第一章 八話 「渡河」

「あれだけ足を引っ張るな、と言っただろうが!」


 戦闘が終わり、静寂が戻った山脈の鞍部にエネフィオクの怒声が響き渡る。そして、その怒声が山々に反響する度、巨漢の男から振り下ろされた殴打の一撃が幸哉の顔に直撃するのだった。


「おい、それ以上はやめとけ。こいつのせいで橋が取れなかった訳じゃないんだ」


 何度も地面に倒れ、顔を腫らした幸哉の様子に見かねたジョニーが止めに入ったが、エネフィオクの怒りは制御不能だった。


「いえ、これはこいつのことを思ってです。教育はしっかりしないと」


 毅然として答え、再び幸哉を叱責し始めたエネフィオクの様子に深い溜め息をついたジョニーは橋台の残骸を残した他は跡形もなく消え去った橋の方を見つめて、更にもう一度深いため息をついた。


「橋がない以上、川に入って渡河するしかないな……」


 物憂げにそう言ったジョニーの言葉にエネフィオクは微かに振り向いただけだったが、幸哉は叱責もそっちのけで大声を出してしまった。


「川に入るんですか!」


 エネフィオク"教育的指導"により頬の腫れ上がった顔を凍りつかせて聞いた幸哉の様子にジョニーは当然の事といった様子で答えた。


「ああ、それ以外にあるか?」


 それともお前が橋を作るのか?とジョークを付け加えたアメリカ人傭兵の言葉に幸哉は絶望的な表情を浮かべた。彼の頭の中にはズビエにやって来る前に健二から聞かされた言葉が渦巻いているのだった。


 川には絶対に入るな、寄生虫だらけになる……。


「でも、川に入ったら寄生虫が……」


 虚ろな目をしてそう言った幸哉の言葉にジョニーは面白そうに大笑いしたが、エネフィオクの反応は違った。


「じゃあ、川下の敵地まで行って橋を渡ってくるか?」 


 もう既に消耗し切った幸哉の襟首を掴み、更にもう一撃を加えそうだったエネフィオクの腕をジョニーは止めたが、ダンウー族の兵士が言っていることは正しかった。橋を使って目の前の川を渡ろうと思えば、十キロ川下まで更に行軍せねばならず、加えて政府軍支配下の地域に入らなければならない。部隊規模が一個小隊程度しかない現在の状況で敵と更なる戦闘になる危険は冒したくないというのが狗井やジョニー達の考えであり、川下の橋を使う手段は彼らにはあり得なかった。


 暫くの間、苦慮したジョニーは狗井と繋がっている携帯無線機の交信を開いた。


「仕方ない。班を二つに分けて、一班ずつ渡河しよう」


 無線から「了解した」と返答が返ってきたのを確認したジョニーは先程の奇襲時と同様に部隊を二つの分隊に分割すると、部下達に渡河の準備を始めさせた。





 時刻は丁度正午、赤道の灼熱する太陽の陽が最も強く照りつける時刻に解放戦線の傭兵部隊は渡河を開始した。まずは狗井の率いる分隊が先に渡河し、それをジョニーの分隊が援護する形である。


 川の岸辺に設置されたFN MAGが援護の態勢を取り、ガンナーが警戒の視線を周囲に向ける中、幸哉も目の前に広がる小川の中に足を踏み入れた。水の済んだ小川流れは緩やかだったが、一番深い川の中央まで行くと、深さは脇の下程まであり、兵士達は各々の銃器を頭上に高く掲げて、川幅三十メートルの小川を渡河した。


 徒渉開始から四十分、憂慮されていたような奇襲を受ける事態は起こらず、後発組のジョニー達も渡河を無事終了した。


「カム族の拠点まであと数キロだ。気合い入れて行くぞ!」


 ジョニーが部下の兵士達を激励しながら隊列の最前線につく一方、渡河で濡れたバックパックを背負い直した幸哉は今しがた自分が渡ってきた小川を再び振り返った。


(静かだ……)


 つい先程まで命の取り合いが行われ、数多の人間が散っていたとは思えない河川の静寂に幸哉が無情にも似た哀愁の感慨を抱いていると、その様子を怪訝に思った狗井が、


「どうかしたか?」


と問うた。だが、今の半端な自分の心情など理解して貰えるはずがないと思った幸哉は無言で首を横に振ると、日本人傭兵の傍らを過ぎて行軍に加わるのだった。

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