第九十五話:湯の中の触れあい
お千代と紫月がたどり着いたのは、「丁字屋」という湯屋であった。
七日町にはいくつかの湯屋があるが、火災による損害をどの見世も被っていた。丁字屋も例外ではなく、屋根が少しだけ崩れている。
しかし中の浴室はなんとか無事らしく、火災の後始末や新しく見世を立て直すために雇われた人足や大工達が汗を流すため通っていたので、丁字屋は現在七日町で唯一営業している湯屋だった。
通常、花街の湯屋はまず女郎が湯に入る。花街では売れている女郎が一番偉く、一人前の女郎達が終わったら見習いや禿達、彼女たちが終わってやっと見世の男衆、下人達、そして湯じまいをした後は残り湯で湯屋の経営者達が入り、営業が終わる。
現在、
「ああ、まっとくれ」
お千代が小走りで暖簾を下げようとしていた番代の男に近づく。
「月華楼のお千代さんじゃないですか。どうしました? 今日は月華楼はやっていないでしょう?」
言いながら、男はお千代の後ろの紫月を見て眉をひそめる。髪も髭も体毛も伸び放題の山賊のような紫月は、ここ花街では不審者にしか見えなかった。
「いやね、今日ちょっと久しぶりに掃除をしたんで煤まみれでね、ここで汗と汚れを流そうと思ってさ」
「は、はあ……?」
紫月は無言で下を向いている。容貌も相まってとても不気味だ。
少し怯えている番代の男にお千代は湯の代金を支払う。それは二人分のほかに少し上乗せしている。
「こっちの男は、新しくうちで男衆として雇うやつなんだけどね、今まで家も家族も失って放浪していてたからこの有様さね。雇う前に身綺麗にしないとってんで連れてきたのさ」
すらすらとお千代は嘘を言う。それでも男はまだ訝しがっていたが、お千代が更に銭を出すと、ようやく紫月達は湯に入ることが許された。
「悪いね。髪も洗わなきゃいけんせんから、湯を全部使っちまうかもしれない。これで新しく湯を張っとくれ」
松の実、百合の球根、大車菊、
高価な匂い袋までオマケさせられ、お千代はにっこりと微笑み返し、紫月の手を引いて脱衣所に入っていった。
※
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のろのろと裸になった紫月は、
そんな湯女のようなことはしなくていい、自分一人で洗えると紫月は言ったが、「背中の毛まで剃れないでしょ? 素直にあっしに任せなんし」とお千代に返され、なされるがままになっている。
荒い繊維の布と石鹸をこすって泡立たせ、浅黒い肌を何度もこする。石鹸には香でも練り込んでいるのか、妙に官能的な匂いが浴室に漂う。
こすればこするほど垢が次々と落ちる。垢で着物が仕立てられるでおざんすな、とお千代は軽口を叩くが、紫月は黙々と前を洗い、体毛を剃っている。
剛毛に覆われていた手足は肌が見えてきて、伸び放題の髭も剃ると、そこにはげっそりと痩せた紫月の顔が見えてきた。
「ああ、やっとひのえの顔が拝めた。やはりそっちの方がいい男ね」
お千代が笑いながら紫月の髪を洗う。皮脂に汚れた頭は、最初に石鹸をこすっても泡立たなかった。二度目でやっと少し泡だって、結局三回洗髪するはめになった。
石鹸と皮脂を洗い流すと、お千代は椿油をトリートメントとして紫月のごわごわした髪に塗っていく。全体に塗り終わると、保湿させるため手拭いで髪をまとめ、浴槽に入る。下に敷いた匂い袋のおかげでいい匂いの湯につかれてお千代はご機嫌だが、紫月はまだぼーっと虚空を眺めている。
「んーっ! こうしてひのえと二人っきりで湯に入るなんて久しぶりでありんすな」
体を伸ばしながらお千代が言う。月の里の浴場は男女別であり、夫婦でも一緒に入ることは基本ない。最後に一緒に湯に入ったのは何年前だろう? とお千代は考えたが、結局思い出せなかった。
「…………お千代」
ぼそっと、紫月が妻の名を呼ぶ。お千代はどうしたのかと首を傾げたが、紫月は暗い顔のまま少し黙ったあと、「切腹ってどうやるんだ?」と尋ねてきた。
