11 供
トキから旅支度の命を受けて、阿瀬美はまず最初に刻殿で働く女官たちの次の仕事先を探し始めた。どの女官もそれぞれに能力がある。彼女たち能力を活かせ、それに見合う給金を受け取れる仕事先を見つけるのは容易いことではない。
一日中宮中内を駆けずり回り、幾つかの候補を見つけた。それを持って各女官たちと話をしよう。そう考えて阿瀬美が刻殿に戻ってきたのは空が夕日で赤く変化していた時刻だった。
阿瀬美が帰ってきた時、刻殿の出入り口には蓉奈が一人、俯くような姿勢でぼんやりと地面に視線を落としていた。顔色は悪く、その表情は暗く沈んでいる。普段見ることのない落ち込み様に阿瀬美は驚き駆け寄った。
「蓉奈、どうしましたか」
声をかけると、ゆるゆるとその視線を阿瀬美に向ける。蓉奈の瞳は途方に暮れたような、深く濁った色をしていた。
「阿瀬美姉様………おかえりなさいませ」
「ええ、ただいま戻りました。それで、こんなところでどうしたのです?」
阿瀬美は蓉奈の肩を抱いて刻殿へと入る。日が傾いたため刻殿の中は外よりも薄暗くなっていた。あともう少ししたら松明を用意しなければならなくなる。その作業をするのは阿瀬美の仕事だ。少し急ぎたい気持ちもあったが、蓉奈の様子が不安で仕方ない。
阿瀬美は薄暗闇の中、蓉奈の様子をじっと観察する。蓉奈の手には銀杏の入った袋が握られている。掃除をする際に銀杏の実を採ってくると言っていた、これはその実だろう、と阿瀬美は思った。
阿瀬美はそっと、蓉奈から銀杏の入った袋を受け取った。
「銀杏、こんなにも採れたのですね。トキ様がお喜びになられます」
───何か話さなければ。
そう思い阿瀬美は優しく声をかけたが、蓉奈は固い表情のまま頷くだけで、何も言わない。
───蓉奈はまだ十二歳。幼いながらも良く働くので重宝しているが、こうして塞ぎ込むことが今までも何度かあった。今回もそれであろう。
阿瀬美は廊下を歩きながら蓉奈に話しかける。
「トキ様にお出しするお料理は何にしましょうか。銀杏を美味しく食べるには湯がくのも良いでしょうが、やはり炒るのが一番でしょうね。蓉奈はどうですか?」
尋ねるが、蓉奈は何も反応しない。ただ阿瀬美の隣を付き従って歩いているだけで、そこに蓉奈の意志は感じられなかった。
廊下を真っ直ぐ歩き突き当たりを右へと曲がる。そこに刻殿の台所があった。刻殿はトキの住まいである。なので本殿や書殿とは違い、台所が設けられているのだ。台所ではすでに二人の女官が夕餉の支度を始めていた。野菜を切る音、湯を沸かす音が廊下に流れ聞こえてくる。二人の女官の笑い声も合わせて聞こえた。
阿瀬美は台所の手前で足を止め、蓉奈に視線を合わせるようにして膝を折る。その目を覗き込むが、蓉奈はぼんやりとした視線でそれを拒否した。
「蓉奈、何か思い悩むことがあるのですか? もしよければこの阿瀬美に話して聞かせてくれませんか?」
阿瀬美の声かけに、蓉奈の瞳の奥が一瞬揺れる。話そうか、話すまいか。その感情の揺れに耐えるようにして何度か口を開けては閉じを繰り返した後、最終的に蓉奈は視線を床に落とした。
「阿瀬美姉様………私は刻殿を離れなくてはならないのでしょうか?」
消え入りそうな声でそう言った。
───それが落ち込んでいた理由なのか。なんと、いぢらしい。
あまりの塞ぎ様に何かとんでもないことでも起きたのではないかと不安になっていた阿瀬美だったが、蓉奈の悩みが思いのほか子供らしいものであったことにほっと胸を撫で下ろす。
───蓉奈は、刻殿を離れることを不安がっているのだ。
「………そうですね。トキ様が次のトキを迎えに旅立たれるのです。そうなれば刻殿は一時閉鎖となります。ここにいても仕事はありませんし、お給金も出すことができません。そうなると生活に困ってしまうでしょう? ですから新しいところに行ってもらうようになります」
阿瀬美は諭すように言葉をかける。しかし、蓉奈は服の裾をきつく握りしめて黙っているばかりで何も言わない。薄暗がりの中であるにも関わらず、蓉奈が唇を噛み締めているのが見てとれた。
そっと、その手を撫でる。
