ヴァルキューレ編

第73話 狭間の微睡み

 体が重い。


 まるで深海にゆっくりと沈んでいくような感覚が全身を包み、鉛でも埋め込まれたかのようにまったく動かない。真っ暗で上下も左右も定かじゃない空間を漂うような感覚…。


「……ぃち…」


 ふと何かが聞こえたような気がする。なんだろう、酷く懐かしい気がするが…。


「お兄…ん、起…て」


 重たい瞼を必死にこじ開けると、開いた瞳孔に光が急に差し込んできてホワイトアウトする。


「うっ…」


「あ、やっと起きた?」


 さっきまで遠くに聞こえていた声がすぐ近くから聞こえて驚くが、未だにはっきりしない感覚のせいで気持ちとは裏腹に緩慢な動きで声のした方に顔を向ける。徐々に覚醒してきた視界に入ってきたのは…呆れた顔でこちらを見つめる妹の姿。


「ウェルトゥ?」


「おはよう…って挨拶には疑問符が付きそうなくらいの時間なんだけど、なんて言えばいいんだろうね?」


 なんだろう、すごい違和感が思考を駆け巡るのだが…。妹の姿のどこにもおかしなところなんて無い。しかし逆にその姿に違和感を覚える。それに…周囲に視線を巡らせれば、ここはフォーリアンロザリオ本国の…それもオレん家の近くの河原だ。

 自分が何故こんな場所にいるのか、少なくとも自分でここに来たという記憶は無い。空が赤い、もう日暮れらしかった。


「まったく、マンガじゃあるまいし河川敷で昼寝なんて…傍から見たら暇を持て余した変人だよ? ほら、ティクスお姉ちゃんが待ってるんだから、早く帰ろうよ」


「あ、ああ…」


 なんだかすごい勢いでけなされた気もするが…。妹に促されるまま寝転がっていた体を起こし、立ち上がろうとすると立ち眩みに少し足元がふらついた。


「うわ、ちょっと大丈夫? 寝惚けてんの?」


 この体がふわふわする感覚…色々と違和感しか無いが、その理由を見つけようにも頭が働いてくれない。微苦笑しながら妹の頭に手を乗せる。


「はは、そうかもな。まぁ問題ない、帰ろうぜ」


 家に帰るべく歩みを進める…が、妹の足音が聞こえない。振り向くとさっきの場所から動いていなかった。


「お兄ちゃんは先に帰ってて、あたしはもうちょっとここにいたい気分なの」


「は? 何言ってんだ、さっき帰ろうっつったのお前だろ?」


「あ~、うん…ちょっと水浴びでもしようかな~なんて。まぁ細かいこと気にしない! ほら、早く帰って」


 そんな風に笑って水辺へと向かう妹の様子、やはりおかしい。追いかけようとすると、妹は体を河の方へ向けたまま左手を上げてそれを制止する。


「早く帰ってあげて…ティクスお姉ちゃん、本当に待ってるんだから。じャナいト…」


 こちらに背を向けている妹の声が、少し変わる。なんと言うか、乾いたような声。妹の右手がポケットへと差し込まれ、ごそごそと探っている。そして何かを取り出すと…ゆっくりこちらを振り向いた。


 気付けばその顔は…直前まで見ていたものとはまったく違っていた。焼け爛れた肌に血が滴り、髪はボサボサで服もぼろぼろ、左腕は肘がえぐれて皮膚と筋だけで繋がっているような状態だ。


「コッチニ来ルノ、コレダケジャ済マナクナルヨ…?」


 真っ黒に炭化した右手が開かれ、その中に収められていたもの…それは眼球だった。だが妹のものではない。左目は眼窩を飛び出ているが頬のところにぶら下がっているし、瞳孔が開き切った右目はぎょろっとこちらを見つめている。

 その瞬間、左目に激痛が走る。反射的に手が左目を押さえようと動き、そこに眼球が無いことに気付く。そして思い出す…左目を失った理由を、妹のおぞましい姿の理由を。


 でも、だからこそそんな姿でも、と手を伸ばす。


「ウェル、トゥ…」


「生きてネ、オ兄ちャン。…バイバイ」




「お兄ちゃん…」


 フォーリアンロザリオからエリィさんに通知が来たのが二週間前、それからエリィさんとサガラスさんは役所の知り合いに頼み込んで「本物で作った偽物」のティニの身分証明書を用意してくれた。


