第3話 フロイライン
昔のことを思い出そうにも、あまり景色の記憶がない。
どんな家に住んでいたかとか、どんな土地にいただとか、そういう記憶はずっとあとになってから始まっている。
身の回りの二、三歩のことで精一杯だったのだ。
コリンナおばさんは別に悪い人……いやまあ、悪い人寄りだったけど。
しょっちゅう殴られたし。
でも、どうも自分は不安定な身の上らしい、ということは子供心にも理解できていた。
そんな中受け入れてくれて、十分なご飯と寝床をくれたんだから贅沢を言うつもりもない。
教会に行けば本も置いてあった。物語はたくさん。
押し付けられた家事の手伝いも使用人の訓練も、コツを掴めば殴られることはほどんどなくなっていた。
簡単な話である。
迷惑をかけないこと。
目立たないこと。
そしてできれば、役に立つこと。
執事だったり召使いだったり、使用人全般に通じる極意のようなものだろう。
そしてそもそも、この考え方はかなり俺の性格に合っていた。
なぜかこう、人の輪に入れないのだ。
いーれて、と言えない。言っても聞き取ってもらえない。
なんとか入れてもらえても、いつの間にか周りに誰もいなくなっている。
それがわかると寂しい気分になる。
それならまだ良い方かもしれない。
場合によっては喧嘩になったこともあった。
コリンナ叔母さんに話が行くと怒られるので、一方的にやられていた。
……いやまあ、チビなので反抗のしようもないし。
余計なことはやってはいけないのだ。自分の周りから三歩。そこだけに集中する。進まなければなべて俺の世界に事は起きなかった。案外身の回りのことをちゃんとしていれば誰も文句は言わないものである。
それで楽しかった。
いろいろ考えるだけの日々でも結構一生懸命だった。子供ってそういうものだと思う。
なんのために生きているのかは、わからなかったけど。
*
どんがらがっしゃーん! と下の階から聞こえてきた。床がちょっと揺れた。
屋敷を掃除しているみんな、何事か、という反応にはならない。ああ……またいつものか、という反応。
隣で一緒に窓を磨いている従兄弟が横目で見てきた。
「お前が行けよ」ってことだ。
こういうときは誰かがコリンナ叔母さんの近くにいて、手足にならなきゃいけないのである。そうしないと連帯責任で怒られる。ちなみに手足になりに行った結果元々の仕事が滞っても怒られる。
……ついにこのときが来てしまったか、と項垂れた。
むしろ今までは他の人に任せていたのだから、自分の番が回ってきたと考えれば仕方がない。
屋敷から出ると、すぐに大きな樹の下に人が集まっているのが見えた。叔母さんもそこにいるに違いなかった。
果たして元凶は彼女だった。
どうやら今日は、屋敷の食糧庫の一部を拝借するべく少年団を結成して襲撃して失敗したらしい。
元気なものだと思うけど、同い年にしてはあまりの激しさに、正直勘弁願いたかった。
捕縛され抱えられている姿を見せられても、安心できる要素はない。
彼女は俺より頭一つくらい背が高い。何かあったときに逃げるのは難しいかも。
しかし、家庭教師への伝言を頼まれてしまった。
「もうしばらく待ってもらうように言ったら、上の棚の右から二番目のお紅茶をお出しなさい」
「……はい、おばさま」
コリンナおばさんの話に頷きながら、横眼で彼女の方を見た。
何かこう、ギャーギャー言っていた。
環境のお陰というべきか、俺はそこそこ早熟な方だったと思う。あまりわからないことがなかった。
世の仕組みというか、やって意味のあることとないことがわかっていた。
多分、正しいと間違っているという軸のほかに、どうでもいいかどうでもよくないか、という軸があることに早く気付いていたのだ。
そういう生意気さにあって、彼女はなかなか理解しがたかった。
──屈しないぞ!
さっき、樹の上でそう言っていたのが聞こえた。
賢い子であるとは聞いていたから、妙にしか思えなかった。賢いならもうちょっとうまく立ち回れるのじゃないだろうか。
何がしたいのか、よくわからない。
普通の反抗期? でも聞いた話では彼女は昔からこうらしいし、そもそも彼女の立場でこんなことをしても意味がないような──
そこまで考えて、驚いた。
彼女との間には距離があった。二、三歩より遥かにむこう側。
目と目が合っていた。
初めて彼女をまじまじと見た。
むすっとした顔は少女というより中性的な整い方をしている。
目には強い意志が宿っていて、髪の毛の雑多な束ね具合には母親の苦労が感じられた。
その彼女が押さえつけられているのを見た。
もやっと湧き上がるものがあった。
どう考えても彼女が暴走しただけのように思われるのに、理不尽さを覚えた。
そしてどこか、滑稽さのようなものを見出していたかもしれない。
自分でも説明できなかった。
意外だったのが、彼女が俺が何かを思ったことを察したことだ。
「……馬鹿にしただろ、今」
「……僕?」
彼女は掴まれた首根っこを振り払い、俺に迫った。
「何か文句あるのかよ、言えよ」
「いえ、何も」
「言えよ」
話しかけられて、どうしていいかわからない。
「えっと、えっと、その……へへへ」
「おい」
誤魔化そうとしても逃げられない。
頭の中で単語を探す。
「早く言え」
凄む彼女に、焦る。うつむいて一生懸命に頭を回す。
叔母さんの前でへまをするわけにはいかなかった。
頭の中に引っかかった単語があった。
この前読んだ本の中にあった。すでに助かった心地で確かめることもなく、そのままそれを口にした。
「……かたはらいたい?」
あ。
やってしまったとすぐにわかった。
目の前の彼女は言葉の意味を咀嚼するまでもなく呑み込み、すぐに顔を真っ赤にして叫んだ。
「やろうふざけんな! ぶっ殺してやる!」
気付けば天地がひっくり返っていて、俺は組み伏せられていた。
頬に鈍い痛みが走る。
最初は右、そのあと左、それが交互に繰り返される。
慣れた痛みだったから、案外余裕はあった。
使用人として主人の有り余る反骨精神を引き受けるのは義務の一つかな、と呑気に考えたりもした。
俺を一方的に殴りつけている彼女の名前は、ハイデマリー=リョーリフェルド。
シュトラウス一家が仕えるリョーリフェルド伯の一人娘。
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