第四章 十三話 「カマルの婚約者」

 六月十七日、午前二時……、夜空に輝く蒼白色の三日月から差し込む月光がカートランド要塞のすり鉢山を静かに照らし出す中、この日は同じ時間帯から始まる政府軍の歩兵突撃も迫撃砲攻撃も無く、静寂が夜闇を包んで横たわっていた。


 そんな夜の静けさの中、敵の攻撃が今日は無いと判断した幸哉は持ち場のバンカーを離れて、要塞の地上部分に設置された機銃陣地の中に一人腰掛けていた。


 日本のような空が汚れた都会とは違い、もっと星々が近く、その輝きもより明るく見える夜空の明かりを頼りに彼は昨日の朝、山下から手渡された便箋を読んでいたが、その手は静かに震えていた。



"拝啓 戸賀幸哉 様


 カメラマンの山下さんという方からズビエであなたが無事に過ごしているということをお聞きしました。


 健二君とあなたの身に起こった出来事を知り、あなたの無事が絶望的であると伝えられた時、それでも心の何処かであなたの無事を諦めきれず、今日まであなたが生きていることを信じ続けていました。


 その思いが報われたような気がして、今の私の気持ちは天にも昇る心地です。


(中略)


 山下さんからは今のあなたが日本で失っていた生き甲斐を見い出し、前を向いて生きていることもお聞きしました。


 遠い国で生きる理由を見い出して充実した日々を送っている貴方に、早く帰ってきてや危険なことはしないで、などと言うつもりはありません。


 ですが、これだけは約束してください。必ず無事で日本に帰ってきて。


 私はいつまでも貴方を待っています。


 戸﨑優佳"



 幸哉への思い以外に春から就職した優佳自身の新しい生活についても書き記されていた手紙を読み終わった幸哉は自分自身の身勝手が引き起こした、愛する人の心の困惑といつか対面しなければならないことを改めて痛み知らされた。


(ごめん、優佳……)


 落ち着いた筆致で書かれているが、便箋から伝わってくる悲痛な思いに幸哉は今すぐにでも日本に帰って彼女を安心させたいと思ったが、彼の心の中にはまだ終わらさなければならない戦いがあった。


(ごめん……。まだ、俺は……)


 帰れない……、便箋をポケットの中に仕舞いながらそう念じた幸哉は顔を上げて頭上の夜空を見上げたが、その視界は涙で霞んでいた。


 自分の身勝手が大切な人を不幸にしている……、今になってその事に気付かされた自分の浅はかさを悔いた幸哉は胸中に答えの出ぬ問いを問うた。


(俺のしていることは本当に正しいのか?)


 問うても答えが帰ってくることはなく、ただ沈黙して彼を見守る星空を幸哉が数秒間見つめた直後だった。


「幸哉!今日はバンカーに居なくて良いのか?」


 陽気な声とともに幸哉が腰掛けていた機銃陣地に入り込んできたのは要塞に着任してからは話す機会の少なくなっていたカマルだった。


「カマル……」


「お前、山下さんに会ったか?」


 涙に気づかれぬよう、潤んだ目を戦闘服の袖で擦った幸哉にに、こやかな様子で話しかけてきたカマルはそう聞きながら、日本人青年のすぐ隣に座り込んだ。


「ああ、会ったよ……」


「手紙貰ったか?」


 友人の悪意ない問いに正直に答えるべきか幸哉は悩んだが、ここで優佳からの手紙の話をしたら、せっかく見せぬように止めた涙が再び流れ出しそうで咄嗟に嘘をついた。


「いや……」


 そんな幸哉の嘘に彼に両親がいないことを思い出したのか、一瞬暗い顔をしたカマルは、


「そうか……」


と返すと、気不味い空気を破ろうとするかのように明朗とした声と笑顔で幸哉に語りかけてきた。


「俺、君に婚約者の話してなかったよな?」


「婚約者がいるのか?」


 驚き、思わず大声で聞き返してしまった幸哉の口の前に、「しーっ!」と言って人差し指を押し当てたカマルは周囲に話を聞いている人がいないのを首を回して確認すると、ポケットから取り出した小さなモノクロ写真を幸哉に見せてきた。