「いろいろと不安はあるかもしれませんが、蓉奈が働きやすい場所を精一杯探します。だから、私を信じてもらえませんか?」
「………私は、どうしたらよいのでしょうか」
あまりの切羽詰まった声色に阿瀬美は心底驚いたが、それを隠して平静とした。
───不安になる気持ちはわかる。蓉奈にとって刻殿は初めての働き口であった。それがトキ様の巣立ちで突然失われてしまう。初めてのことに恐怖を覚えているのだろう。それは仕方のないことだ。だが、これほどまでに怯えるとは思ってもみなかった。やはり、どんなに働きがよくあっても十二歳。子供であることに変わりはないのだ。
そう考え、阿瀬美は蓉奈の頭を優しく撫でる。蓉奈はそれを静かに受け入れた。
「悲しいことですが、堪えてください。そんなに心配しなくても大丈夫。蓉奈は器量良しですから新しい仕事先でもすぐに馴染んで立派に働くことができますよ」
少しでも不安な心を慰めようと思ってそうしたのだが、蓉奈は阿瀬美の言葉を聞いてそれを振り払うようにして突然その場で平伏した。そのことで阿瀬美の手は空中で止まり、驚きを隠せなくなる。
「蓉奈、何を」
「阿瀬美姉様、お願いでございます。………私も一緒に連れて行ってくださいませ」
その言葉に、抱き起こそうとした手が止まってしまう。阿瀬美は蓉奈が言った言葉の意味を瞬時に理解できなかったのだ。それがわかってなのか、蓉奈は矢継ぎ早に言葉を続ける。
「私、足手まといにならないよう精一杯頑張ります。重たいものだって持ちますし、力仕事だって頑張ります。危険な所にだって付いて行きます。我が儘は決して言いません。だからお願いします、トキ様の旅に同行させてください」
「蓉奈、それはいけません」
阿瀬美はその場に座り、蓉奈を起こそうとその肩に手を添える。触れると、蓉奈の肩は小刻みに震えていた。彼女がただの気まぐれでそのようなことを言っているわけではないのは感じられた。
それでも、許可することはできない。
「今年の冬は寒さが厳しいそうです。雪が多く積もるかもしれません。それに、旅の資金も十分には用意できないでしょう。過酷な旅になります。私とトキ様の歩幅に合わせて子供のあなたが一緒に旅をするのはとても困難でしょうし、危険です。連れてはいけません」
「私、頑張ります。お願いします阿瀬美姉様。連れて行ってください」
半泣きの声で蓉奈は懇願する。とりあえず顔を上げさせようとしてみるが、蓉奈は頑なに表を上げない。蓉奈が見せる初めての強情な行動に阿瀬美は戸惑った。
───まるで駄々をこねるかのような行動。蓉奈がこんなにしてまでトキ様のお側を離れたがらないのは、初めて見た。
蓉奈は阿瀬美とは違い、刻殿で働くことに誇りを抱いている風ではなかった。就いた仕事先が偶然刻殿であった、と考えている節を仕事の合間に何度も感じていた。そのことを阿瀬美は別になんとも思っていない。刻殿で働く者の多くはトキを特別視していたし阿瀬美もその内の一人ではあるが、だからといってそのように考えない人間を排除しようとは思いはしなかった。
そう感じていたのだが、その蓉奈が旅の同行をこれほどまでに必死に懇願する。その理由がまるでわからない。彼女がトキを特別視しその力になりたいと心の底から願うのならまだわかるのだが、蓉奈はそうではない。ただ彼女の中で何か不安があって、その不安のために同行を願い出ている。
───理由がわからなければ、説得の仕様が無い。
どうしたものかと思い悩んでいると、偶然そこにトキが通りかかった。どうやら夕餉の様子を見に来たらしい。トキは平伏し動かないでいる蓉奈とそれを困ったように見つめていた阿瀬美に気付き、声をかけた。
「阿瀬美、こんなところで何をやっているのかな?」
日が傾き廊下の暗闇が濃くなっていた。それなのに、トキの白髪は光り輝いているかのようにそこを明るくする。薄い桃色がいつもより濃く見えた。その美しさに一瞬、阿瀬美は心を奪われる。
「トキ様。………すみません、通路の邪魔をしてしまいまして」
「いいや、別に邪魔だなんて思わないよ。ただ不思議な光景だなぁと思って」
