8 雀居家
杏化天元は柚比家をお暇すると、休むことなくすぐに雀居の家へと向かった。日を改めて訪問すべきなのだろうが、あまり悠長にしていてはトキが旅立ってしまう。その恐れから日を跨ぐのを避けたかった。
雀居家は柚比家から一番近い大氏の家だ。そのため柚比家を出てからすぐに、少し離れた場所から建物の屋根の一部を見ることができた。雀居家は大所帯なため、建物はどの一族の家よりも大きい。そして杏化天元の友である藍明はこの家の出身である───彼は雀居家の人間である。
雀居家は平野の日当たりの良いところに建っていた。雀居家は柚比家とは違い、川からは離れた位置にあるのだ。そのため家の周囲は田んぼで囲まれていて、その田んぼでは農民たちがせっせと米の収穫を行っていた。この田んぼは雀居家直轄の農地の一部である。
杏化天元はその風景を見つつ馬を歩かせ雀居家へと辿り着いた。
家の前に行くと、一人の少女が庭先に生えている立派な柿の木を見ていた。柿の木には緑から橙へと色が変化しつつある柿の実が実っている。来週か再来週には収穫できそうな様子だった。それが物珍しいのだろう、少女はずっとそれから視線を外そうとしない。
杏化天元はその少女に声をかけた。
「失礼する。雀居氏はいらっしゃるだろうか」
その声に振り向いた少女の顔を見て、杏化天元はそれが誰だかすぐにわかった。
それは相手も同じだった。少女は杏化天元に丁寧にお辞儀する。その優雅な仕草に、彼女が高貴な身分であることが察せられた。
「杏化天元様、お久しゅう御座います」
「
「はい。これも天元様とトキ様によるご加護かと」
紅流葉と呼ばれた少女はそう言って穏やかに笑った。
紅流葉は藍明の妹である。歳は藍明の八つ下。本来なら嫁入りの歳なのだが、昔から体が弱く長時間外に出ると数日寝込んでしまう。そんな彼女を両親は常に心配し無理に嫁がせるようなことをしたがらなかった。
杏化天元が最後に紅流葉に会ったのは、天元の役目を担う前のことだった。その頃は体調が優れずこうして外で出会うということなど一度も出来なかった。
───その彼女が今日は外に出ている。調子は悪くなさそうだ。
紅流葉が柿の木を見上げるのにつられて杏化天元も見る。
「今日は少し冷えますが心持ち体が軽く感じられまして、こうして柿の木を見に出てきたのです。そしたらこんなにも実をつけていて。この間まではまだ何もつけていなかったというのに、あっという間ですね」
「ええ。あと数週間もすれば食べられるかと」
「はい。楽しみができました」
紅流葉の笑顔を見て、杏化天元は柚比に乱された気持ちを幾分か落ち着けることができた。今しばらくはこうして一緒にいようかとも思ったが、その気持ちを押し込め雀居家を見る。
「雀居氏は今日はまだ帰宅されていないのだろうか」
「
「そうか。ありがとう」
「私、案内します。どうぞこちらへ」
紅流葉の申し出を断る理由はない、杏化天元は素直にそれに従った。衛士が二人、その後に従う。紅流葉はそれを見て一瞬驚いた表情をしたが、すぐに何事もなかったように家の中へ案内した。
杏化天元は藍明に会いに何度か雀居家を訪ねたことがある。その度に家の大きさと人の多さに微笑ましい気持ちになった。しかしそれも天元になる前の出来事で、敷居を跨ぐのは久方ぶりである。
久しぶりの雀居家は以前訪れた時と何も変わってはいなかった。常に部屋の向こう側で誰かが楽しそうに話す声、子供が走る足音、物を動かしている音、炊事の音が聞こえた。
───いったいこの家に何人の者が住んでいるのだろう。
杏化天元はここに来る度に思う疑問をこの日も考えた。それほどまでにこの家は常に賑やかで、温かみがある。
「私、利鉉様を呼んで参りますね。しばらくこちらでお待ちください」
紅流葉は杏化天元を客間へと案内した。そこは雀居家の者たちが住んでいる区画からは少し離れた場所に位置し、賑やかな生活音が幾分か遠くに聞こえる所だった。衛士たちは客間の出入り口に座り外を見張る。杏化天元は客間の中に入り、何故か床に転がっていた竹の玩具を一つ見つけた。おそらく子供が持ってきてそのまま忘れていったのであろう。杏化天元はそれを手に取り眺めた。
