5 旅支度

 トキが久々に廟議に参席すると聞いたとき、阿瀬美あぜみは喜び半分、不安半分といった心持ちであった。

 杏化天元が天元の地位を引き継いで少ししてから、トキは自身の寝室に引き籠もり表に出てこようとしなくなった。初めは体調が優れないのではないかと刻殿の役人や女官たちは不安がったが、徐々にそうではないという認識が広まった。しかし何故出てこようとしないのか、その理由がわからない。どうして引き籠もるのかを阿瀬美が皆を代表してトキに何度か尋ねたが、返事はいつも曖昧だった。

 宮中もトキの不在に慌てたのか何度か使者を送って寄越した。しつこく理由を聞かれたが、誰も答えることが出来ない。それが数度繰り返されて宮中も諦めたのだろう、いつしか使者は来なくなった。刻殿内部でも諦めの雰囲気が漂い始め、気がつけば誰もトキが表に出て来ない理由を尋ねることはなくなった。

 その頃くらいから刻殿を離れる役人や女官が徐々に増えていった。皆不思議と刻殿を離れざるを得ない理由ができたのだ。少しずつ刻殿から人が去り続け、今では刻殿を維持するのに最低限必要な人数しかいない。

 ───これもトキ様の導きなのだろうか。

 トキが巣立ちをする前に、できうる限り刻殿に務める人員を減らしておく。それが神の思し召しであり、導きなのかもしれない。阿瀬美にはそう思えて仕方がなかった。

 トキが巣立ちをすると発言したのは、ついこの間行われた観月の宴の席でだった。

 観月の宴は年中行事の中でもとりわけ、トキにとって大切な行事である。

 宮中において、天元は太陽を司り、トキは月を司るとされている。太陽は先を照らし、月は行く道を照らすのだ。

 観月の宴は、満月を祝う宴である。そしてまた、一年の豊作を祝い感謝する宴でもある。そこから転じて、天元はトキの照らした道に間違いがなかったことを確認し、冬を超えるための備えを行う宣言をする行事となった。

 例年ならトキが天元を刻殿に案内し、盛大に祝うはずだった。しかし、杏化天元はその宴に参加しなかったのだ───引き籠もり、すべての行事に参加することを拒否していたトキが唯一参加する宴だったというのに。

 これもすべては伽耶家が悪い、と阿瀬美は考えている。

 伽耶家は元々地方の小さな豪族だった。それが大陸からの技術を利用して急速に発展し、先代天元が在位の時に宮中まで上りつめたのだ。そのためなのか、伽耶家はトキの存在を、神の御使としてではなく意味不明な者として嫌っている。

『あれは人の形をした化け物だ。あれに国の行く末を任せるとは何事か』

 伽耶家の一人がそう発言したと、宮中で一度噂になったことがある。その噂を聞いた刻殿の者たちの怒りは凄まじかった。ある者は伽耶家に乗り込もうと言い張り、ある者はあんな家は燃やしてしまえと言い放った。トキはそれらの言葉を聞いて皆をなだめ、落ち着かせるのに三月みつきもかかった。

 そんな伽耶家は杏化天元がまだ幼い頃から世話役と言い張って側を離れようとしなかった家系だ。この行動に、恥知らずにも程がある、と阿瀬美は思う。杏化天元と伽耶家には血縁的繋がりは無い。それを関係者のように振る舞うのは愚か者のすることだと感じていたのだ。

 ただ、先代天元の妾に伽耶家の娘がおり、その一人が男の子を産んでいる。そのことが宮中内での心配の種にはなっていた。

 伽耶家が大名に選ばれてすぐの頃、初め、誰もがその存在を無害に思っていた。所詮は田舎者のすることだ、宮中には何の影響も及ぼせまい、そう甘く考えていたのだ。

 だが実際には効果があった。伽耶家は上手く先代天元と親密になり妾を何人も寄越した。その影響があってか廟議で決まる政策のいくつかは伽耶家の希望に沿う形になっていった。