穏やかに笑うトキに阿瀬美はほっと胸を撫で下ろす。
───そうだ、トキ様に蓉奈を説得してもらおう。此度の旅路は子供には過酷すぎるとトキ様から説明されれば、さすがに蓉奈も諦めるに違いない。
阿瀬美はそう考えトキに声をかけようとするが、それよりも先に蓉奈が向きを変えてトキに平伏し懇願した。
「トキ様、無礼を承知でお願いします。私を旅のお供に加えてくださいませ」
「蓉奈、おやめなさい」
───このような無礼、するような子ではないというのに。
阿瀬美の制止も聞かず、蓉奈は言葉を続ける。
「冬の旅路は厳しいものと聞いております。甘く見てはいけないものだと理解しています。ですが私、精一杯頑張ります。弱音も吐きません。お願いです、連れて行ってくださいませ」
阿瀬美はトキを見て強く首を横に振る。危険な旅路に蓉奈を連れて行くなど、阿瀬美はとても許可する気持ちになれなかった。
それを見てトキは視線を平伏したままの蓉奈に向ける。蓉奈の叫びにも似た懇願に、トキは首を傾げ少し考え、そして頷いた。
「そうか。ならおいで」
「トキ様!」
思わぬ言葉に阿瀬美は咄嗟に叱責してしまう。トキは慌てる阿瀬美を見て穏やかに微笑んだ。
「いいじゃないか。本人が頑張ると言っている。なら、それを信じてあげよう」
「ですが、子供が大人二人に付いて旅するのは並大抵のことではありません。ましてや時期は冬。耐えられるものではないでしょう。この子にもしものことがあっては、私」
───可愛らしい子だと思っている。その子が一時の気まぐれで旅に参加し命を落とすようなことはあってはならない。ましてや女の子だ。この旅で一生癒えない傷を抱えるかもしれない。そうなれば彼女の将来に禍根を残すことになるかもしれない。それは絶対に避けるべきだ。
阿瀬美はそこまで思うと、不安で思わず手が震えた。
「私、蓉奈を連れてなど行けません!」
阿瀬美の言葉に蓉奈は伏せていた顔を上げ、阿瀬美を見た。その表情には驚きがあった。
トキは阿瀬美の心配を拭うようにして微笑み続ける。
「大丈夫だよ、阿瀬美。確かに旅は過酷で辛いものになるだろう。危険だって伴う。けれど、だからといって逃げていてばかりではいけない。僕はそう思う」
蓉奈は視線を阿瀬美から外し、静かにトキを見た。その表情には安堵と、まさか許してもらえるとは、といった戸惑いが混じっていた。
「蓉奈、君の気持ちを僕は応援するよ。君が付いてきたいと言うのならそれを止めはしない。君の思うままに決めなさい。でも、自分の命は自分で守ること。いいね?」
トキの言葉に蓉奈の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ありがとうございます、トキ様………………申し訳ございません」
蓉奈は再びトキに平伏する。トキは蓉奈の言葉に頷き、阿瀬美から銀杏の入った袋を受け取った。中身を確認してからそれを持って台所へと行ってしまう。
阿瀬美はその後ろ姿を見ながら、なんと言ったらよいのかわからない気持ちに包まれた。
───冬の旅立ちは危険なものだ。足元が覚束無く気温で体力を奪われ満足に睡眠や食事にありつけない日々が続くだろう。命の危険と隣り合わせな旅になる。そんな危険な旅に蓉奈を連れて行くことへの恐怖はとても大きい。
しかしそれと同時に、トキが大丈夫だと判断したのなら、安全な旅ができるのではないかという予感が芽生えつつあった。蓉奈の成長を思い信じたその姿に、敬愛の念が強くなる。
「蓉奈」
気がつけば啜り泣きをしていた蓉奈に阿瀬美は声をかける。蓉奈の表情には戸惑いと安堵、そしてこれからの旅路への恐怖がないまぜになっていた。
───トキ様がお許しになられたのだ。なら私はそれを信じるまでのこと。
「明日からは旅支度のための準備を本格的に開始します。その手伝い、よろしくお願いしますね」
「………はい。阿瀬美姉様」
目元を必死に擦りながら蓉奈はしっかりとした声で返事した。
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