14 桂宗天元

 夜、月は頭上で明るく光り輝いていた。その姿は半分に見えるが実際は少しずつ欠けつつある。空には雲がたなびいており、それが時折、月の姿を隠した。

 杏化天元は寝殿の自室で一人、蝋燭の明かりを頼りに物思いに耽っていた。

 ───これで大氏全員の話を聞くことができた。柚比は私が不甲斐ない行動ばかり取ることに立腹していた。トキを嫌っていたわけではない。雀居は刻殿で働く役人たちを不安視していた。彼らが巨大化し国が傾くことを恐れていた。須玖は慣習に拘ることしか考えていなかった。それこそが国を安定させるのだと信じていた。嘉穂はトキが私を侮辱したと感じていた。そのことでトキを不要だと訴えた。そして宇木は理由は言わないがトキを嫌い、そして資金の無駄だと考えていた。

 それぞれが廟議では知ることのなかった考えを持っていた。国のため、民のためを思っていた。そして天元という存在を大切に思ってくれているのも感じられた。それだけでも今回の話し合いに意味はあった。

 しかし、である。

 杏化天元の願いは壮途の儀を行うことだ。天元がトキの旅路の無事を祈り、次なるトキを迎える約束をする。トキはその約束を受け入れ旅立つ。その約束をする儀式が壮途の儀。それをきちんと執り行いたかった。

 壮途の儀が前回行われたのは百年以上前のこととなる。そのため杏化天元は宇木家から戻るとすぐに書殿に行き、その文献を探し出すように命じている。大氏たちは資金がかかると言っていたが、実際のところそれがどのような儀なのかは誰もきちんと把握していない。過去の記録を見て実際の儀の内容さえわかれば資金の不安を減らすことができるかもしれない。そうなれば問題は案外簡単に解決するかもしれない。そういった淡い期待を抱いていた。

 ───しかしそれでは文献が出てこない内は手をこまねいていることしかできない。悠長に構えているとトキの巣立ちの方が先になってしまう可能性が出てくる。それは避けなければならぬ。

 他に何か手はないだろうか、と頭を悩ますが、何も思い浮かばない。仕方がないので蝋燭の火を消し寝台に横になった。

 横になって目を瞑り、先代天元が過去に言っていたことを思い出す。



 先代・桂宗天元は五十になる前に胸の病で亡くなった。昔から体が丈夫ではないとは言われていたが、まさかこんなに早く亡くなるとは杏化天元は思ってもみなかった。それはトキも同じだったのだろう。桂宗天元が寝台から起き上がれないと役人たちから聞けば、いつでも刻殿から寝殿へと直接走ってやって来て励ましていた。

 トキが不安そうに桂宗天元を見守る姿を、杏化天元はよく覚えている。桂宗天元の両手を握り、いつも真剣に声をかけていた。桂宗天元が不安にならないようにその顔には笑顔を浮かべて。

 ───あの時、人と違い長く生きているトキでも不安になることはあるのだなと思った。………宮中では天元を太陽、トキを月と例えることがある。トキは自分の太陽を失う恐怖を、ずっと抱いていたのかもしれない。

 ある日のことだった。今日はもう起き上がれないと桂宗天元が朝からずっと伏せっていた。その日は朝から雨模様で空気は湿っぽかったのを杏化天元はよく覚えている。その雨の中をいつものようにトキは駆けてきて、そして濡れたまま桂宗天元の言葉を一つひとつ丁寧に聞いて廟議に参席しに本殿へと戻って行った。

 その頃はまだ桂宗天元が廟議に参席できなくなるのは珍しいことで、おそらく大氏たちの不満はそこまで大きくはなかった。天元の不在を不安視する声は宮中内にあったものの、それはまだ遠い先のことだと感じていた。