 そして、その影響を受けた杏化天元はトキを毛嫌いし、観月の宴に参加しないことを決めることとなった。それはひとえに伽耶家の暗躍による賜物だろう。杏化天元がトキを嫌う下地はとうの昔から準備されていた。それが表面化したのが、観月の宴であったというだけのこと。

 トキが引き籠もり始め役人たちの中からトキを擁護する声が少なくなり、昔は華やいでいた刻殿は今では寂しいものとなっている。そんな中でトキが巣立ちを決意するのは避けられないことだったに違いない。それを思うと阿瀬美は悔しさと悲しみで胸が痛んだ。

 ───今日の廟議の席でトキ様は巣立ちのことをお伝えするのだろう。

 今朝、トキは廟議に参席することを阿瀬美に伝え、そして刻殿から出て行った。それだけを伝えるのならそろそろ帰ってくる時刻である。阿瀬美はどのような気持ちで迎えればよいのか、少し迷っていた。

 久々の廟議の参席は喜ばしいことだ。それはトキが本来の役目を果たすということに他ならないのだから。しかし、そこで話す内容は新しいトキを迎えるために宮中を離れるということである。それを聞いたトキを毛嫌いする杏化天元が何を思うのか、阿瀬美は冷めた気持ちで想像する。

 ───これで解放されたと喜ぶのか、それとも自身の行いを反省するのか。

 トキをぞんざいに扱った杏化天元を、阿瀬美は許すことが出来ない。

 ───しかし、時代は移り変わりつつある。

 トキが巣立つということはそういうことだ。それは誰にも変えようがない時の流れ。意外と杏化天元はトキの巣立ちをあっさりと受け入れるのではないか、と阿瀬美は思った。

 阿瀬美は今、一人で刻殿の床を布で拭いていた。以前なら掃除を行う担当の女官や小倅が何人もいたが、それも今では数が足りない。女官の中でも最年長の阿瀬美自身が毎日必死に体を動かさなければ間に合わない程に、刻殿を維持するためにはすることが多い。

「阿瀬美姉様、こちらの掃き掃除、終わりました」

 そう言って阿瀬美に駆け寄ってきたのは蓉奈ようなだった。トキの世話役として一昨年から刻殿に仕えている子で、歳の頃十二歳、女官の中でも一番機転が効き働き者であった蓉奈を阿瀬美は気に入っている。

「ありがとう。私はまだ時間がかかりそうです。蓉奈は庭の手入れをお願いできますか」

「はい。わかりました」

 蓉奈は阿瀬美の言葉に頷き、急ぎ庭先へと行こうとして足を止めた。そして小首を傾げて尋ねる。

「阿瀬美姉様、せっかくなら足を伸ばしていちょうの実を取ってきてもよろしいですか? たくさん取れたのなら今日の夕餉にトキ様に召し上がっていただきたいのですが………」

 蓉奈が言ういちょうは刻殿の敷地からは少し離れたところの山の麓にある。その場所にはいちょうの木が群生しており、毎年この時期に多くの銀杏の実を収穫することができた。

 蓉奈の提案に阿瀬美は頷く。

「それは良いですね。お願いできますか?」

「はい。では行ってまいります」

 阿瀬美は小走りで駆けていく蓉奈の後ろ姿を見送りながら、本当に機転の効く良い子だ、と思った。

 ───まだ十二だというのにあれだけ気を配ることが出来るのだ、将来は良い女官になるだろう。

 そう思っていると、

「今日は銀杏か。それは楽しみだ」

 という男性の声が背後からした。

 突然の声に驚いて振り向くと、縁側にトキが立っていた。廟議への参席が終わり玄関からではなく縁側から帰ってきたのである。その表情はいつもと変わらず穏やかであったが、どこか重荷を下ろしたような晴れ晴れしさを阿瀬美は感じ取った。

