1 杏化天元

 夏が過ぎ秋が深まりつつある頃。朝早くの宮中の気温はとても低く感じられた。板を貼り付けた床は素足で歩くには冷た過ぎる程で、素足で歩けば指先はほんのりと赤く染まる。日が徐々に昇り生き物が起きる手前の一刻、空気の揺らぎの少ないその時刻に宮中内を散策すれば、その静謐な空気に圧倒されるだろう。

 杏化天元は早朝に起き自室を抜け宮中内を歩くことを好んでいる。宮中内の至る所に見張りの衛士たちはいるが、従者や役人たちは不在。誰かに声をかけられたり下手な挨拶をされることもない。天元という役職に就いた人間がなかなか得ることが叶わない自由なひとときを過ごせるからだ。

 杏化天元は自室を抜け、寝殿内にいる人間たちの目を覚させないよう気をつけながら本殿へと足を運ぶ。秋の深まる冷たい空気が杏化天元の鼻先を冷やしほんのりと赤らめる。

 杏化天元は静かな廊下を一人歩きながら、これからのことを思案した。



 杏化天元が天元の地位に就いて今は二年目。年明けには三年目を迎える。先代の桂宗天元の治世は国の繁栄と栄華を誇り、宮中は絶えず賑やかであった。しかし後年は病に犯され判断を誤ることが多くなり、国の栄華は萎んでしまった。

 先代天元が亡くなり当初の予定通り第一皇子であった杏化天元がその地位を引き継いだのが、年明けてすぐのこと。大地に雪が降りしきる中での就任となった。

 杏化天元は幼い頃から第一皇子として丁重に扱われ、次期天元としての教育を受けて成長した人間である。礼儀作法、言葉遣い、儀式の知識、国の運営方法、役人たちの扱い方、資金の流れなどの知識。様々な情報を得て思考し伝える技術を身につけてきた。そのため誰もが彼が天元になることに何も不安を抱かなかった。

 杏化が天元となれば、国はまた桂宗の頃のように栄えるであろう───国の役人たちは皆、そう考えていた。

 しかし、予想外の出来事が起きた。トキが刻殿に引き籠もったのである。

 トキとは神の御使である。神が人に宿り一体となった存在で、天元を支え導くのがその役目。トキの言葉は民の言葉であり、神の導く先の言葉。トキの想いは民の願いであり、トキの行動は神の思し召し。故にトキは国の安定を導く神の御使なのである。

 そのトキが、杏化天元を支えようとしなかった。

 理由は宮中内で様々に噂された。杏化天元はトキを毛嫌いし追い出したのだ、いや杏化天元をトキが認めなかったのだ、いやその逆でトキが杏化天元を見捨てたのだ、そうではなく二人の折り合いが悪くトキが出ていったのだ───噂は噂を呼び、宮中内は混乱に陥った。杏化天元はそれをなすすべなく見守ることしかできなかった。

 その噂に感化されたのか、側近たちがトキを追い出そうと動き始めた。その動きは就任してからすぐの頃から多少はあったが、それが酷くなったのは杏化天元在位一年経ってからのことである。

 トキは天元を支え導き国に安寧を与える神の御使。そのトキを労う、年に一度の宮中行事に観月の宴がある。これは天元を太陽、トキを月になぞらえて行う宴であり、天元の日差しを受けて光り輝くトキがその道を照らす、そしてそのトキの働きを天元が感謝する宴である。それ故、天元とトキの関係性を改めて確認する宮中行事の中でも重要な儀式の一つであった。

 その観月の宴を、杏化天元は今年参加しなかった。側近たちが参加することに否定的だったからである。むしろ彼らは宴を開くことさえ反対していた。それをなんとか押し留めた結果が、杏化天元の宴への不参加である。

 このことにより宮中内でのトキを排斥する動きはより活発になっていた。



 宮中は周囲を山に囲まれた盆地に存在する。初代天元が国を作った時からここに宮中は置かれ、一度も移転をしていない。そのため建物は老朽化が進み改築した区画や修繕した箇所が入り乱れている。それを一つひとつ見て回りながら杏化天元は思案していた。