「今は時間が惜しいからね、人の出入りが激しい外縁地域じゃ養子縁組ひとつとっても手続きが面倒なのよ」


 そんな風に言われて渡された偽造の身分証明書とパスポート。それを使ってティニはフォーリアンロザリオに渡り、今こうしてベッドに眠るお兄ちゃんの隣にいる。顔の左半分は包帯でぐるぐる巻きにされ、左腕はギプスで固定されている。全身に大怪我を負っているものの、やれることはやったってことでティニがここに来てから三日目には集中治療室ICUから一般病棟へと移された。

 それから更に二日経っても起きる気配はまったくない。本当に目覚めてくれるのか、ナースさんに訊いても「後は本人次第」という返事しか返ってこなかった。


「大丈夫だよ、ティニちゃん。フィー君はこんな大怪我してても、私を護ってくれたんだから」


 隣のベッドはティクスお姉ちゃんだ。こっちはお腹から下に大怪我をしていて、最初はもう歩けないかも知れないなんて言われてたけど、リハビリすればなんとかなりそうなレベルまでは治療出来たみたい。


「うぅ…でもさ」


「後ろ向きなifは考えないことだよ。考えても答えは出ないし、気分悪くなるだけだしね」


 そういうこと言ってるその笑顔が疲れてるんだから逆に不安になる。もしこのまま目覚めなかったら? 最近そんな嫌なイメージばかりが頭をよぎる。ベッドの上に肘を付き、両手の指を絡めて祈る。どうか、どうかこの人を助けてください。国を捨てて逃げ出した身ですが、どうかこの願いを聞き届けてください。


「ファリエル様…」


 もはや縋れるものなら何にだって縋ろう。ルシフェランザ連邦の最高評議会議長を務める、ファリエル・セレスティア様。古来より各地で精霊信仰のあった連邦の歴史の中で、何人も歴史に名を遺す巫女を輩出してきた家系に生まれたファリエル様は花や自然の中から普通の人では感知出来ない事柄を察知し、また予知出来るという噂の人だった。

 それだけ聞けばただのオカルト話のネタにしかならなかったはずけど、ファリエル様の支持率は右肩上がりだって言うし、そうした異能云々を抜きにしても人柄や確かな政治手腕で人気を勝ち得た人なのだ。

 フォーリアンロザリオでは戦争が始まった頃、ファリエル様を「白い魔女」なんて呼んだりもしたみたいだけど、ルシフェランザ国民にとっては女神様みたいな人だ。…ティニも少し、憧れてたりした。


「お兄ちゃんを死なせないでください。お願いします、お願いします…!」


「勝手に…殺すな」


 ぼそぼそっと、思わず聞き逃してしまいそうなほど小さい声が聞こえて視線を跳ね上げる。お兄ちゃんの右目がほんの少しだけ開いて、ティニを見ていた。


「お兄ちゃん!?」


「なん、で…疑問形なんだよ」


 口に当てられたマスクのせいで声がこもってるけど、間違いなくお兄ちゃんの声だ。やばい、泣きそう。


「えっと、お兄ちゃ…。あ、ティクスお姉ちゃん! お兄ちゃん、気が付いたよ!」


「ホント!? フィー君、大丈夫!?」


 ティクスお姉ちゃんのいるベッドはお兄ちゃんからすれば左側にある。ゆっくり顔をそちらに向けると、またぼそぼそと口を動かした。


「お前な…こんな状態の人間に、『大丈夫?』とか…。大丈夫そうに、見える…か?」


「あ、う、ごめん。大丈夫なわけないもんね」


 言葉では謝っているのにその表情はこの上なく嬉しそうだ。お兄ちゃんは「やれやれ」と疲れ切った溜息を吐くと、「ここは…?」と視線だけを巡らせる。


「本国のアイオーン病院だよ。フィー君、一ヶ月以上も意識が戻らなかったんだ」


「なるほど。道理で…体が重い、わけだ」


 わずかに開いていた右目が、また閉じていく。


「あ、お兄ちゃん!?」


「まだ疲れてるんだよ、寝かせてあげて。ティニちゃん、エリィさんにフィー君の意識が戻ったって電話で教えてあげてきてくれる?」


 慌ててゆすり起こそうとしたティニをティクスお姉ちゃんが止める。あ、そっか。エリィさんは当面の生活のためって言って食料とかを買いに行ってるんだっけ。


「うん、解った。ちょっと行ってくるね!」


 行ってらっしゃい、と手を振るティクスお姉ちゃんに見送られて病室を飛び出す。院内は走らないで、なんて廊下を歩いていたナースさんに注意されたけど「ごめんなさい」と謝りながら構わず走り続けた。

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