「トキ様、お務めご苦労様です」

 阿瀬美はトキに平伏する。その仕草は長年繰り返してきた無駄のない動きだった。

 そんな阿瀬美をトキは優しい眼で見、そして空咳をした。

「阿瀬美、怒らないで聞いて欲しいのだが」

「………はい、なんでしょうか」

 トキは阿瀬美の目の前で胡座をかき、穏やかに笑う。

 阿瀬美はそんなトキを目の前にすると、長年の経験でその後に続く言葉を警戒してしまう癖が出来上がってしまっていた。トキが前置きで怒るな、と言った時は大抵、阿瀬美の機嫌を損ねる提案をしてくる。

 今回もまさにそれだった。

「廟議の結果、壮途の儀は執り行われないこととなった」

 阿瀬美はトキの言葉に憤慨し、思わず持っていた布を床に叩きつけた。

「天元、大氏、大名は礼節も知らない恥知らずな集まりなのですね!」

 思わず出た阿瀬美の皮肉にトキは苦笑し、なだめるように優しい声で語り始める。

「そう怒らないでおくれ。阿瀬美の気持ちはとても嬉しいけれど、宮中には宮中の考え方というものがある。今回は時期が悪かった。だからこれは仕方のないことなんだよ。それに、良いじゃないか。僕としては宮中行事の堅苦しさから解放されるかと思うと晴れやかな気持ちになるよ」

「いけません! 壮途の儀は天元がトキ様にこれまでの感謝を述べる大切な行事。それを、宮中の厚顔どもがどう言おうとも無視してよいことではありません! それなのに、どうして」

 阿瀬美は俯き、自身が投げつけた布を睨んだ。その布は多くの汚れを拭き取ったため、あちこちがほつれ薄汚れて汚らしい。

 ───杏化天元はトキ様を嫌っている。だからこんなにも冷たい仕打ちを平気でなさるのだ。そんなにもトキ様がお嫌いならば、いっそ天元なぞ辞めてしまえばよいものを、いつまでも権力にしがみついてみっともない。

 次々と胸の内に溢れ出る悪態を阿瀬美は止めることが出来ない。

 そんな阿瀬美の様子を伺いながら、トキは彼女の疑問に応える。

「………今年の米の取れ高はよくないそうだ。それに冬の寒さも酷くなると噂されている。皆、それに備えるためにも少しでも資金を取り溜めておきたいようだった。だから儀は執り行わない方がよい、と言っていたよ」

「ですが、備蓄は長年積み立ててきたものがあるでしょう。それを使えば良いだけのはず」

「誰もそれを言わなかったところを鑑みるに、それじゃ足りないんだよ、きっと」

「きっと、などと曖昧な言葉を使わないでください」

 阿瀬美は膝の上で拳が白くなるまで強く握り締める。トキはそれを見て、その手を取りひと指ずつ開いていった。その優しい仕草に逆らえる程、阿瀬美は強くはない。阿瀬美は怒りで潤んだ瞳でその手を見ていることしか出来なかった。

「………トキ様は先代天元をお支えして国を栄えさせました。トキ様がいなければきっと、どこかで国は乱れていたでしょう。トキ様がいてこその栄華。私はそう考えます。そのトキ様に、天元たちはあまりにも酷い」

 阿瀬美は国の始まりの御伽噺を思い出す。

 山頂で国の安寧を祈った初代天元。それに応えた神。選ばれた一人の人の身に降り立った神の御使───トキ。トキは天元の夢を叶えるため、支え導く。それが役目。だからこそ、天元とトキが協力することで国は初めて栄え安定させることができるのだ。

 ───先代天元とトキ様、二人の仲が上手くいったから先代天元の治世は安定した。だから先々に向けての備蓄が進んだし、道や橋など大きな物が各地で造られ国は豊かになったのだ。そのことへの感謝を忘れ無駄だと切り捨てる役人たちがこの先、一体どのような繁栄を成すことが出来るというのだろうか。

