第八十八話 白湯
「わしの部屋が嫌なら
「いや、いただこう」
言って、
「
「
「『それ』の預かり知らぬことよ。わしの祖がかつて『それ』に非道を働いたのでな。ぬしらにもわかる言葉で言うなら罪滅ぼしのようなものじゃ」
そんなこと「信天翁」は気にしなくていいのに、と至蘭は困ったように笑ったが今の文輝にならわかる。至蘭をここに繋ぎ止めていた最後の糸が「信天翁」だったのだろう。「信天翁」の祈りの為だけに白喜はここにいた。共依存めいたその相互扶助によって、
だから。
「あなたは俺に知ってほしい、と言ったのだな」
「わしはな、もう嫌なんじゃ。人の為に人が犠牲になるのも、それを受け入れて諦めてしまうのも。合理的かどうかはどうでもいい。そんな理屈の為に死ぬるものが未だにおるのが嫌なのよ」
「それでも、人は生きる為に誰かの命を犠牲にする。その定めは決して変わらない」
人が生きる為に食物を必要とするように、人の社会は人の犠牲のうえで成り立っている。その構造を根本から変えるのはあまりにも困難で想像を絶するようなときの経過を必要とする。誰かの志でどうにか出来る地点はもう遥か以前に通り過ぎたのだ。
だから「信天翁」は人を嫌悪した。嫌悪して軽蔑して、恨みながらそれでも白喜に祈りを捧げ続けた。
「変わってほしい、ちゅうとるわけじゃのうてな。頭からその正義を信じ込んで、疑うことも考えることもせんどころか、己が目で見ることすら放棄して善を押し付けるのに反吐が出るだけじゃ」
「あなたはそうではない――と?」
「無論、わし自身も嫌悪しておるよ。『それ』がこんな顔をするのは初めて見る。泣いたり笑うたりする白喜を見せてくれたのはぬしじゃ。じゃから、わしはぬしに心から感謝しておるのよ」
人の子よ。人らしさを全うする人の子よ。その願いをどうか手放さんでくれ。
白湯を飲み終えてほっと一息吐く文輝の頬に「信天翁」はそっと口づけをした。
「人の子――
「それはあなたに誓うことではないと思うが、あなたがそれを必要としているのなら、誓おう。俺はこの身のある限り、至蘭を敬い、祈りを届ける」
「で、あれば、よ」
急ぐんじゃ。この
雨はまだ続いている。土砂は城郭の東側の畑を覆ったが市街地にはまだ届いていない。人々を救いたいのなら、決意を行動に移さなければならない。
言って「信天翁」は椀を回収して部屋の外に消えたかと思うと、文輝が刀匠から譲り受けた二つの
「ぬしの判断は正しかった。この神器がぬしと「それ」を守ったようじゃ。盾の方はもう限界じゃろうが、
「『信天翁』殿――」
「あの女狐を斬れ、ちゅうて言うとるわけじゃのうてな。あれでも神の系譜に名を連ねるものじゃから、対抗手段は多い方がええじゃろう」
お守りのようなものだ。使わずに済むのならそれでいい。ただ、威嚇にはなるだろう。言って「信天翁」は文輝の掌に直刀の鞘をそっと握らせた。文輝の持ってきた普通の直刀の方はどうなったのか。問うと見つからなんだという回答がある。
「文輝。このうえなく不本意だが、多雨の怪異は膨張している。今の白喜の神威で制御することは事実上不可能だ」
「ってことは、俺が斬って――」
「弱らせたところを
それは今日に至るまで続いた力関係を、少しだけ形を変えて維持する、ということだ。
至蘭は再び神として奉じられ、この城郭の安寧の為に在ることを求められるだろう。
「至蘭。それでいいか?」
「
人の中にも色んな人がいることを文輝が思い出させてくれた、と至蘭が笑んで言う。
誰かもわからない誰かの為に頑張ることは出来ないが、文輝がそれを願うのなら応えたい、ということだ。文輝の答え一つで至蘭の運命は変わる。無理を強いていないか。親切心の搾取をしていないか。何度も何度も自分自身と問答して、それを続ける時間的余裕がそれほどないことを加味して、文輝は決めた。
「ま、斬ってみるか」
「貴様が言うと鍛錬か何かに聞こえるのが笑えん」
「そう言うなって。結構、覚悟決めてんだからよ」
怪異――土着神を斬る、という行為が何を生むのかはまだわからない。
ただ、この城郭を守る為には手段の好悪を問うている場合ではないのは自明で、だから、文輝は自らの目の前にある道を受け入れた。子公も華軍も「信天翁」も至蘭も、同じ道の上にいる。
だからだろうか。
不安の駆け巡る胸中にほんの少しだけ光が灯ったような気がした。
決まったのなら急げ、という「信天翁」に追い出されるようにして出た部屋の外は例によって土砂降りで薄暗い。「信天翁」が雨避けのまじないを施してくれたから濡れ鼠になるのは回避出来た。頭上を振り仰ぐと雨雲しかなく、周囲を見渡せば城郭の南側の一角であることがわかった。足元を叩きつける土砂降りの中、文輝たちは最前線へと思いを馳せる。土砂崩れによって隔壁の三分の一は失われている。その境目まで行けば起死回生の一手が打てるかもしれない。
忘却と失念に囚われたまま、死に至る城郭を見なくて済むように。
文輝は自らが成せることをずっと考えていた。
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