第十七話 ようこそ忘却と失念の城郭へ

文輝ぶんき。夏風邪を引く前に衣を整えるとしよう」


 おそらく、このずぶ濡れのままでも旅籠やどの主人は中に通してくれるだろう。

 そんなことを言いながら、子公しこうは石畳の街路を歩き始めた。一拍遅れて文輝もその背を追う。


「流石に旅籠のおやじは気付くだろ」

「気付けば変異はなし。気付かねば私の仮定が肯定される。ただそれだけのことであろうよ」

「仮定なぁ」


 ほんの数刻前に辿ったばかりの街路を二人は進む。子公の言う仮定が何なのか、全貌は見えてはいないが文輝にも心当たりのようなものはあった。

 状況整理をしながら歩く間もずぶ濡れの文輝たちに何かの反応を示すものはいない。まるでそこにあるものがいつも通りであるかのような振る舞いに、文輝は「自分が存在しているという錯覚」をしているような錯覚を感じた。

 文輝は元々理屈には疎い。考えることよりも身体を動かすことの方が得意だ。感情論に振り回されることもしばしばあるが、それでも筋は通してきた方だと自負している。

 子公が認めたように文輝の直感は非常に確かだ。本質を本質と見抜く力だとも言えよう。

 そのある種本能的な力と自らの見聞きしたものとで今まで生き抜いてきた。

 文輝の直感は違和を告げる。この城郭まちは明らかに何かがおかしい。狂っているのは自分の方ではない。この城郭の方だ。それを疑ってはならないと子公は言う。自らの正しさに万有の価値はない。あの日、動乱の岐崔ぎさいで文輝はそれを痛切に思い知った。同じ過ちを今一度繰り返そうとしているだけではないのか。この城郭がこの状態で安寧を保っているというのなら干渉をすることの方が罪深いのではないか。

 そんなことを無限に繰り返して、文輝よりも少し小さいが存在感のある子公の背中をただじっと見つめた。小さいのに凛と立っている背中はかつての同輩を思わせる。そうして、文輝は思うのだ。まだまだ己は不如意の範疇を逃れていない、と。


「子公、俺は――」


 間違っていないのだろうか。ここで真実を明らかにするのが業ではないのだろうか。

 問いかけた言葉の向こうに文輝の榛色の双眸は「あってはならないもの」を視認する。何かの気のせいかと思った。城郭の住人の誰もが気にも留めない。見間違いだろうと思ったが、その姿は歩を進めるごとに鮮明さを得る。

 紅い――燃える炎のような体毛の大きな虎。この国ではときに怪異、ときには神獣の一つとして名を連ねる赤虎せっこが一人の少年に伴われて歩いていた。

 赤虎の性はあくまでも獣だ。神性を持ってはいるが獣は獣。ときには人に牙を剥くことも十分にあり得る。その赤虎が城郭の大通りを闊歩しているというのは一体何の悪夢だ。枷を施されているわけでも、首輪や胴輪で戒められているわけでもない。にも関わらず人々は赤虎が歩いていることに恐怖を感じていない――どころかおそらくは「気付いていない」ように見受けられる。

 やはり。

 この城郭は何かがおかしい。

 そんな確証を抱くと同時に酷く唇が乾く感覚があった。子公。副官を呼び止めるのに用いた声すら喉から出る際、ひりついていた。


「どうした、文輝」


 立ち止まった文輝を訝って子公が振り返る。彼の視界にも赤虎は映っただろうに、子公は違和を示さない。見えていないのだ、と気付くのが先か赤虎を伴った少年が足を止めるのが先か。文輝の眼差しの先で少年がふっと微笑みを浮かべる。


「僕らが『見えている』んでしょう、お兄さん」

「――ああ、そうだな」


 子公には既に少年と赤虎の姿が映っていない、と考える他ない状況に文輝は苦いものを噛んだような気持ちだった。子公ですら既に正気を保っていない。この城郭はやはり危険だ。何かがある。

 疑惑を確証に変えながら、少年は花の顔で満面の笑みを形どった。


「なら、僕は言わなきゃならない」

「何を?」

「ようこそ、忘却と失念の城郭・沢陽口たくようこうへ。全ての違和を見落とすこの城郭であなたはどのぐらい正気を保っていられるのか。僕は今から心が躍る思いだよ」


 何を言っているのか、正直なところ文輝には理解しかねたのだが、本能が告げる。この少年はこの城郭にあって「正常な」感覚を保っている稀有な存在だ。問題解決にはこの少年と接触するのが最適解であろう。ずぶ濡れの文輝たちに気付き、声をかけ、そうして会話が成立した。話を聞かないだけの正当な理由がない。

 文輝は大きな溜息を吐きながらも、それでも結局、少年と関わることを選んだ。


「こいつにも君の姿が見えるようには出来るのか」

「そうだね。素養は悪くないから、多分出来るよ」


 言って、少年は懐から小さな土鈴を取り出して文輝に手渡す。白い何の模様もない小さな土鈴が少年の手から文輝の手に渡る際にりんと鳴った。その音には聞き覚えがある。四年も前の光景が文輝の脳裏を駆け巡った。

 知っている。この音は「国主が真名を呼ぶときの音」だ。そして、それは白帝はくていの加護を受けていることも同時に意味する。どうしてこの土鈴が実体を持ってその音を鳴らすのか。文輝には何の理由も説明出来なかったが、それでも一つだけは理解した。

 この少年もまた何らかの怪異である。

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