第三十九話:馬に乗るということ

 相馬野馬追で騎乗する馬を選び、名をかつての愛馬と同じ「ソハヤ」と名付けたさやは、まずソハヤとの信頼関係を築くための努力をした。


 馬は繊細で頭の良い動物である。強引に接しては警戒され背に乗ることを拒否されてしまう。さやはソハヤの名を呼びながら正面から近づき、頬を優しく撫でる。

 そして自分の匂いを覚えさせるため、鼻の近くに手を伸ばし嗅がせてやる。そのようなことを何度か繰り返していると、警戒し耳を後ろに伏せていたソハヤは、段々と耳を真っ直ぐ上に立てるようになった。これはこちらに興味を持っているサインである。


 しかしまだ騎乗はしない。さやはレラに言われたとおり、ソハヤの馬房の掃除や寝藁の交換、蹄の手入れや餌やりに毛並みの整えといった身の回りの世話を全て行った。

 馬糞まじりの重い寝藁を何度も取り替え、伸びてくる蹄を削り泥を取ってやり、身体を綺麗に洗ってやるのはなかなかの重労働で、手にできた血豆が潰れたり、全身が筋肉痛に陥ったりした。さやは月の里にて雪かきなどで鍛えられ、それなりに体力がついているつもりだったが、馬の世話は雪かきや忍びの修行とはまた違う辛さがあった。


 月の里でも馬は飼っており、忍びでも馬に乗ることはよくある。なので馬術も習うし、忍獣飼育班の馬の世話を手伝ったこともあったが、自分の馬を一日中世話するのがこんなに大変だとは思わなかった。


「まず第一に、馬に信頼されること。馬に敬意を払い、自らを主人と認めさせること。それが大事だ」

 そうレラは言った。


 馬と人が共に暮らすためには「馴致じゅんち」という過程が必要不可欠だ。母馬から離乳させ、鞍やハミに慣らし、人に慣らす。馬はひらひらした布や光り物に怯える性質があるが、これも徐々に慣れるよう調教する。旗をゆっくりと顔の前で何度も振ったり、馬装を付け足していったり、音にも慣らしていく。最初は怯えて暴れ出すことの多かったソハヤも、根気よく調教を繰り返していくと次第に慣れていき、動揺することはなくなっていった。

 ソハヤの世話をし、レラの家で鮭のオハウ汁物などを頂き、寝る前に必ずソハヤの馬房に行き首を撫でて「おやすみ」と告げた後、さやは厩の近くの小屋にて泥のように眠りに就く。


そうして半月程経って、蝦夷の里に桜が咲き始めた頃、ようやくさやはソハヤに騎乗することが許された。


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 さやと紫月は、蝦夷の民の装束を纏う。さやは蝦夷の文様が入った着物に鉢巻きを巻き、派手な首飾りも首から下げる。紫月も同じ着物を纏うが、背の高い紫月に合う着物がなく、少し寸足らずだ。本来なら耳飾りもつけるが、その為には耳に穴を空けなくてはいけないので、さや達は耳飾りは付けることが出来ない。アクリにも首元に同じ文様の入った布を巻いた。アクリは不思議そうにくぅーんと鳴く。


