第29話 ホットココアと匠の危機
男の名は、矢田部勲と言った。見た通りの復員兵で、何店舗か支店を持つ家具屋の3男坊だそうだ。家を継ぐこともなく、気ままに暮らしている。
「こんなところに好き好んで住むヤツはオレたち以外に居ないだろ。だからこの界隈の子供たちからは、『森の主』とか呼ばれているらしいんだ。森の主らしくボロい恰好をして出歩けば、強盗知らずさ」
彼は、軍隊時代の恩人の遺児「ケイスケ君とユリちゃん」を探しながら移動するうちに、いつしかここに住み着くようになっていた。
これは後から聞いた話だが、彼は戦争が始まる前に渡米し、西洋家具の作り方を学んで帰国したという。妻のリリーは、そのときに結婚してついて来たそうだ。
そういう経緯だったので、夫妻が住処とするこの丸太小屋の家具は、全て勲の手作りだった。
リリーが米国人なので、2人は進駐軍とも親しく、勲の作った家具を一緒に売り込みに行ったり、食品を分けてもらったりしているのだった。
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「ブギがこの部屋にいるのを見つけたときは、目を疑ったよ」
大きなフカフカの青い布ソファの上で、今村がブギの頭を小突いた。私も言った。
「そうだよ。いくら優しそうでも、知らない人の乗り物に乗るなんて、無防備過ぎる」
するとブギは口を尖らせた。
「よく言うよ。大先だってこの家に上がり込んでいるのにさ」
『森の主』こと矢田部勲は私たちに「まあまあ」と言った。仕事モードが終わると、また虚ろな目に戻っていた。
勲は、私に経緯を説明した。
「オマエとそこの嬢ちゃんに道を聞かれたすぐ後に、こっちのチビを見つけてな。オンオン泣いて歩いているから何かと思えば、『狗里の森に行きたい』と言うじゃないか。オマエらの待ち合わせ相手ってのはコイツのことかと思ってな。連れてきて正解だった」
「どうして僕と今村がこの家に来ると思ったんですか?」
勲は「どうしてって、そりゃオマエ」と、呑気に揺り椅子を揺らしながら答えた。
「オマエ達、相当困ってただろうが。そういうときに手を差し伸べた大人について行こうとするのが、子供ってもんだよ」
勲は私達の愚かさや弱さを見透かしていたようだ。私は改めて、少し彼を警戒した。しかし、その気持ちもすぐに吹き飛んでしまった。
「ココア、マダ熱イデス。気ヲ付ケテ」
そのとき、リリーが私たちにホットココアを出してくれた。
恵まれた家庭で生まれた私でも、数えるほどしか飲んだことがない魅惑的な甘い飲み物だ。今村やブギは初めてだったに違いない。
私たち3人は揃いも揃って乞食のようにがっつき、舌を火傷して「アチッ」と叫んだ。
勲は、そんな私たちを見て笑った。
「なんだ、オマエら、相当腹が減ってたんだなぁ。盗らないからゆっくり飲めよ」
リリーも柔和な表情で私たちを見守った。栗色の髪や青い瞳はまだ見慣れなかったが、彼女が明るく優しい女性だと言うことは私たちにもよく分かった。
これも後で勲に聞いた話だが、リリーは日本に来て大変苦労したという。
駆け落ち同然に来日したので、実家には帰れなかった。すぐに戦争が始まり、西洋人の彼女は日本人から白い目で見られた。リリーの身を案じた勲の両親の勧めで、夫妻は徳島の田舎の別荘に移り住んだ。
リリーは別荘で、ほとんど外に出られない生活を送っていた。それでも安全では無かった。何度もスパイ容疑で取り調べを受けたり、心ない近隣住民に石を投げられ、窓ガラスを割られたこともあった。
程なく、夫である勲も出征し、リリーは屋敷に閉じ込められたまま、4年も怯えて過ごしたという。
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「で? オマエらのアニキが大変なんだって?」
そうだった。ブギの説明が要領を得ず、よくわからないので、とりあえず座らせて落ち着かせていたのだった。
ブギは冷めてきたココアを一気に飲み干すと、第一声でこう言った。
「アニキがヤクザの車に乗った」
「はぁ?」
今村と私は同時に叫んだ。すぐに今村がブギに詰め寄った。
「おい、オマエまたホラ吹いてるんじゃないだろうな?」
「ほ、本当だよ。」
私は今村をなだめ、ブギの支離滅裂な話を整理して時系列に並べ替えた。要はこういう事だった。
警官に追われたあと、ブギは竹藪を縫って斜面を駆け降り、かなり遠くまで逃げた。
もう警官も追ってこないだろうと確信したとき、ちょうど車の通れる道に出た。
また上の道に戻ろうかと思っていると、そばに1台のジープが停まった。後部座席に乗っている少年を見て、ブギは恐怖で凍りついた。
それは今朝、山谷の橋の下で会った『ナタ切りの勝』こと山中勝四郎だったのだ。
山中勝四郎は、運転席の男に言った。
「間違いありません。こいつ、匠と一緒にいたチビです」
運転席の男がにゅうっと顔を出し、ブギを品定めするように眺めた。目つきは鷹のように鋭く、腕には竜の刺青、左頬には大きな傷の治療痕があり、ブギの言葉を借りると「絶対にカタギじゃない」風情だった。
その男は運転席からブギに尋ねた。
「よぉ、オマエんとこのお頭に用があるんだけどよぉ、どこにいやがる?」
ブギは、本人の
すると、男は山中勝四郎に顎をしゃくって合図した。
山中勝四郎はジープから飛び出し、ブギを引っ張り込もうとした。ブギは抵抗して山中に肘鉄を喰らわせたが、その3倍ほどお礼されたので、大人しくするしかなかった。
今にもジープに乗せられそうになったとき、ジープのずっと後方から「やめろ!」という叫び声が聞こえた。
振り向くと、匠が燃えるような怒りをたたえて仁王立ちしていた。
匠はゆっくりとジープへ歩いてきた。そして言った。
「そいつは関係ない。用があるのは俺だろう。……そいつを離してください」
匠は、運転席の男に深々と頭を下げた。男は底気味の悪い笑みを浮かべ、山中勝四郎にブギを離すよう命じた。
山中勝四郎がブギを道に投げ捨てると、匠はすぐにブギに駆け寄って「怪我は無いか?」と確かめた。
ブギが無事とわかると、匠は立ち上がった。そして、観念したようにジープの助手席に乗り込んだのだ。
ブギは泣き叫んだ。
「乗っちゃダメだ! みんなで暮らすって言ったじゃないか!」
匠は振り返った。そして、まるでちょっと便所にでも行くような口ぶりで言った。
「野暮用でさ、すぐ後を追うから、先に行っといてくれ」
その言葉を残して、匠はジープに乗って行ってしまった。
残されたブギはオンオン泣きながら闇雲に歩いた。どこをどう歩いたかも分からず、絶望しているところを、矢田部勲に拾われたという経緯だった。
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