第16話 角谷の旦那

 以前に江戸を訪れたのは五年前であったが、その時よりも町が広がり、往来を歩いている人間も多いようだ。


 源之進は栄えた町に長くいると、昔から変な疲労感に襲われていた。体を激しく動かしてもないのに、息が切れてしまうのである。何が駄目なのか本人にも分からないが、そこらじゅうで響く金槌かなづちのこぎりの音にも力を弱らせる要素を感じる。


 「流石のわしでも疲れたわ。しかし、久々の江戸に着いたぞ」


 惣兵衛を含めて数人から奪った銭は、合わせて十両にもなる。


 源之進も街道を一人で歩いていた若旦那が八両もの大枚を持っていたのには驚いた。三河で店を開くのだという会話を盗み聞き、鼻の利いた源之進は宿で就寝中に荷物から銭をかすめ取ったのである。


 これで遊郭での豪遊には足りるのではないかと思っている。


 それからもう一つ、やらなければならないことがある。惣兵衛の持っていた文には、宛先人の名前と店の地図が書いてあった。本来ならば惣兵衛のために角谷が書いた物だが、そこを目指して歩き出したのである。


 「急がないと、あいつは必ず江戸に来るぜ」


 源之進は不思議と迷惑を好む。


 立派な問屋とんやが立ち並ぶ一角は、江戸の中でも格式高い風情を称えていた。銭を持った人間の住処と言う以外には何の興味もないけれど、その内の一軒にお目当ての人間がいる。


 源之進は一件の小間物こまもの問屋の前で足を止めた。


 「御用の者なのだが!」


 瞬時に惣兵衛の顔に化けて、大声で叫ぶと屋敷の戸口が「ガラガラ」と開いて、中から丁稚でっちの小僧が出てきた。


 「何の御用でありましょうか?」


 「おいらは角谷の旦那と上方で縁ある者さ、惣兵衛と伝えてくれ」


 「………こちらでお待ちください」


 それを聞いた小僧は、そそくさと奥へ引っ込んで番頭ばんとうのような男に伝えた。伝え聞いた男はそのまま屋敷の二階へと階段を上がる。しばらく待っていると、その男と丁稚を引き連れて、立派な召し物をした旦那が戸口に向かって来る。


 「久しぶりだな。…何年ぶりだ惣兵衛さん、大きくなって立派な商人の面構えじゃないか」


 「いやいや、あなたこそ立派になられてる」


 源之進は不気味なほどにニコニコと満面の笑みであった。


 「さあ、疲れたろ。入っとくれ。お前さんの部屋も用意してるよ」


 「ああ…いや…、それなんだけどね…」


 「なんだい?」


 「なんとも恐縮な話で詫びたいのだけど、実は江戸の店で信じられない程に給金をはずむ奉公話を見つけてね」


 「おいおい、私の店で働くためにわざわざ上方から御出でなさったのではなかったのかい?うちでも真っ当な給金を払うつもりだけどね」


 「いやいや、それが真っ当な働きにゃ合わない程の額なのだ」


 「そりゃあ、どんな店だい?まさか裏家業の仕事じゃないだろうね?」


 角谷はいぶかしい話をするかつての仲間を見て、なんとも心配そうな顔になる。江戸っ子に謀られていると思ったのだろう。


 「いや、決して世間様の迷惑になるような仕事ではないのだけど、だから、ここまで顔を出して不義理を詫びたので、どうか惣兵衛のことはお忘れなさってくださいよ」


 深々と頭を下げる惣兵衛を見て、角谷もそこまで言うなら引き留めはしないと言った。しかし、江戸の町では人情も大切にされるが、同心たちが解決できないような凶事も起きるのだと諭したのである。


 しかし、源之進の化けた惣兵衛は、その忠告に耳を傾けるふりをして、迷惑だからとっととお暇しようと去った。


 その後、江戸をフラフラと散歩しながら思案した。


 「さあ!一仕事終えたし、そろそろ夕刻も迫っておるな」


 このまま遊郭遊びに出掛けてしまう手もある。しかし、長旅でへとへとに疲れているし、今日は宿に泊まって静養しようかと悩み、遊郭に向けて歩こうとする足を渾身の力で方向転換したのだった。


 「惣兵衛が近付いている感覚はまだないな。…当たり前だよ、人間に早々追いつかれてたまるか。しばしの間は休ませて貰うとするか」


 源之進は楽しい遊び仲間の到着をゆるりと待つことにしたのだった。

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