第一章 十二話 「邂逅」
撤退する敵の狙撃手と遭遇する可能性を考慮して、幸哉はスナイパーの存在を感じた地点に近づくとともに進行する速度を緩め、周囲への警戒に意識をより集中させた。
余りゆっくりしていては敵に逃げられるかもしれない……。だが、逃げられたとしても自分の命を守るのが最優先……、訓練で叩き込まれた狗井の信条を遵守して行動している幸哉だったが、スナイパーの気配を感じた場所に三十メートルまで近づいたところで、彼は近接戦に備えて五六式自動小銃の銃身下部に折り畳まれたスパイク型銃剣を自動小銃の銃口に着剣した。
(もう逃げたかもしれないな……)
藪の陰に身を潜めつつ、ゆっくりと前進する幸哉は人間の気配を全く感じさせないジャングルの静けさに敵が既に撤退したことを確信して、安心感を抱いた。
(殺し合いをせずに済んだ……)
だが、それと同時に倒すべき敵を倒せなかった無力感と呵責の念も幸哉の胸の中を渦巻いていた。数百メートル離れていても、肌身に染みるほど感じた殺意……、そんな凶悪な念を胸に抱ける人間が敵には存在する。そんな危険な人間を放ってはおけない……。
(いずれまた対面した時には俺が必ず……)
兵士としての自信はまだ無かったが、震える手に幸哉は決意を抱いた。その瞬間、彼の脇に立つ木の影が微かに揺らめき、再び幸哉の背中を強い悪寒が走ったのだった。
(そんな近くに……!)
敵の姿を直接見た訳ではないが、地平線に隠れかけた夕陽の照らす熱帯樹の影が微かに揺らめくのを足元の地面の上に見て、幸哉は反射的に木の脇から飛び退き、地面の上を転がった。
身を隠していた熱帯樹の枝の上から飛び降りたチェスターのマチェーテの一撃が幸哉の先刻まで立っていた地面に突き刺さったのはそのコンマ数秒後だった。間一髪で避けた大鉈の一撃に死の恐怖を感じつつも、瞬時に身を翻して体勢を整えた幸哉にすかさず二撃目の刃が今度は右下から襲いかかる。次に取るべき行動を幸哉が考える暇は無かった。ただ、狗井に訓練で仕込まれた通りに彼が体を動かした次の瞬間、五六式自動小銃の銃口に着剣していた銃剣とマチェーテの刃がぶつかり合った。
金属と金属が直にぶつかり合う重い音、重なり合った刃から銃撃戦では感じられない感度の殺意を感じた幸哉が一瞬硬直した次の瞬間、ローデシア人傭兵が左手より繰り出したジャブの一撃が幸哉の右頬に突き刺さった。
(こいつは生半可じゃない……、一流のパンチだ!)
日本でボクシングをやっていた経験から敵兵士の格闘能力が極めて優れていることを見抜いた幸哉だったが、先程の顔面への一撃で体勢を崩して地面に倒れそうになった彼にチェスターは更に脇腹への蹴りを加えた。
鳩尾に走った激痛に吐瀉物を吐き出しつつも、地面をローリングして、敵傭兵との距離を瞬時に取った幸哉は上半身を起こすと同時に、肉薄して来ているであろう傭兵の足元を掬うべく、目の前の地面に自動小銃の単連射を放ったが、その幸哉の行動を読んでいたチェスターは逆に幸哉から距離を取っており、マチェーテを握った右手とは逆の手で鞘から取り出したローデシアン・ブッシュナイフを投げつけるところだった。
(まずい……!)
瞬時に首を左に傾けた幸哉の右頬の数センチ脇を時速百四十キロの高速で投擲された大型ナイフが滑空し、幸哉の背後の熱帯樹の幹に突き刺さった。
「東洋人、命拾いしたな……」
数メートルの距離で睨み合う日本人青年にチェスターは不敵な笑みを浮かべて続けた。
「右で投げれば当たっていた」
歴戦の余裕のある表情を浮かべたチェスターを見て、
(こいつには銃は通用しない……!)