 ───トキに対する周囲の反応をどのように受け止めれば良いのだろうか。

 杏化天元が天元に就任してからというもの、常にこの問題が付き纏った。本来なら、問題があれば側近たちに意見を聞き対策を練るのだが、誰もがトキの存在の必要性を疑っている。そのような相手にトキの処遇を相談することなどできるはずもなかった。

 宮中には主に建物が四つ存在する。一つは杏化天元が今歩いている本殿。ここは国の運営を行うにあたって必要な部屋が数多く存在していた。天元が側近たちと政策について論じ合う廟議の間、貴賓を出迎える謁見の間、会食を行うための樽俎そんその間、来客が寝泊まりできる心弛こころゆるびの間などである。どの部屋も国を代表する場所のため、簡素ながらも格調高い品々で彩られている。

 本殿の奥にあるのが寝殿である。ここは天元の寝室や書斎などがあり、実質天元の家である。そのため寝殿に立ち入ることが許されるのは一部の人間のみであり、それ以外の者はどのような理由があっても立ち入ることは許されない。建物の大きさは本殿の半分もないが、そこで働く人間は百人程にもなる。警護、教育係、世話役、大勢の支えあって天元は執務を行う環境が整えられているのだ。

 本殿の右側には書殿がある。ここには国に関するあらゆる調書が収められている。それは人が作ったものの情報から自然界にある情報まで、ありとあらゆるものだ。紙は貴重品であるので、その紛失・乱用を防ぐためにもこのような場所が設けられている。書殿には調書を収めておくだけではなく、集められた情報を集計する部署や管理する部署、政策提言を行うための部署なども存在する。天元とその側近たちは、主に書殿から上がってくる報告を聞いて国の運営を決定している。

 そして最後の建物が、本殿の左側にある刻殿である。左側といっても本殿からは少し離れた場所に位置する。これはトキの住まいであり執務室である。中心にトキの寝室を置き、それを取り囲むようにしてトキの身の回りの世話をする者たちの寝室が配置されている特殊な構造をしている。建物の大きさは寝殿と変わらない。トキを忌み嫌う者は嫌味を込めて、刻殿を「鳥の巣」と呼ぶ。

 杏化天元は本殿を回り終えると書殿へと足を向けた。貴重な紙の管理、情報収集、政策の提言を行う部署であるため、一日中役人の誰かがそこで働いている。彼らの顔色を見るため、杏化天元は毎朝そこを訪れるようにしていた。

「おはようございます、杏化天元様」

 書殿の出入り口に立っていた衛士からの挨拶に頷き、杏化天元は書殿へ入った。

 書殿は火と日光を避ける。火事を防ぎ文字の劣化を避けるためだ。そのため建物内はいつも薄暗い。蝋燭を灯すのも一部の許された場所でしか出来ない決まりになっている。徹底して管理されているのだ。

 杏化天元はその薄暗い建物の中を慣れた足取りで歩き、目的の場所へと向かう。書殿の一番奥に位置する部屋───国の資金の流れをまとめ上げる、財政を管理する田造の部署がそこにある。

 田造では、廟議で決まった資金の分配を各部署に通達、そして実際に使用された資金の明細を管理統括している。また資金の使用内容を細かく精査する役目もあった。そのため書殿の中でも一番仕事量が多い部署であり、常に大量の報告と連絡、明細の書類が発生している。

「おはよう、田能たのう

 大量の資料が散らばった床に寝そべっていた男に、杏化天元は声をかける。呼ばれた男はそれで瞬時に目を覚まし、跳ね起きるようにして姿勢を正した。

「お、おはようございます、杏化天元様」

 田能と呼ばれた男は急いで叩頭した。

 田能は三十代のひょろりとした体格の男性である。元々は地方の役人の息子だったが、書物を読むのが好きでこの書殿に勤めるようになった。杏化天元は田能が作る政策は本質をついていて好んでいる。杏化天元が信じる数少ない人間の一人だ。

「何を見ていた?」

 杏化天元は田能が寝る直前まで見ていたであろう、床に散らばった書類を手に取った。しかし薄暗い室内ではその文字が読み取れない。うっすらと数字が書いてあるということだけしかわからなかった。

