第六章 十話 「捨てたはずの過去、忘れたはずの思い」

 幸哉が優佳と健二に自身の苦悩を語ってから一ヶ月の月日が過ぎた。


 それまでは度々、己の罪の意識に苦しめられていた幸哉だったが、真実を語って以降は大切な人達の助けもあり、トラウマに囚われることなく前向きに生きることが出来ていた。


 以前のように悪夢にうなされることも、罪悪感の幻影に取り憑かれることもなくなった幸哉は優佳や健二、自分を支えてくれる身近な人達とともに平穏な暮らしを静かに送っていた。


 彼はこの先もずっと愛する人々を大切にしながら、日本で生き続けていく心積もりだった……。





「寒くなったね。早く帰ろう」


 季節も冬の様相を徐々に呈し、空気が肌寒くなってきた十一月の中旬のある休日、幸哉は優佳に手を引かれ、買い物から家に帰るところだった。


 何の変哲もない平穏な日の夕方、静かな日々の中に身を沈めていた幸哉はマンションのエントランス前まで帰ってきたところで思い掛けない人の姿を目にして足を止めたのだった。


「山下さん……」


 エントランスの入り口の前で煙草を吸っていた戦場カメラマンの姿に驚きを隠せず、声を漏らした青年に山下は眼鏡をかけた顔に笑みを浮かべると、片手を上げて、「久しぶりだな、元気にしてたか?」と返した。


 二人の男の再会を前にして何かを察したのか、優佳は山下に小さく会釈すると、


「先に入ってるね」


とだけ言い残して、マンションの中に入って行ってしまった。


 静かに去っていく恋人の後ろ姿に先程までは無かった暗い影が揺らめくのを感じた幸哉は優佳に何か声を掛けようとしたが、彼が適切な言葉を見つけるよりも先に山下が口を開いた。


「大事な話がある。時間はあるか?」


 優佳の様子は心配だったが、山下の言葉にただならぬ重みを感じた幸哉は、微笑みを浮かべつつも真剣な眼差しを向ける戦場カメラマンの顔を見返すと、小さく頷いたのだった。





「狗井さんが見つかった」


 マンションの前では話しづらいとのことで山下は幸哉を近くの個室カフェに連れて行ったが、開口一番に戦場カメラマンの口から語られた言葉に幸哉は遠い昔のように思えるズビエでの日々を思い返して愕然とするのだった。


(狗井さんが生きていた……)


 心の中で広がる安堵の気持ちとともに幸哉は思わず、


「どこにいるんですか?」


と食い入るように聞いてしまった。


 心の何処か、冷静な人格の一部が今更聞いても意味がないと呼び止める中、日本で生きていくと決意したはずの青年は久しぶりに聞いた恩人の名前に反射的に反応してしまったのであった。


「また来るか?ズビエに」


 幸哉の反応に満足げな笑みを浮かべ、そう問うた山下の言葉を聞いて、我に返った幸哉は自分を支えてくれている人達の存在を思い出すと、顔を俯けて、


「すみません……」


と咄嗟に謝った。


「俺はもう……、ズビエには戻りません……」


 その言葉の真意を問う目線を向ける山下に幸哉は続けた。


「決めたんです。この世界の見知らぬ人達よりも、俺のことを慕ってくれる人達、愛してくれる人達を大事にしようって……。それが俺のような人間にできる精一杯の生き方だと気付いたんです……」


 神妙な面持ちでこの数ヶ月の間に起きた内心の変化を語った幸哉の話を山下は静かに聞き続けた。


「なるほどな……」


 大きく息を一つ吐き捨てながら、腕を組んで幸哉の話に納得した山下だったが、すぐに鋭い視線を青年に向け直すと、彼の本心を問うたのだった。


「だが、本当にそれで良いのか?」


 その言葉に幸哉は心の奥深くに封印した思いを指摘されたような気がして、胸の鼓動が速まるのを感じた。


「人生をかけて弱い人達を救いたい……、カム族の村でそう言った時の君の目は今よりもっと輝いていたぞ」


 山下のその一言に捨て去ったはずの思い、忘れたはずの母の言葉と再び直面させられた幸哉はそれ以上発する言葉を失って、俯いたまま沈黙してしまった。


 そんな青年の内心を目で見て察したのか、席を立った山下は勘定とともに一言の言葉を残して店を立ち去って行った。


「五日後の夜、羽田で待ってる」


 捨てたはずの過去、見つけたはずの未来、揺らぐ思いに迷う青年は一人残された狭い個室の中で暫くの間、沈思し続けたのであった。

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