「ツツって言うんだ」


 渡されたモノクロ写真に写る黒髪の長い女性の笑顔を目にした時、幸哉は心中で、(ああ、この人か)と思った。その女性は幸哉がサシケゼの任務から帰還した日、プラの集落でカマルと一緒にいた女性だった。


「綺麗だな……」


 見覚えがある顔に事態を理解しつつ、お世辞抜きでそう呟いた幸哉に満面の笑みを浮かべたカマルは更にポケットの中から便箋のようなものを取り出してきて、幸哉に渡してきた。


「だろ?それで今日、この彼女から手紙が届いた訳よ!」


 興奮した様子で語るカマルから便箋を受け取った幸哉が全文を確認するのは忍びないと思い、概要だけ読もうとした瞬間だった。


「何だ、お前ら。二人して悪巧みか?」


 不意にかけられた声に二人だけの世界に入り込んでいたカマルと幸哉は驚いて顔を上げた。その視線の先ではいつからそこに居たのか、ジョニーが機銃陣地の土嚢にもたれて意味ありげな笑みを浮かべていた。


「いや……、軍曹、これは……」


 照れているのか、焦っているのか、呂律の上手く回らないカマルを無視して、機銃陣地の中に入ってきたジョニーは、


「まぁ、俺にも見せてみろ」


と言って、幸哉から便箋と写真を取り上げた。


「いや……、これはその……」


 顔を赤くしてモゴモゴと何か言っているカマルの様子は可愛らしく、幸哉は堪えながらも少し笑ってしまっていたが、ジョニーの反応は渋いものだった。


「お前の恋人か?」


 便箋と写真を一瞥してそう問うたジョニーにカマルは意を決したように、


「はい、婚約者であります!」


とはっきりと答えた。


 ジョニーならカマルの心中も理解してくれるだろうと安心していた幸哉だったが、その答えを聞いた瞬間、ジョニーは手に持っていた便箋を破り捨ててしまった。


「な、何してるんですか!」


 目の前で起こったことが信じられず、目をひん剥いて叫んだカマルに今度は写真にライターで火をつけたジョニーが落ち着いた様子で答えた。


「あのなぁ、戦場で恋人の話をするのは縁起が悪いんだよ」


「そんな、そんな訳の分からない理由で……」


 上官の前であるが故に全ての感情は出さないが、はっきりと激昂している様子のカマルと彼に同情する幸哉にジョニーははっきりと言い捨てた。


「良いか、お前ら。戦場で女のことなんて考えているようでは覚悟が足りん!覚悟が!もっと気を引き締めて行け!」


 そう言うと、ジョニーは機銃陣地から去って行ってしまった。


 友人に同情すると同時に自分の手紙は無事で良かったと思った幸哉はカマルの背中をさすりながら、


「軍曹、何か女性絡みで嫌なことでもあったのかな……」


と言ったが、カマルの意識にその声は届いていなかった。


「おい、嘘だろ……」


 実際の恋人を失ったかの如く、悲壮な表情と震える声で燃える写真の火を消そうとするカマルに、


「カマル……、写真なんて良いじゃないか。村に帰れば、また本物に会えるんだから」


と幸哉は慰めようとしたが、返ってきたカマルの声は幸哉が初めて目にする感情的な怒声だった。


「うるさい!」


 そう言って幸哉を睨みつけたカマルは早口のままで続けた。


「俺達が無事で帰れる保証なんて、どこにもないだろ?それに彼女も次会う時まで無事だとは限らない!君は日本なんていう平和な国から来たから分からないかもしれないけどな!」


 そこまで言い切ったところで幸哉の悲痛な表情を見て、冷静さを取り戻したのか、顔を俯けて、「ごめん……」と謝ったカマルに幸哉は、「いや、良いんだ」とだけ返すと、背中を丸めた親友の肩を優しく叩いた。


 二人の間に何とも形容し難い気不味い沈黙が流れた次の瞬間、空から迫りくる甲高い滑空音が二人の意識を戦場に引き戻したのだった。


「迫撃砲!」


「伏せろ!」


 口々に叫んだ幸哉とカマルが機銃陣地の中に伏せた瞬間、彼らから十メートル程離れた別の陣地に八十一ミリ迫撃砲弾が直撃し、砲弾の爆発に誘爆した火薬類が闇夜を照らす火柱を上空十メートルにまで立ち昇らせたのであった。

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