 ソハヤに鞍と手綱を付けながら、さやは「よろしくね、ソハヤ」と首筋を撫でながら告げる。ソハヤは機嫌が良さそうに歯を見せた。

 馬の訓練用に設けられた馬術場で、さやはあぶみに左足をかけ、ソハヤに跨がる。久しぶりに馬に乗ったさやは、そのあまりの視界の高さに驚き、腰を曲げてしまった。

 するとソハヤがいななき、大きく身体を揺らす。その衝撃でさやはバランスを崩し、鞍から落ちそうになる。


「きゃあ!」


 地面に落ちる寸前、紫月がさやを受け止めた。さやは驚いてソハヤを見たが、先ほどとは違いソハヤは不快そうに首を振った。


「獣相手に臆しては駄目です。馬は犬と同じで順位をつける生き物です。主人として堂々としていなさい」


 そう紫月に言われ、さやは再びソハヤに跨がる。今度は背筋を伸ばし、真っ直ぐに前を向く。ソハヤは暴れることはなかったが、さやの合図に答えず走り始めてくれない。

 さやは苛立ち、「ソハヤ! 行け!」と手綱を引っ張り何度も怒鳴ってしまった。だがソハヤは答えてくれない。


「さや、それじゃあ駄目だ」


 レラがさやを見上げながら言う。思わずさやはレラを睨んでしまった。


「だって、ソハヤが……」

「馬はお前の奴隷じゃない。思い通りに動いてくれないのは馬を軽視している証拠だ。乗馬は馬と騎手が一体化しないと駄目なんだ」

「一体化……?」


 何を言っているんだろう、とさやは思ってしまった。馬は家畜でしかなく、人は馬を使いこなす存在だ。馬と人が一体化するというのはどういう意味なんだろう?


「意味が分からないって顔だな。なら俺が手本を見せてやる」


 レラはそう言うと、ソハヤに近づき首筋を優しく撫でる。その手つきは絹糸を扱うかの如く繊細で滑らかだ。そしてレラは軽やかにソハヤに跨がってみせる。


「あ……」


 さやは思わず声を漏らす。レラとソハヤの纏っている空気が同じに感じたのだ。そこには馬を支配してやろうという傲慢さは見えず、レラとソハヤは一つの生物となり、ソハヤはレラの思考を読み取ったかの如くごく自然に歩き出していた。

 並足から始まって徐々に速度を上げていき、速歩、そして駆け足になり襲歩となる。全速力で走るソハヤは、途中の障害物も難なく飛び越える。

 天恵眼を発動させたさやは、レラが全身の筋肉に無駄な力を入れることなく、ごく自然にソハヤに身を任せているのを見た。その時のレラはソハヤであり、ソハヤはレラであった。


「わかったか?」


 場内を何周かして、レラはソハヤと共にさやの元に帰ってきた。ソハヤと視線が合う。さやが乗るときとは違う目つきであった。

 なんとなく、分かった気がする。私はソハヤの主人だが、馬を操るのではなく、馬と共に走らなくてはいけないのだ。その為に馬に信頼され、無理な力を入れることなく馬と一体化しなくてはならない。ここでは馬は家畜でも道具でもなく、戦を共にする戦友なのだ。


 さやはゆっくりと深呼吸すると、ソハヤに近づき、「一緒に走ろうね、ソハヤ」と優しく首筋を撫でながら告げる。その時のソハヤの首の筋肉が、僅かに緩んだ気がした。

 再びさやはソハヤに乗り、背筋を伸ばし息を吐くと、ソハヤの腹を軽く蹴る。するとソハヤは今度は歩き出してくれた。

 さやはソハヤと自分を一体化させるよう務めた。尻から響く振動と自身の呼吸を合わせ、ソハヤが気持ちよく走ってくれるよう筋肉に余計な力を入れずソハヤに任せ、そして手綱を引き指示をだす。すると並足から駆け足へと滑らかに速度が上がり、襲歩となりさやが前のめりの姿勢に変える。そして馬場を三周して徐々に速度を落としていき、さやとソハヤはレラと紫月の元へ帰投する。


「出来た! 出来たよ!」


 さやが嬉しそうに叫びながらソハヤの首を軽く叩く。紫月は安心したように息を吐き、レラは「コツは掴んだみたいだな」とぶっきらぼうに言う。


「だがまだ基本的なことしか出来てないぞ。野馬追のためにはもっと鍛錬しないとな」

「わかってるよ」


 こうしてさやは毎日ソハヤに乗り、様々な障害物の越し方や、勾配のある坂を登ったり下りたりを繰り返し、格段に乗馬の技術を上げていった。

 そして蝦夷の里の桜がすっかり散った頃、ようやく馬上での弓胎弓ひごゆみの使い方を教わるときが来た。

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