 田能は杏化天元が自身の仕事に興味を抱いてもらえたことを嬉しく思い、目を擦りながら説明する。

「国の資金の全体の流れを見通せる書類を作成できればなと思い、一つひとつを見比べていたのです。ほら、ここは国に関するあらゆる数字は集まりますが、それを一度に見ることができる書類はございませんでしょう?」

 そう言って田能は眠たそうにあくびをした。

 書殿にはありとあらゆる情報が収集される。しかしそれを管理する部署の多くは現在、書類の保管までしか手が回っていない。そのため情報をどのように扱うのかを決定する部署が管理の部署と別に存在することになったのだが、それがあまり上手く機能していない。文字を読むことが出来る役人が少ないことと、それを正確に読み込むことが出来る人間が足りていないのだ。そのため書殿には大量の情報は収められているが、それを使って今後どのように活かしていくのかを把握することがとても困難になっている。

 田能が指摘した通り、国の資金がいつどのように使われたのかはそれぞれの書類を見ればわかるが、全体像を見るのはとても困難だった。

「なるほど。確かに田能の言う通り、それがわかればとても助かる」

 一つの問題を見つけ出すのにも苦労している現状に田能の提案はありがたい、と杏化天元は素直に思った。

 ───私が欲しいと思うことを先に用意しようとしてくれる。田能はすごいな。

 杏化天元の言葉を聞き、田能は相好を崩した。その表情はまるで少年のもののように見える。

「そう言っていただけるのでしたら、頑張って纏め上げてみようと思います」

「ああ、頼む。だがその前にきちんと食事を摂るように。ここ最近、食事を摂りに出てこないと給仕が心配していた」

 昨日の夜、夕餉を食べ終えた時に女性の給仕が一人心配そうに同僚と話していたのを耳にしたのである。その給仕はいつも田能の健康を心配しており、おそらくは書類を読むことに夢中で忘れてしまったのだろう、と嘆いていた。

 書殿は火は厳禁だが飲食も厳禁となっている。資料が汚れるのを防ぐためだ。だから書殿に籠っているということは飲まず食わずでいることと同義になる。

 杏化天元の指摘に田能は困ったように頭を掻いた。

「食事………そういえば何も食べていませんね。忘れていました」

 本当に忘れていた、といった雰囲気に、杏化天元は思わず苦笑する。

「田能が倒れてしまっては困る。役目に夢中になるのも程々にするように」

 そう言って立ち上がる。その天元に向かって田能は叩頭した。

「ありがたきお言葉。今後気をつけます」

 その返事を受けて杏化天元は頷き引き返そうとしたが、ふと足を止めた。

「そうだ。田能、ひとつ聞きたいことがあるのだが」

 振り向くと田能は早速手元にある書類を貪るように読んでいた。つい先ほど気をつけると言ったばかりなのに、このままではまた食事を忘れて仕事に励みそうである。杏化天元は書類を田能から取り上げた。

「あ………はい。何でございましょう」

「書殿にはトキに関する文献はあるのだろうか?」

 トキが天元と共にあることは御伽噺として幼い頃から聴かされ育った。国のはじまりの話である。それがトキが宮中内にいる根拠となっているが、実際のところは謎が多い。初代天元が国を収めた頃は文字の技術がなかったので口伝えでしか知らされていない。その後天元家が数代続き、ようやく文字として記録に残す文化が根付いた。

 そのため、今いるトキが何代目であるのか、その時代時代のトキがどのように天元を支え導いたのか、その情報は謎に包まれている。

 杏化天元の問いに田能は首を傾げた。

「トキ様の文献、でございますか? そうですねぇ………天元様の記録はあったかと思いますが、トキ様に関してはなんとも。一代前くらいならなんとかあるかもしれませんが、それ以上は難しいかと」

「そうか。難しいか」

 田能は迷いなく頷く。

 ───書殿の資料を好んで読み漁っている田能がそう言うのだ。なら、そうなのだろう。

 歴代のトキの働きがわかればトキを排斥しようとする側近たちを上手く説得できるのではないかと思ったのだが、事はなかなか思うようにいかないものである。杏化天元は小さく溜め息をついた。

「変なことを聞いて申し訳なかった。さあ、一緒に表に出よう」

「私もですか?」

「そうでもしないと、また食事を忘れるだろうからな」

 杏化天元の言葉に田能は照れたように笑い、二人は並んで書殿を出た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る