 トキが廟議の間に行った後、当時はまだ皇子だった杏化は桂宗天元の枕元に近付き尋ねた。

「父様、トキはどうしてあんなにも必死に父様のことを思ってくれるのですか?」

 ───とても無邪気な質問だったと、今では思う。

 杏化皇子の問いに桂宗天元は穏やかに笑った。

「私とトキは一心同体。私の願いはトキの願いであり、トキの希望は私の希望。互いに国の安寧を祈り、そのための労力を惜しまないと誓い合った。私たちは同じ目標を持つ戦友なのだ。戦友が倒れたら心配するのは当然のことだ。そうだろう?」

 杏化皇子は桂宗天元の言葉に少し首を傾け、想像した。杏化皇子が物心つく頃には争いがかなり平定され、地方で頻発する戦は小規模なものばかりとなっていた。だから戦友という言葉がいまいちわからなかったのだ。

 しかし、想像することは誰でもできる。

 ───自分と同じ方向を見てくれる人。互いに支え合える関係。片方が悩めばそれを励まし、片方が泣き言を言えば叱咤激励してくれる。そして相手は神の御使。その言葉は民の言葉であり、国の行く末を照らす者。それが戦友だと言えた父は死ぬ直前まで幸せそうだった。

「父様。トキは私の戦友になってくれるでしょうか?」

 いつかは天元の地位を継ぐ。それは幼い頃からの教育で身に染みてわかっていた。しかし杏化皇子にはあのトキが自分の見方をしてくれるとは思えなかったのだ。

 ───あのトキは父をいつも思っていた。それが、代が変わったからと言って自分を向いてくれるとは思えなかったのだ。

 だから実際に天元になった時、トキに対してどのように対応すれば良いのかまるでわからなかった。桂宗天元のように互いを戦友と認め合う関係を築くのは気が引けたし、だからといってそれ以外の関係を模索する心の余裕はどこにもなかった。



 桂宗天元はある日の朝に突然、寝台で冷たくなって死んでいた。それを一番最初に発見したのは杏化皇子だった。大声を出して世話役たちを呼び、医者を呼んだ。けれどすでに冷たくなっていた桂宗天元を生き返らせることなど、誰にもできなかった。

 周囲はすぐさま杏化皇子を天元にすることで意見を統一し、慌ただしく行動を開始した。杏化皇子は桂宗天元の遺体と二人きりで寝室に籠り、ただ時の成り行きを見守ることしかできなかった。

 ………トキが寝殿にやってきたのは夜になってからだった。その日は朝から宮中内は桂宗天元の死で大騒ぎで廟議は開かれなかった。だからトキは廟議が始まる前に寝殿に来ることがなかったのだ。

 寝室には桂宗天元の遺体と杏化皇子しかいなかった。役人たちは葬儀の準備に追われていたし、世話役は杏化皇子を天元にする準備に追われていた。誰も二人のことを気遣う余裕はなかったのだ。

 トキが寝殿にやって来た時、杏化皇子はまだ起きていた。だからその時のトキを側でずっと見守っていた。

 桂宗天元の遺体を見るトキの表情には驚きや悲しみはなく、大きな喪失感を抱えていたことだけはわかった。白と桃色の髪のせいで肌がより白く見えるのに、その日は幽霊ではないかと思う程に顔色が優れなかった。

 ───トキは、桂宗天元が死ぬことを何処かで感じ取っていたのかもしれない。連日急ぎ足で会いに来てその手を大事に握っていた。父の言葉をその耳で聞き、皆に伝えていた。少しずつ弱っていく姿を一番身近に感じていたのは私ではなく、トキだった。

 トキは桂宗天元の遺体を見て、その側にいつものように跪いた。

「桂宗………………お疲れ様」

 小さく、そう呟いたのが杏化皇子には聞こえた。

 その姿を見ながら杏化皇子が思い出していたのは、桂宗天元への質問の答えだった。

「トキが杏化の戦友になるかどうか、か。さて、それはどうだろうな?」

「難しいでしょうか? ………私は戦に出たことがないから」

 馬の乗り方、刀の扱い方、衛士たちへの指示の出し方。それらの技術は教育の一環として教えられていた。しかしそれらはあくまで教育であり実践ではない。それが杏化皇子に不安を与えていた。

