまるで合っていないが、それを気にすることなく木材を天井に引っ掛けていく。

「大袈裟だなぁ。それで?」

「私は、トキの旅の無事を祈りたい。そして次のトキを迎え入れ、一緒に国のために頑張りたい。そのためにも壮途の儀を執り行いたい。………………トキはどう思う?」

 トキは膝に乗せていた木材をすべて天井に引っ掛けると、引っ掛けた木材の一つを手に取って小さな金具で穴を開け始めた。しばらく黙ってそれに集中し、穴が一個木材を貫通したところで口を開いた。

「………………僕は、行事とか堅苦しいのは苦手なんだよ、杏化天元」

「そうか。それは知らなかった。なら肩肘張らない儀にしよう」

「………それに、壮途の儀ってのはどのようなことをするのかまるで知らない。なんせ、僕が宮中に来る前に行われた儀式だからね。面倒臭いのはごめんだよ」

「儀がどのようなものなのか知らないのは私も同じだ。だから今、書殿に残された文献を漁って過去にどのようなことを行ったのか記録を探している。それを見て、そこからトキがやりたいような形にしよう」

「………大氏たちは反対してたじゃないか。彼らを説得するのは骨が折れると思うよ? むしろ君を責め立てて宣呼を天元にしようと画策するかもしれない。君はそれでもいいのかい? ………もし宣呼が天元になるようなことになれば、正直なところ、次のトキが可哀想だ」

 トキはそう言って俯いた。視線は手元の木材を見ているが、その手は止まっている。ただぼんやりと木材を見ている姿に杏化天元は励ますように語りかける。

「トキ。私はここに来る前に大氏と大名、全員と話をしてきた」

 その言葉にトキは反応しない。むしろ足場を支えている役人と女官が反応した。彼らは驚いたように杏化天元を見て、静かに言葉の続きを待った。

「皆どうしてトキを嫌うのか、それを知りたかった。理由がわかれば対策が打てる。………柚比は、壮途の儀を行うことに反対していた訳ではなかった。私が不甲斐ない行動ばかり取ることに立腹していたんだ。雀居は刻殿で働く役人たちが、私ではなくトキばかりを見ているを不安視していた。別にトキを排除したかった訳ではない。須玖は、慣習に拘ることしか考えていなかった。だから慣習だからと言えば問題ないだろう。嘉穂はトキが私を侮辱したと感じていた。ある日突然刻殿に引き籠ったからな。だからそれを謝れば許してくれるはずだ。そして宇木は資金の無駄だと考えていた。でも、これは資金の無駄が理由で取り止めるような話ではない」

 杏化天元の言葉にトキが顔を上げた。横目で杏化天元の様子を探る。その視線を受けて杏化天元は広間全体を見回した。

 夜ではわからなかった刻殿全体の痛み具合。そしてそこにある品物は必要最低限しかなかった。それらはどれも年季が入っており、新しいものは何一つとしてない。

 ───これはいくらなんでもおかしい。どうしてこの状態で大量の資金が刻殿に流れ込んでいることになっている?

「トキ。私はお前に感謝している。先代天元が在位の際、トキがいなければ国はここまで繁栄することはできなかっただろう。お前が支えてくれたからこそ、国は潤い民は安寧を得られたのだ。私はそう考える。その感謝を伝える儀式を行うのに、資金が無駄だからしないだなんてこと、あってはならない。───私はそのような国の天元では在りたくない」

 心からの言葉だった。

 その言葉にトキは目を見開き、そして目を閉じて深呼吸した。瞼を開いて見えた瞳は、少しだけ潤んでいた。

「そうか。それが君の求める国の在り方か。………なら、参加しないといけないね。阿瀬美」

 トキに呼ばれた女官がはい、と返事する。その声は先程の強い声色ではなく、優しさと嬉しさで泣き出しそうな声色に変化していた。

「申し訳ないけれど、旅立ちは少し延期だ。………いいかな?」

「はい。もちろんです」

 そう返事した女官はそのまま啜り泣き始めた。

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