第三章 十話 「己の弱さとの対決」

 時間からして村の反対側を周って偵察して来ているソディックと合流するには早過ぎるタイミングで聞こえてきた物音だったが、同士討ちという最悪の事態を避けるため、幸哉は五六式小銃のトリガーガードにかけた人差し指を固く動かさないようにしながら、周囲を見回した。


(さっきの音はかなり近かった……)


 もし敵がいるとすれば、不用意な物音を一つでも立てた瞬間にこちらの存在も気付かれてしまう……。幸哉は先程まで探索していた家の入り口から数メートルほど歩み出た所でゆっくりと腰を屈めると、一切の物音を立てないようにしながら、周囲三百六十度を観察した。


 見える限り動くものは風になびく草原と干されたままの衣類だけ……、死の静寂に包まれた集落には物言わぬサバナ住居がただ虐殺の瞬間から少しも変化せず、沈黙とともに立ち並ぶだけだった。


(気のせいか……?)


 風で何かが倒れただけかもしれない……。そう思った瞬間、緊張の糸が切れた幸哉の胸の中には先程まで心中を占めていた悲哀感と無力間が再び押し寄せてきた。


 溢れる感情に何かを思い出したかのように背後を振り返った幸哉の視線の先、亜熱帯の陽光を浴びた赤茶色のサバナ住居の前には彼が小さな写真の中で目にした家族の残影が映っていた。


(助けてあげられなくてごめん……)


 幻影か亡霊か、確かにそこに投影されて目に映った亡き者達に自分の無力を詫びた幸哉は再び前方を向くと、任務を遂行するための一歩を踏み出そうとした。その瞬間だった。


 先刻と同じ何かが倒れるような軽い物音が静寂を破り、幸哉の鼓膜を震わせたのだった。


 平時であれば、何でもないと聞き流すような生活音に近い物音……。だが、時が止まった静寂の中では心臓を縮み上がらせるほどに大きく聞こえた物音に幸哉は再び恐怖心を掻き立てられた。


 驚きで思わず声を上げそうになったが、静音のまま首だけを音のした方向に向けた幸哉は続いて自動小銃の銃口と一緒に体も音を立てぬよう動かした。


(間違いない……。すぐそこだ……)


 先程よりもはっきりと、音の発した位置まで判別できるほど明確に聞こえた物音に幸哉は腰を屈めたまま、自動小銃を構えて、三時の方向に五メートルほど離れて立つサバナ住居に接近した。


(この向こうだ……)


 赤茶色の土壁の向こうにいるかもしれない敵の姿をイメージし、その気配に全神経を研ぎ澄ませた幸哉は腰で構えた自動小銃の銃口と同じ方向に視線を向けながら、一歩一歩ゆっくりと足を進めた。


少しでも音を立てれば、こちらも気付かれる……。


 足を進めるごとに少しずつ見えてくる土壁の向こうへ視線を含めた全ての知覚を集中させつつも、不用意な物音を立てぬよう足元にも細心の注意を払っていた幸哉はその反対側から物音がしたサバナ住居の側まで辿り着くと、乾いた土の香りがする土壁に体をピッタリとくっつけた。一度全ての動きを止め、呼吸の動作まで最小限に抑えた幸哉は視覚では捉えることのできない住居の反対側に全ての意識を集中させた。


(聞こえる……)


 決して大きくはないが、薄い土壁の小屋を一つ挟んだ向こう側からは人間の足音と思われる物音がはっきりと聞こえてくる。何者かの存在を確かに確信した幸哉は刹那の間、ソディックと合流してから対象を制圧することを考えた。


(いや、駄目だ……)


 そんなことをしている内に相手に気付かれる……。


 首を横に振り、仲間の援護を得ようとする自身の甘えを頭の中から振り払った幸哉は自動小銃を構え直すと、視界の利かない背後にも十分に注意を払いつつ、円周形に積み上げられた土壁の外周に張り付いた状態で小屋の反対側へと向かう足をゆっくりと踏み出した。


(頼む……。動物であってくれ……)


 会話する声や人の動く気配がはっきりと知覚できないため、大人数ではないと思われるが、今その壁に張り付いている家屋の向こうに確かに存在する何者かへの恐怖で竦みそうになる足を何とか動かした幸哉が五歩目の足を踏み出した時だった。


 今度は一際大きい物音が壁の向こう側から鳴り、同時に聞こえてきたフランス語で悪態をつく声に縮み上がった幸哉は思わずトリガーガードにかけていた右手の人差し指を押し込んでしまった。


(やっぱり人間……、それもすぐそこに……)


 声と物音の聞こえ方から察するに首を伸ばせば、今隠れている土壁の陰からでもその姿を目視することができる距離にいる何者かの存在に幸哉は今一度目を閉じて、緊張で竦み切っている自分自身に問うた。


(できるか……?俺に……、敵を撃てるか……?)


 思えば、はっきりと人に向かって銃を撃ったことは狗井を救った時の一回しかなく、加えてその一度も切迫する状況に押されるようにしてでしか引き金を引いたことのない幸哉は今度こそ自分の意志で決断し、トリガーを引かねばならなくなるかもしれない難局、目の前に迫った究極の選択に己の覚悟を問うた。


(俺は……、弱い人達を救うためこの国へやって来た……。そして無理を言って狗井さんに部隊へ引き入れてもらった……)


 ならば、ここで敵と対決しなくてどうする……!


 逃げようとする自分の弱さを切り捨てた幸哉が覚悟を決めたのと新たな物音が彼の鼓膜を震わせたのは同時だった。心臓が縮み上がるような恐怖をバネにして、土壁の陰から飛び出した幸哉は五六式自動小銃を肩撃ちの姿勢で構え、視線の先にアイアンサイトの照準が重なるようにした。


 漆黒の輝きを放つ金属製の照門と照星の先で幸哉の目に映ったのは先程まで彼がその陰に隠れていた家屋とその隣の家屋との間に空いた十メートルほどの空間、何も無い赤土の上で軍服を着た男が中腰の姿勢で腰を下ろしている背中だった。


(やはり、敵……!)


 本意ではない憂慮が現実となってしまった目の前の状況に緊張とともにある種の怒りにも似た感情も抱いた幸哉は男が着ている軍服の種別を見て、政府軍兵士だと確信した。


(迷うな……、迷えば殺られる……)


 生来の軟弱さにまだ心のどこかが囚われていると感じた幸哉はそんな自身の弱さを完全に断ち切るためにも意を決して、トリガーガードにかけた人差し指を引き金へと移動させた。


 そんな青年の葛藤など全く気づかず、軍服姿の男は幸哉に丸めた背中を見せた状態で赤土の地面に向かって何か手作業をしていた。


(政府軍兵士ならフランス語が通じるはずだ……)


 この数ヶ月の鍛錬でズビエの公用語の中でもフランス語だけは基本事項のみ話せるようになっていた幸哉は緊張で上手く発声できない声を絞り絞って、目の前の男に命じたのだった。


「動くな!」

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