第六章 十一話 「葛藤」

 山下が去ってから十分後に個室カフェを出た幸哉が家路に着いた時には既に陽は沈んでおり、どこまでも暗い夜闇が空を静かに包んでいた。


(優佳は大丈夫だろうか……)


 山下と出会った時に恋人が見せた様子を心配した幸哉は心なしか、いつもより疲れている体を走らせて家へと帰ったのだった。


 もしかしたら山下が現れたことで恋人が心変わりするのではないかと優佳が酷く心配しているかもしれないと思って嫌な胸騒ぎを覚えた幸哉だったが、彼の心配は杞憂だった。


「お帰り、幸哉」


 幸哉が帰った時、ちょうど晩御飯の支度を終えたところだった優佳は何事も無かったような表情で青年を迎えてくれた。


「ただいま……」


 無理をして感情を表面に出さないようにしているのかもしれない恋人の目を見返して、幸哉は力無く答えた。その瞬間、彼は気付いたのであった。心変わりするのではないかと心配しているのは自分自身なのだと。この幸せな時間を、大切な人達を裏切る選択を取るかもしれない自分を恐れているのは己自身なのだと……。


「遅かったね、お腹空いたでしょ。早く食べましょ」


 暖めたばかりのグラタンの入った皿をキッチンミトンに包んだ両手で食卓に運びながら、恋人が呼び掛けた声は幸哉の耳には入っていなかった。


「ごめん、優佳……」


 部屋の入り口に佇んだまま、幸哉は俯いて力無く謝った。何故謝ったのか、青年自身にも理由は分からなかった。彼は大切な人を裏切るかもしれない自分自身を恐れていただけであった。


 明らかに様子のおかしい恋人に笑顔を消した優佳は幸哉の前に歩み寄った。


「どうしたの……?」


 本気で自分を心配してくれている優佳の悲しげな顔を見返して、幸哉は何か言葉を返したかったが、短い時間の間で彼に適切な言葉を紡ぎ出すことは出来なかった。


「どうして謝るの……?」


(分からない……。でも、もしかしたら俺は……)


 その先は考えるのも怖くて、思考を止めた幸哉に優佳は恋人の両手を握りしめると、幸哉の顔を見つめて言った。


「幸哉はずっと私達と一緒に居るでしょ?」


 答えは一つしかない。自分でも選びたい答えは一つのはずなのに幸哉は恋人の問いにはっきりと答えることができなかった。


「うん……」


 力無く頷いたのが青年の示せる精一杯の返答だった。


 それでも幸哉の答えに嬉しそうな微笑みを浮かべた優佳は自分より少し背の高い恋人の頭を優しく撫でるのであった。


「あの人に何を言われたのか知らないけど、ここが幸哉の居場所だよ」


 どこまでも優しい恋人の愛情に包まれながら、幸哉は自分の不甲斐なさを悔いた。


(そうだ、そのはずなんだ……。俺はここで大切な人達を守る……。それだけで良かったはずなのに……)


 そう思っても、昨日までとは違い、自分を納得させ切ることの出来ない内心に戸惑う幸哉は震える声で何とか精一杯の感謝の念を伝えたのであった。


「ありがとう、優佳」


 微笑み返した優佳の嬉しそうな表情にひどい嘘をついているような罪悪感を感じてしまった幸哉は思わず涙を溢してしまったが、そんな恋人の軟弱な部分まで優佳の愛情は包んでくれたのだった。


「早く食べよ。せっかくのお料理が冷めちゃうよ」


 そう言った恋人に手を引っ張られ、食卓についた幸哉は自身の内側で今まで無視し続けていた二つの意思が葛藤し合っているのを感じて、途方に暮れるのであった。

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