 桂宗天元は落ち込む杏化皇子の頭を優しく撫で、大切なことを言った。

「戦友にはなれんかもしれん。これからは戦のない世にしていかなくてはならないからな。戦友のような関係をトキと築くのは難しいだろう。そうだな………戦友ではなく、友になればいい」

「友、ですか?」

 杏化皇子は桂宗天元の言葉に、俯いていた顔を上げた。そこには桂宗天元の優しい笑みがあった。

「そうだ。藍明は杏化の親族であるのと同時に友だろう? それと同じようにトキには戦友ではなく友になってもらえ。血のつながりはなくてもトキなら家族のような友になってくれる。お前の力になってくれる。信頼に値する存在だ」

 杏化皇子は桂宗天元の言葉の意味をしばらく考え、そして頷いた。



 ───どうして忘れていたのだろう。

 暗闇の中、杏化天元は目を覚ました。室内は月光に照らされて薄暗いながらもどこか明るさを感じた。

 杏化天元は寝台から体を起こし、両膝を立てて両足を両腕で抱えた。そして先代天元の言葉を反芻する。

 先代天元が亡くなった翌日は宮中の役人たちが準備してくれた手順で盛大に葬儀が行われた。そしてそれに引き続いて杏化天元の即位が行われたのだった。目まぐるしく環境が変わり、役目が変わった。その忙しさで今の今まで父からの教えを忘れていたのだ。

「トキと、友になる」

 暗闇の中、一人呟いてみる。

 ───そうだった。父からそれを聞いたとき、それなら自分でも出来るのではないかと思ったのだ。それなのにそれをすっかり忘れ、このような事態に陥ってしまった。まったく、情けない。

 杏化天元は月光から目を離さず思考を巡らせる。空には雲がたなびいているためか、月明かりは強くなったり弱くなったりを絶え間なく繰り返す。その度に室内は水の中にいるかのように色合いを変化させた。

 ───大氏たちは、先代天元の時代にトキに対して文句を言わなかったのは、先代天元とトキが戦友であることをよくよく承知していたからかもしれない。しかし、私はトキと戦友ではなかった。そして友でもなかった。単なる天元とトキの関係だった。だから彼らはトキを排除しようと動いたのかもしれぬ。

 国の中心は天元であり、トキはそれを支え導くのが役目である。しかし天元その人がトキを必要としないのなら、大氏たちもまた必要としないのは当然である。必要でないのなら追い出してしまえ、と彼らが考えたことに、杏化天元はようやく思い至った。

「なら、どうする」

 トキとの関係を修復し巣立ちを止めさせることは今更不可能なのはわかっていた。トキが一度言ったことを簡単に覆すような行動をとれば、なおさら大氏たちから反発に遭うのは目に見えている。だからトキの巣立ちは止められない。

 だから杏化天元はトキが巣立ちの旅から戻ってきた後のことを考えなくてはならない。旅から戻って来たトキの側には、次のトキがいる。そのトキとの関係をきちんと築く。そして次の天元とそのトキの関係を取り持つ。それが、杏化天元ができる唯一の行動だ。

 ───そのためにも、トキをきちんと送り出してやらなければ。

 寒い冬の出立になる。だからこそ彼の旅の安全を祈願する壮途の儀は必ず執り行わなければならない。でなければ、トキとの関係はますます悪化するだろう。そうなればトキは新しいトキを杏化天元に会わせようとしないかもしれない。

 そうなれば、天元家はトキを永遠に失うかもしれない。

「信頼に値する存在、か」

 杏化天元は寝台から降り、空を見上げた。そこには冷たい空気の中、光り輝く月が煌々と夜空を照らしていた。

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