雀居家の客間に通されたことは一度や二度ではない。藍明を訪ねて来た時は必ずこの部屋に通された。久しぶりに通された客間から見える庭は、雀居家らしいあまり手入れをしていない雑多な様子であった。それがまた杏化天元を安心させた。
少ししてこの家の長に相応しい賑やかな声が廊下から聞こえた。
「いやいやまさか杏化天元が家に来られるとは! いかがなされましたかな?」
雀居である。廟議で会った時と変わらず愛嬌のある雰囲気に、杏化天元は思わず微笑んでしまった。
「突然来てしまい申し訳ない。少し話をしたくて」
「やや、この私と話ですか! それはどのような話なのでしょう?」
雀居が杏化天元の前に腰を下ろす。その後すぐに雀居の妻・
比付は雀居と違い恰幅のよい大柄な女性である。雀居の隣に座るとその大きさが際立って見えた。
湯呑みを渡し終えてほっとしたのか比付が晴れ晴れとした表情で杏化天元に叩頭した。
「あらあら、杏化天元様、お久しぶりですねぇ。ついさっき紅流葉が来たと言った時は嘘かと思いましたよ。まあまあ、お元気そうで何よりですわ」
「ご無沙汰しています。比付さんもお元気そうで何よりです」
「風邪をひかないことだけが取り柄でございますからねぇ」
そう言って笑う比付の腰を雀居が肘でつつく。
「比付、杏化天元が俺に大事な話があるようなんだよ。だからお前は向こうに行っておいてくれねぇか」
「まあ、大事な話? ついに嫁さんをもらう気になったのかい?」
比付の言葉に杏化天元は困ったように笑うしか出来なかった。
杏化天元は二十二。嫁をもらってもおかしくない歳ではあるのだが、どの嫁を貰えば一番波風が立たないのかを考えると迷うばかりで積極的になれなかった。しかし後継ぎがいつまでもいないというのは問題である、決められないからと言って悠長であっては困ると考えた世話役たちは、ここ最近は妃ではなくまずは妾を用意しようかと話し合っている。それがまた杏化天元の悩みの種を増やしていた。
その事情をなんとはなしに知っていた雀居は無理矢理比付を立たせて部屋から追い出し始める。
「お前がいると話がややこしくなる! さっさとあっちへ行きな!」
「まあ、なんてひどい
そんな小言を数度繰り返し、そして比付は向こうへと行ってしまった。
「杏化天元、申し訳ない! 育ちが粗野なもので、失礼ばかり」
「いいえ。そんなことありません。………早く決めてしまえば良いのでしょうが、なかなか出来ない私が悪いのです」
そう言うと杏化天元は持っていた湯呑みの茶を一口飲んだ。柚比家で出されたものとは違い、この辺りの役人たちが手頃な値段で買っている安価なお茶だ。飲み口は少し苦いが、これはこれでまた味がある。
「………まさか、本当にそう言ったお話でございますか?」
杏化天元の言葉に驚いた雀居が恐る恐る尋ねる。それが可笑しくて杏化天元は口元を緩ませながら首を横に振った。
「なら、話はトキ様のことでしょうか?」
真剣な表情に切り替わった雀居に驚きながら、杏化天元は頷く。
「そうだ。………なぜわかった?」
「そりゃ、今朝のことは私も大変驚きましたから」
雀居は居住いを正し杏化天元を真正面から見た。小柄ではあれど、一家の長であるのは違いない。真正面に見据えると多少の威圧感を感じざるを得なかった。
「天元様はやはり、壮途の儀を執り行うべきだとお思いで?」
───話の早い人だ。さすがは雀居。
杏化天元はそう思いつつ、雀居の言葉に頷く。
「ああ。出来ればしてやりたい。だが、皆は冬への備えの方が気になるようだ。しかしそれは建前のようにも思える。本音のところはどうなのか、それが気になった。雀居は何故、壮途の儀を執り行うことに反対なのか。教えてもらえると助かるのだが」
杏化天元の問いに雀居は眉を寄せ目を瞑る。
しばらくの間そうしていたが、何かを決心したかのようにゆっくりと息を吐いた。
「………天元様は平時に刻殿に行かれたことはおありですかな?」
「刻殿へか? いや、ないな」
