第十五章 死に戻りの小戴

第八十三話 かつて来た場所

 ただ闇があった。この景色を知っている、とたい文輝ぶんきは思う。

 それと同時に自らが今再び死の淵にいることを悟る。ここを通り過ぎると死後の世界で文輝は死ぬ。ただ、ここで留まっているということは逆説的に文輝にはまだ生きる可能性があることを示唆していた。

 前回、そうであったように文輝の名を呼ぶ声がする。

 首夏しゅか、と柔らかい少女の声が呼ぶ。誰なのか、だなんて問うまでもなくその声のあるじは至蘭しらん──白喜はくきだった。

 かつて文輝にその名を与えた朋輩はこの国を去った。彼女が不在の今、文輝をそう呼ぶものは至蘭以外にあり得ない。漆黒の闇の中、光が一点に収束する。そうして人の形を取った至蘭は傷付いた瞳で文輝の方を見つめていた。


「ごめんね、首夏。わたしのせいだね」


 助かりたいと願ってしまった。救われたいとこいねがった。それは誰にでもある権利なのに、至蘭が罪悪を感じている。この国において至蘭は「誰」には含まれてないということだ。ごめんね、を無限に繰り返す至蘭を見ると文輝の胸はつきつきと痛む。偽善でも自己満足でもいい。それでも、悲しんで後悔している仲間を見捨てないでいいように文輝は右官うかんを志した。人の力になりたい。痛みを引き受けて代わってやりたい。その思いは未だ文輝の中にある。

 だから。


「至蘭。お前がしたことは許されねえことだと思う」


 役割を放棄し、責任から逃れ、人々の安寧を崩壊させた。天仙てんせんとしてあってはならない振る舞いだろう。それでも。彼女が力を失ったのは人が祈りを捧げないからだ。天仙を天仙足らしめる力が削がれているのに、成果だけは同水準で保て、というのは些か酷が過ぎるだろう。

 今、至蘭が悔いているのは「自分に寄り添おうとしてくれた相手の人命が危ぶまれようとしている」ということについてで、沢陽口たくようこう城郭まちが脅威に晒されている件についての彼女の意見がどちらを向いているのか、文輝には定かではない。


「至蘭。俺はお前に言ったよな。百年待ってくれって」

「うん、聞いたよ」

「お前はそれを駄目だって言った。そのことについて、礼を言いてえんだ。至蘭、ありがとう」


 あのとき、永遠の刹那の中で至蘭が文輝の安易な提案を受けていれば全てが違っていただろう。白瑛びゃくえいの目論見は成功し、人々の明日が保たれないのに二十四白にじゅうしはくの確保という命題が成り立ってしまう。至蘭がそこまでを予知していたわけではなくても、彼女の直感と感情が文輝に違う手札を与えてくれた。


「至蘭。泣くなよ。俺はまだ死んでねえわけだし、信梨しんり殿の計画が成った訳でもねえ」

「でも、首夏にこんなところまでこさせちゃった」


 それは半死半生ということで、決して楽観出来る事態ではない。何かが悪い方に作用すれば文輝の命は死へと傾いて消える。ただ、至蘭が語りかけてくるということは、それほど絶望的な状況でもないのではないか。そんな感触がある。

 夏の日差しが燦々と射し込む山林の中。至蘭は笑っていた。その偽りの安寧ですら慈しめるなら、この世界のことを知れば別の感慨が生まれるかもしれない。かつて人の身では叶わなかった経験を、今、この瞬間からでもいい。至蘭にも知ってほしい。そんなふうに思った。

 

「なぁ至蘭。お前、あそこにいて楽しかったか?」

「えっ──?」

「もし、でいいんだがお前が俺といた方が楽しいなら、一緒にこねえか? お前が守ってるものをその目で見たら気持ちが変わるかもしれねえだろ」


 滅ぼすのは一瞬あれば終わる。生み出すのと守るのは遅々として進まず、だのに破滅が襲うのは一瞬だ。

 だから。至蘭が本当にこの世界と別離する前に。どうしても、文輝はこの世界のことを知ってほしかった。


「変わらないよ、わたしはこの世界のことが嫌い。その気持ちはきっと変わらないと思う」

「別に神として愛せとか偉そうなこと言ってるんじゃねえよ。神の元で生きる俺たちのことも知ってほしいってだけだ」


 一つの命として、一つの社会の有り様を見つめてほしい。そんなことを言うと至蘭の翡翠がやっと文輝と向き合ったのが見える。


「それは首夏と同じ立場で?」

「そう。俺の隣で、俺と一緒に、人の生涯を見守ってくれる気はねえか」

「首夏と一緒なら──ちょっと考えてもいい、かな?」

「おっ、言ったな? 俺は聞いたぞ?」


 言質を取ったと悪辣に微笑めば至蘭は泣きそうだったが、それでも笑みを返してくれる。

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