と本能で瞬時に察した幸哉はスリングで携帯していた五六式自動小銃を俊敏な動きで傍らの地面に捨てると、狗井から支給された小型ナイフを右手に握った。
ナイフを使っての実戦は彼にとって初めてであり、チェスターが持つマチェーテとは刃渡りが半分もないナイフを構える幸哉の手は震えていた。
(でも、やるしかない。そうでなければ……)
死あるのみ。幸哉は目の前のローデシア人傭兵の目を睨み返しながら、ファイティングポーズを取った。
「お〜、ボクシングか……」
歓心したようでありながら、馬鹿にしたような声を出したチェスターに幸哉は先手を打った。利き足の右足を一気に踏み込み、続けてダッシュで肉薄した彼にチェスターはマチェーテの大振りの一撃を加えたが、首を狙ったその大鉈の刃は瞬時に身を屈めた幸哉の頭の僅か上を過ぎ去り、一撃を躱した幸哉はチェスターの懐に入り込むと、手にしたナイフを一気に敵傭兵の体に突き立てようとした。
しかし、長年の実戦の経験があるチェスターにはそんな動きは完全に読まれており、あと数センチでナイフが届く距離に接近した幸哉の頭にはローデシア人傭兵の膝蹴りが突き刺さった。大きく体勢を崩し、後ろによろめいた幸哉にチェスターはマチェーテで止めを刺すこともできたが、そうはしなかった。
(こんな貴重なおもちゃ、もう少し遊ばないと勿体ないな……)
そう内心で嘲笑ったチェスターは日本人青年の倍近いスピードで体を動かすと、後ろ向きに倒れかけた幸哉の襟首を左手で掴み、マチェーテを離した右手で顔面に殴打を加えた。
悲鳴を上げ、思わずナイフを手放した幸哉の顔面に一発、二発、三発の殴打を連続して与えた次は鳩尾にもフックの一撃を加えたチェスターはようやく幸哉の襟首を離してやると、最後に股間に向かって蹴り上げの一撃を加えた。
顔面への連続殴打で口から血を吹き出し、二箇所の急所への攻撃を食らって、意識を失った幸哉はよろめくようにして後ろ向きに倒れた。
(全く及ばなかった……)
薄れゆく意識の中、完全な敗北感と屈辱感に襲われた幸哉の脳裏には死の危険を感じた本能が今までの人生の走馬灯を見せていた。母と父に抱かれた幼少期、健二や優佳と過ごした大学時代、そしてズビエでの数奇な一ヶ月間の生活……、一瞬の短編映画のように流れた大切な日々の記憶に幸哉は何とか立ち上がろうとしたが、彼の体は既に限界を迎えていた。顔面は真っ赤に腫れ上がり、孔という孔からは血が流れ、強烈な蹴りの一撃を食らった股間は死の恐怖も相まってか尿失禁していた。
「見苦しいな……。心配するな、楽にしてやる……」
瀕死の状態となり、仰向けで大の字になったまま汚物を垂れ流す幸哉の姿を嘲笑しながら近づいたチェスターはマチェーテを鞘に収めると、右腰のホルスターに収納していたベレッタM1934を手に取り、遊底を引いて薬室に初弾を装填した。命の危機が目の前に迫った事を本能的に察知し、何とか体を動かそうとして全身を痙攣させる幸哉の傍らに膝を付いたチェスターは白目を剥いた日本人青年のこめかみに小型拳銃の銃口を突きつけた。
「あと少ししゃんとしてくれてたら、もっと楽しめたんだがな……」
冷酷な笑みを浮かべつつ、そう独り言ちたチェスターはベレッタのトリガーを引き切った。静寂に包まれたジャングルの中に一発の乾いた銃声が轟き、静まっていた熱帯動物達が突然の破裂音に一斉に逃げ出す。
幸哉の脳天に突き刺さり、その短い生涯を終わらせるはずだった.三八〇ACP弾……、しかしその拳銃弾が命中したのは幸哉のこめかみではなく、二人に隠密に接近していた解放戦線兵士の肩だった。
「馬鹿が!俺が気づかないとでも思ったか!」
そう悪態をついたチェスターは幸哉の傍らから飛び退くと、ベレッタをジャングルの暗闇に向かって発砲しつつ、身近な熱帯樹の陰に隠れた。その銃撃に呼応するかのようにして、ジャングルの数ヶ所でマズルフラッシュの閃光が弾け、飛来してきた数十発の銃弾がチェスターの身を隠す大木の幹を抉った。
「終え!逃がすな!」
気配を消し、音も立てずに数十メートルの距離までチェスターに接近していた狗井は自分達の存在が察知されたことを悟ると、随伴の部下達に突撃を命じたが、歴戦の経験があるチェスターも無策に何の価値もない熱帯樹の裏に隠れた訳ではなかった。予め愛銃を隠していた熱帯樹の陰に身を隠したチェスターは幹に立て掛けていたIMI ROMATを手に取ると、解放戦線に対して反撃の牽制射撃を放った。