刻殿はトキの住まいである。本殿の左側に建てられてはいるが、基本、天元や役人たちがそこに立ち入るのは観月の宴の時のみとなっている。立ち入りが禁止されているわけではないのだが、天元が移動するとなれば衛士が付き従うのが慣例だ。だから天元が刻殿に行くよりもトキが直接寝殿に来る方が事が早く済む。
先代天元が存命だった頃はまさにそれで、トキは事あるごとに寝殿へとやって来てはその側を離れようとしなかった。先代天元が動けなくなった頃はひっきりなしに寝殿を出入りしていたのを、杏化天元は何度も見ている。
だから杏化天元は自分が刻殿に行く、という発想をこの時まで持っていなかった。
杏化天元の返答を聞いて雀居は困ったように頭を掻いた。
「私はトキ様と面会を求めて何度か訪ねたことがあるのですが、まあ、会ってもらえることはなかなかなかったのですがね。………あそこは異質です」
雀居の言葉の意味がわからず、杏化天元は首を傾げた。
「異質? 刻殿がか? それはどのように?」
刻殿は建物の作りが少し変わっている。そのことを指して異質と言っているのかと杏化天元は思ったのだが、そうではなかった。雀居は右手で顎をさすりながら言葉を探す。
「そうですなぁ………刻殿で働いている者たちは皆、トキ様ばかり見ている、と言えばよいのでしょうか。誰も彼もがトキ様を崇めている。国はトキ様がいるから成り立っていると信じているようでありまして………それが異質なのでございますよ」
そう言われて杏化天元は記憶を辿る。といっても辿れる記憶は昨年の観月の宴のみだ。その時には特にそのようなことは何も感じなかった。皆トキを敬っていたが、それはトキが刻殿の主なのだから仕方がない。それを疑問視する方が不思議に感じられた。
「気のせいではないのか?」
「気のせいなら良いのですよ。ですが、そうでもなさそうでして。………私もね、初めは気のせいだろうと思っていたんですが、でもまあちょっと調べてみようと思いまして、調べてみたんですよ。そしたらどうも怪しい。刻殿にはトキ様の言葉に盲目的になっている役人が何人かいるようでして。以前、伽耶の家の者が随分と物騒なことを言ったじゃないですか。あの時は少々荒っぽい者も出たらしく………この間の観月の宴、あれに参加されなかったでしょう? あれを深く恨んでいる役人が刻殿に何人かいるようなのでございますよ。まあ、恨んでいるから何かをするというわけではないみたいなのですが、困ったものです」
そう言って雀居は盛大に溜め息をついた。
雀居の言葉に、杏化天元に後悔の念が押し寄せる。
───刻殿の者からしたら、私の行動は非難して然るべきだっただろう。仕方のないことだったとはいえ………やはり、行くべきだったと思う。それを強く言えなかった自分が情けない。
雀居は杏化天元の気持ちを察せず一人話し続ける。
「国は、天元様が頂点にいらっしゃりそれを大氏が支えるからこそ成り立っているのです。その天元様のお気持ちを理解するのにトキ様がいる。それなのに天元様を差し置いてトキ様こそが大切なのだと考える刻殿の役人たちを、私は正直好きになれません」
雀居はそう言い切った。その言葉に杏化天元は少し気持ちが暗くなる。
「………彼らはトキの側で仕えているのだ。そういった心持ちになるのは仕方がないことではないのか?」
「気持ちがそうなるのは仕方のないことかもしれません。ですが、それを口外しそのような態度を取るのは間違っている、と私は思うのですよ」
雀居は自身の膝を手で叩く。良い音が鳴った。
「彼らを放置しておけば、もしかすれば天元様を追い出そうと画策するのではないか。私はそれを危惧しておるのです」
「………だから、壮途の儀を行うことは反対だと」
杏化天元の言葉に雀居は力強く頷いた。
「嘉穂の話では、トキ様には莫大な資金が流れているということでした。資金を潤沢に持ち、トキ様に盲目的な彼らを助長するようなことは、私はしたくありません」
雀居がそう言い切ったことで、杏化天元は項垂れるしかなかった。
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