第29話 ホットココアと匠の危機

 男の名は、矢田部勲と言った。見た通りの復員兵で、何店舗か支店を持つ家具屋の3男坊だそうだ。家を継ぐこともなく、気ままに暮らしている。


「こんなところに好き好んで住むヤツはオレたち以外に居ないだろ。だからこの界隈の子供たちからは、『森の主』とか呼ばれているらしいんだ。森の主らしくボロい恰好をして出歩けば、強盗知らずさ」


 彼は、軍隊時代の恩人の遺児「ケイスケ君とユリちゃん」を探しながら移動するうちに、いつしかここに住み着くようになっていた。


 これは後から聞いた話だが、彼は戦争が始まる前に渡米し、西洋家具の作り方を学んで帰国したという。妻のリリーは、そのときに結婚してついて来たそうだ。


 そういう経緯だったので、夫妻が住処とするこの丸太小屋の家具は、全て勲の手作りだった。

 リリーが米国人なので、2人は進駐軍とも親しく、勲の作った家具を一緒に売り込みに行ったり、食品を分けてもらったりしているのだった。



✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎



「ブギがこの部屋にいるのを見つけたときは、目を疑ったよ」


 大きなフカフカの青い布ソファの上で、今村がブギの頭を小突いた。私も言った。


「そうだよ。いくら優しそうでも、知らない人の乗り物に乗るなんて、無防備過ぎる」


 するとブギは口を尖らせた。


「よく言うよ。大先だってこの家に上がり込んでいるのにさ」


『森の主』こと矢田部勲は私たちに「まあまあ」と言った。仕事モードが終わると、また虚ろな目に戻っていた。

 勲は、私に経緯を説明した。


「オマエとそこの嬢ちゃんに道を聞かれたすぐ後に、こっちのチビを見つけてな。オンオン泣いて歩いているから何かと思えば、『狗里の森に行きたい』と言うじゃないか。オマエらの待ち合わせ相手ってのはコイツのことかと思ってな。連れてきて正解だった」


「どうして僕と今村がこの家に来ると思ったんですか?」


 勲は「どうしてって、そりゃオマエ」と、呑気に揺り椅子を揺らしながら答えた。


「オマエ達、相当困ってただろうが。そういうときに手を差し伸べた大人について行こうとするのが、子供ってもんだよ」


 勲は私達の愚かさや弱さを見透かしていたようだ。私は改めて、少し彼を警戒した。しかし、その気持ちもすぐに吹き飛んでしまった。



「ココア、マダ熱イデス。気ヲ付ケテ」


 そのとき、リリーが私たちにホットココアを出してくれた。


 恵まれた家庭で生まれた私でも、数えるほどしか飲んだことがない魅惑的な甘い飲み物だ。今村やブギは初めてだったに違いない。


 私たち3人は揃いも揃って乞食のようにがっつき、舌を火傷して「アチッ」と叫んだ。

 勲は、そんな私たちを見て笑った。


「なんだ、オマエら、相当腹が減ってたんだなぁ。盗らないからゆっくり飲めよ」


 リリーも柔和な表情で私たちを見守った。栗色の髪や青い瞳はまだ見慣れなかったが、彼女が明るく優しい女性だと言うことは私たちにもよく分かった。


 



 これも後で勲に聞いた話だが、リリーは日本に来て大変苦労したという。


 駆け落ち同然に来日したので、実家には帰れなかった。すぐに戦争が始まり、西洋人の彼女は日本人から白い目で見られた。リリーの身を案じた勲の両親の勧めで、夫妻は徳島の田舎の別荘に移り住んだ。


 リリーは別荘で、ほとんど外に出られない生活を送っていた。それでも安全では無かった。何度もスパイ容疑で取り調べを受けたり、心ない近隣住民に石を投げられ、窓ガラスを割られたこともあった。


 程なく、夫である勲も出征し、リリーは屋敷に閉じ込められたまま、4年も怯えて過ごしたという。



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「で? オマエらのアニキが大変なんだって?」


 そうだった。ブギの説明が要領を得ず、よくわからないので、とりあえず座らせて落ち着かせていたのだった。


 ブギは冷めてきたココアを一気に飲み干すと、第一声でこう言った。


「アニキがヤクザの車に乗った」

「はぁ?」


 今村と私は同時に叫んだ。すぐに今村がブギに詰め寄った。


「おい、オマエまたホラ吹いてるんじゃないだろうな?」

「ほ、本当だよ。」


 私は今村をなだめ、ブギの支離滅裂な話を整理して時系列に並べ替えた。要はこういう事だった。




 警官に追われたあと、ブギは竹藪を縫って斜面を駆け降り、かなり遠くまで逃げた。

 もう警官も追ってこないだろうと確信したとき、ちょうど車の通れる道に出た。


  また上の道に戻ろうかと思っていると、そばに1台のジープが停まった。後部座席に乗っている少年を見て、ブギは恐怖で凍りついた。


 それは今朝、山谷の橋の下で会った『ナタ切りの勝』こと山中勝四郎だったのだ。


 山中勝四郎は、運転席の男に言った。


「間違いありません。こいつ、匠と一緒にいたチビです」


 運転席の男がにゅうっと顔を出し、ブギを品定めするように眺めた。目つきは鷹のように鋭く、腕には竜の刺青、左頬には大きな傷の治療痕があり、ブギの言葉を借りると「絶対にカタギじゃない」風情だった。


 その男は運転席からブギに尋ねた。


「よぉ、オマエんとこのお頭に用があるんだけどよぉ、どこにいやがる?」


 ブギは、本人のげんによると「絶対に教えるもんか」と思って胸を張り、大きくかぶりを振ったらしい。実際には、怖くて声さえ出せなかったのかも知れない。


 すると、男は山中勝四郎に顎をしゃくって合図した。

 山中勝四郎はジープから飛び出し、ブギを引っ張り込もうとした。ブギは抵抗して山中に肘鉄を喰らわせたが、その3倍ほどお礼されたので、大人しくするしかなかった。


 今にもジープに乗せられそうになったとき、ジープのずっと後方から「やめろ!」という叫び声が聞こえた。


 振り向くと、匠が燃えるような怒りをたたえて仁王立ちしていた。


 匠はゆっくりとジープへ歩いてきた。そして言った。


「そいつは関係ない。用があるのは俺だろう。……そいつを離してください」


 匠は、運転席の男に深々と頭を下げた。男は底気味の悪い笑みを浮かべ、山中勝四郎にブギを離すよう命じた。


 山中勝四郎がブギを道に投げ捨てると、匠はすぐにブギに駆け寄って「怪我は無いか?」と確かめた。


 ブギが無事とわかると、匠は立ち上がった。そして、観念したようにジープの助手席に乗り込んだのだ。


 ブギは泣き叫んだ。


「乗っちゃダメだ! みんなで暮らすって言ったじゃないか!」


 匠は振り返った。そして、まるでちょっと便所にでも行くような口ぶりで言った。


「野暮用でさ、すぐ後を追うから、先に行っといてくれ」


 その言葉を残して、匠はジープに乗って行ってしまった。


 残されたブギはオンオン泣きながら闇雲に歩いた。どこをどう歩いたかも分からず、絶望しているところを、矢田部勲に拾われたという経緯だった。

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