「落ち着け!出過ぎるな!奴の弾薬切れを狙えば良い!」
接近し過ぎていた仲間の数人が撃ち倒されたのを見て、部下達が焦り過ぎないように狗井は命令を下した。数人失っても、彼の随伴している兵士は十数人いる。一人分しか武器の無いチェスターには銃撃戦で勝てなくても、弾薬切れを狙えば制圧できるという判断からだったが、それはあくまでもチェスターに援軍がない仮定の話だった。
狗井達がチェスターの身を隠す木の十数メートルまで近づき、無駄弾を誘うための牽制射撃を発砲しようとした刹那だった。日が落ちかけて暗くなったジャングルの中を黄白色の閃光が高速で滑空し、彼らのもとに飛翔してきたのだった。
「伏せろー!」
遅れて聞こえてきた発射音が届くよりも先に閃光の正体を察知して叫んだ狗井が地面に伏せた瞬間、解放戦線兵士達に向かって撃ち込まれたロケット弾が地面に突き刺さって炸裂し、部隊の右翼に展開していた数人の解放戦線兵士が粉々に吹き飛ばされた。
「クソ……!」
ロケット弾の炸裂と同時にジャングルの別の一角からは猛烈な機銃掃射が狗井達に向かって撃ち込まれ始め、頭を上げられずチェスターを狙えなくなった狗井は悪態をついた。
「幸哉!幸哉!しっかりしろ!」
激しい銃撃の応酬の最中にあってもピクリとも動かず、仰向けに倒れている幸哉を匍匐前進で近づいたカマルが熱帯樹の陰に引きずり込んだ。その傍らではエネフィオクがFN MAG汎用機関銃を敵に向かって掃射し、オルソジがコルトM79グレネードランチャーを敵の機銃陣地に向かって撃ち込んでいた。
「クソ!ロケットランチャーを殺らない限り、俺達が全滅するぞ!」
二発目のロケット弾が傍らで炸裂する中、再び悪態を吐いた狗井は身近な熱帯樹の陰に身を寄せると、その陰から初弾のロケットが飛翔してきた方向を睨んだ。
「あそこか……!」
三発目のロケット発射の時、五十メートルほど離れたジャングルの暗闇の中に猛然と立ち上がった後方噴射の白煙から敵ロケットランチャーの位置を割り出した狗井は即座にコルト・コマンドーを構えたが、距離が遠く敵との間に障害物が多い上に敵のロケットランチャーは面倒な射手防護用の防盾が砲身に標準装備されたRL-83ブラインドサイドだった。
「面倒だな……、オルソジ!来い!」
厄介な敵の装備に溜め息をついた狗井は後ろを振り返ると、敵の機銃と勝負をしている部下を呼んだ。
「何でしょうか!」
激しい機銃掃射の中だったが、エネフィオクのFN MAGの援護を受けながら匍匐前進で狗井のもとに這ってきた勇敢なモツ族兵士は問うた。
「見えるか?一時の方向、距離五十メートル、敵のロケットランチャーだ」
銃弾を幹の反対側に受ける熱帯樹の裏から敵の対戦車火器の位置を教えた狗井の言葉に頷いたオルソジは命令を全て聞く前に上官の意思を理解して、装備した中折式の単発グレネードランチャー、コルトM79を敵のロケット砲に向かって構えた。
「よく狙えよ……。気取られたら、俺達がこの大木ごとドカーンだ」
傍らについた狗井が息を呑んで様子を見守る中、グレネードランチャーの銃身前部に取り付けられたラダーサイトを立てて、照準を数秒でつけたオルソジは擲弾発射器の引き金を一気に引き切った。水素が爆ぜるような軽い発砲音とともに四十ミリ擲弾がランチャーから撃ち出された一秒後、固唾を呑む狗井とオルソジの前で先程まで敵のロケットランチャーが存在していたジャングルの一角が炎の柱を吹き上げ爆発した。ロケットランチャーに直撃した四十ミリ擲弾が着弾点周囲に置かれていたロケット弾の予備弾頭も誘爆させて炸裂したのだった。
「深追いはするな!」
敵ロケットランチャーの制圧と同時に機銃陣地も無力化に成功し、勢いづきかけた部下達を抑えた狗井は先程までチェスターが隠れていた木の陰にコルト・コマンドーを構えて、ゆっくりと近づいた。チェスターが大木の陰からナイフを構えて飛び出してくるかもしれないと考え、オルソジを背後に連れて、丁寧にクリアリングを行った狗井だったが、熱帯樹の裏には既にROMATの空薬莢しか残されていなかった。
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