 トキは解かれた阿瀬美の手を両手で優しく握る。

「阿瀬美は信心深いなぁ。でも、そう言ってもらえるのは嬉しいよ。ありがとう」

 トキは阿瀬美から視線を外し、庭を見た。外では秋空が広がっており、ゆっくりと雲が横に流れている。風に煽られてすすきが揺れた。吹く風が少し肌寒い。

「僕に出来ることは天元の望む道を照らすこと、支えること。それだけだ。それ以上は何も出来ない。けれど、今度の天元の望む道を、僕は照らすことが出来なかった。だからこれは仕方のないことなのだよ」

 阿瀬美はトキの言葉を聞きながら自身の力不足を悔やんだ。

 ───もっと私に宮中での発言力があったのなら、トキ様を冷遇する不届者を一人ひとり説教して回ることができたというのに。

 しかしその悔しさもトキの手の温もりで少しずつ癒されていく。それが少し嬉しく、悲しかった。阿瀬美は荒れる心を鎮めるため何度か深呼吸し、ようやく気持ちを落ち着け顔を上げ、トキを見た。

「トキ様。壮途の儀が行われないとなれば、いつ頃出立いたしますか?」

 ───儀が行われない宮中に居続けても無駄である。なら、一刻も早くここを出て次のトキを迎えに行くのが賢明だ。

 阿瀬美の問いにトキはそれまでの穏やかな表情から一変し、真剣な表情に変わった。

「そうだね。出来れば冬は越してからが良いのだが、そうのんびりとしていては大氏、大名からの反発はより強くなるだろう。申し訳ないが、年明けにすぐ出立する」

 トキの言葉に阿瀬美は頷く。

 年明けすぐの出立となれば寒さの厳しい旅路になるだろう。例年の寒さならいざ知らず、今年は昨年よりも酷いと噂されている。道中は過酷なものになるに違いない。

「そのためにも刻殿で働く者たちの次の働き先を至急探しておくれ。新しいトキを迎えるのがいつになるのかわからないのだから、それまで彼らを刻殿で待機させておくわけにはいかない。でないと、彼らも生活が成り立たないだろう」

「わかりました。そのように」

 トキが刻殿を離れれば役人のほとんどは不要になる。そうなれば彼らは無給金でトキの帰りを待ち続けなくてはならない。そのことを案じての発言だった。

 阿瀬美は頭の中で刻殿で働いている役人や女官たちの顔を一人ずつ思い出す。彼ら彼女らの次なる働き口、それを年明けまでに急ぎなんとか見つけなくてはならない。もし彼らの働き口が見つからないとなれば、それを材料に今よりも更にトキへの批判が高まるだろう。それはなんとしても防ぎたかった。

「それと旅費のことなのだが」

「ええ、わかっております」

 トキがすべてを言わなくても、言いたいことはわかっている。

「壮途の儀を行うことも儘ならない。そんな中で旅費を出してくれと願ったところで応えてはもらえない、ということですね? では刻殿にあるものを金銭に換え、それを出ていく者へのお礼と旅費に当てましょう」

 阿瀬美の言葉にトキは申し訳なさそうに小さく頷いた。

 刻殿はトキの住まいであり執務室でもある。故にそこにある物品は宮中の物ではなくトキの所有物という扱いになっている。なので形式上、そこにあるものをトキがどのように処分しても問題にはならない。

 阿瀬美は刻殿の倉庫にあるものを一つひとつ思い出す。どの品を売りどの品を残すのか、そしてどのくらいの価格で売るのか、得た金銭のどのくらいを使いどの程度を残すのか、何を買い揃え旅に備えるのか。その判断と行動をすべて年明けまでに終わらせなくてはならない。

 そうと決まれば愚図愚図と悩んでいる時が惜しい。そう感じた阿瀬美は投げ捨てた布を拾い上げた。のんびりと刻殿内を掃除をしている場合ではなくなったのである。

「トキ様。私はこれから急ぎ旅支度を始めます。出立まで少々手が届かない面も出てくるかと思いますが、お許しください」

 阿瀬美はトキに平伏し許しを請うた。

「ああ。よろしく頼む」

 トキの優しい声が阿瀬美の耳に聞こえた。

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