「……は?」
聞き間違いか? とお千代が不思議そうに顔を顰めると、紫月は視線を湯に落としたまま続ける。
「七日町をこんなに壊してしまい、更に主であるさや様に重傷を負わせてしまった……。さや様を守るのが俺の任務のはずなのに、深く傷つけてしまった……。顔に痕でも残るものなら、俺は責任をとって腹を切らなければならないが、正式なやりかたが分からなくって……」
ぼそぼそと呟く紫月の脳裏には、鼻血を出し青痰が出来、何度も殴られて腫れ上がったさやの顔が思い出される。
医療班の手当は受けただろうが、何日かは腫れがひかないだろう。最悪、怪我の痕がずっと顔に残ってしまうかもしれない。嫁入り前の年頃の娘――しかも主をあんな顔にしてしまった責任は死を持って償わなければならない。
だが、紫月は武士ではないので、正式な切腹の作法がわからない。ただ腹を切ればいいのではなく、介錯人も必要だ。衣装は左前の白装束でいいのだろうか? 場はどうやって整えればいい? そもそも里のどこでやれば――
「こんの、
お千代が思いっきり紫月の頬を抓る。爪が食い込み結構な力で肉を引っ張られ、思わず紫月は痛みで呻いてしまう。
「ひのえのあんぽんたんが! あんたの任務はさやさんを次代の子が生まれるまで守り抜くことじゃねが! 誰が死ねと言ったね! さやさんもそんなこと望んでいない! この
いつもは温厚なお千代が、般若のような表情で紫月の顔の皮膚を思いっきり引っ張る。それだけじゃ飽き足らず紫月の厚い胸板を拳で何度も叩き、そのうちの一つがみぞおちに入ってしまい、紫月は「うごっ!?」と奇妙な悲鳴を上げてしまう。
「さやさんだけじゃありんせん。あっしも、ひのえに死んでほしくない……。もう、一人にしないで……」
ぎゅ、とお千代が紫月の背中に手を回し、顔を胸に当てる。お千代の細い肩が震えている。
(……泣いている?)
お千代の泣いている姿など、子が亡くなったあの時しか見たことがない。いつも笑顔を絶やさなかった妻が、人目も憚らず子の
お千代は骸を放すのをのを嫌がって、結局死産の三日後に子を荼毘に付し、里の慰霊碑の下に殉死した忍び達の髪や爪と一緒に骨を埋めた。喉の骨は長屋の仏壇に小さな陶器に入れて置いている。
子を亡くしてしばらく放心状態だったお千代は、時間の経過とともに段々と元の快活さを取り戻し、任務にも励むようになったが、本当はずっと無理をしていたとしたら? まだ心の傷は治っていなく、しかしそれを必死に隠して明るく振る舞っていたとしたら?
(……ああ、俺は本当に馬鹿だ)
紫月はお千代の体を抱きしめる。一瞬お千代が胸から顔を上げたが、紫月はお千代の後頭部を押して自身の胸へ顔をつかせる。
忍びは他者の心を理解しなくてはならない。心の機微を感じ取れるセンスがなければ、一流の忍びとはいえない。
紫月は改めて自分は忍び失格だ、と思った。身近にいた妻の心すら理解することが出来なかった。自分勝手に死のうとして任務を放棄しかけた。本当に、俺は忍びに向いていない。
「お千代。すまなかった。お前の気持ちを分かってやることが出来ず、無理ばかりさせてきた。本当にすまない」
ぴく、とお千代の肩が震えた。お千代の背を撫でながら紫月は続ける。
「今まで駄目な夫だったが、これからはきちんとする。決してお前をひとりにしない。お前もさや様も俺が守り抜く」
お千代が顔を上げる。彼女の真っ赤な目を見て罪悪感がずん、と増したが、涙に濡れているお千代もまた美しかった。こんな美しい女を妻に出来て、自分は果報者なのだ、と心の底から思った。
浴室の湯の中で、紫月とお千代はどちらからともなく唇を重ねていた。
それは今まで重ねていた口づけとは違う、初めて心も体も通じ合った深く優しい口づけ、であった。
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