さぁ、走れ!!

 疲れきったリーゼンお嬢様の呼吸が整うまで、俺達はのんびりと裏庭を散歩していた。


 せっかくこれだけ綺麗な庭があるのだ。散歩しない方がもったいない。


 綺麗に整えられた芝生を踏み倒しながら、俺達はこの後何を教えるのかを話し合う。


 「先ずはランニングからだな。体力がなければ何も出来ない」

 「なんかいっつも走ってない?」

 「それだけ持久力ってのは大事なのさ。俺たちだって、吸血鬼夫婦に一番最初に教えられたのは“逃げ足”だっただろ?」

 「そういえばそうだったね。朝から晩まで探知を使い続けながらの鬼ごっこ........あれは地獄だったよ」

 「何がいやらしいって、アンスールの家に帰って寝ている時も襲ってくるのがやべぇよ。それで捕まれば、ドラゴンの巣に投げ入れられるんだぞ?マジで俺を殺しに来てるんじゃないかと思ったね」


 今思い返せば笑い話で済むが、当時は本当に死ぬかと思った。


 疲れきった身体に鞭打って、死ぬ気で逃げ回ったのだから。


 その時できた傷は10や20では済まない。


 今でもあちこちにその痕は残っていた。


 「流石にお嬢様相手にそれはやらないよね?」

 「俺を一体なんだと思ってるんだ?流石にそれはやらねぇよ。俺はそこまで鬼じゃない」


 そんな事しようとした日には、サリナ辺りが俺を殺しに来そうである。


 なるべくこの家の人達との関係は良好でいたいのだ。やり過ぎる訓練は控えておこうと思う。


 5分ほど散歩をした後、俺達はリーゼンお嬢様に呼ばれて昼食を取った。


 天気が良く、それでいて涼しい今日の気候は外で食べるのにピッタリである。


 新鮮な野菜とこんがりと焼いた肉を挟んだサンドウィッチ。それを、この綺麗な芝生を見ながらのんびり食べるのは中々に趣があって楽しかった。


 そして、昼食を食べ終えたら訓練再開だ。


 とはいえ、まだ胃の中にものが残っている状態で激しく動くのは宜しくない。


 先ずはゆっくりと準備運動から始めるとしよう。


 「さて、美味いサンドウィッチを食べ終えたところで、訓練再開だ。準備はいいか?」

 「バッチリよ!!」


 握り拳を作って元気一杯のリーゼンお嬢様。


 今すぐにでも走り出せそうなやる気だが、怪我などを考えるといきなり走らせる訳にも行かない。


 「よし、それじゃ先ずは柔軟体操からだ。俺達の動きを見て真似してくれ」

 「分かったわ」


 俺は両足を伸ばした状態で芝生に座ると、ゆっくりと身体を前に倒していく。


 いわゆる前屈と言うやつだ。


 基礎を見直すいい機会なので、イスも花音も一緒になって前屈をする。


 リーゼンお嬢様は、俺達の動きをチラチラ見ながら頑張って真似をしていた。


 しかし、どうやらお嬢様の体は硬いらしい。


 びっくりするほど前に体が倒れていなかった。


 「い........痛いわ。それに、そんなに身体を倒せないわよ」

 「最初はそんなもんさ。俺なんてもっと酷かったからな。あ、カエナルさん。リーゼンの背中を軽く押してやってくれ。本人が痛がるギリギリ辺りを攻めてくれればいいぞ」

 「分かったわ。リーゼン。覚悟しなさい」


 見学していたカエナルさんにそう言うと、“私の出番ね”と言わんばかりに腕を捲ってリーゼンの背中を押していく。


 そんなに気合いを入れなくてもいいのだが、やはり我が子には厳しくなるのだろう。


 明らかに押す力が強かった。


 「いだだだだだ!!お母様!!痛い!!痛いです!!」

 「このぐらいでいいのかしら?」

 「いいんじゃない?それじゃ10数えるぞー」

 「え"!!今から10秒も?!」

 「はい、いーーーち、にーーーい」

 「遅い!!遅いわよせんせ───────いだぁぁぁぁぁ!!」


 リーゼンお嬢様の悲鳴は、俺が10を数え終わるまで続いた。


 あまりに大きい悲鳴だったのか、メイドや執事達が様子を見に来ては困惑するその様を見るのは、少し面白かった。


 「痛い。足が痛いわ........」


 半泣きで芝生に倒れ込むリーゼンお嬢様だが、まだまだ柔軟体操は始まったばかりである。


 悪いがもっと身体を虐めて貰うとしよう。


 「はい、じゃぁ次は座ったまま足を広げて。もう一度身体を倒しましょー」


 俺達が今度は開脚前屈をしているのを見て、リーゼンお嬢様は面白いほど顔を青くしていた。


 その顔には“まだやるのか”と書かれている。


 「ほら、リーゼンやるわよ」

 「ちょ、待ってお母様。心の準備が────────あ"ぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 こうして、柔軟体操が終わるまでリーゼンお嬢様の悲鳴は絶え間なく響くのだった。


 「死んだ。死んだわ。私はもう黄泉の世界へと足を踏み入れたわ........」


 柔軟体操が終わったあと、リーゼンお嬢様はボロ雑巾の様に地べたに這い蹲る。


 体が硬い人にとって柔軟体操が地獄なのは分かっているので少し同情するが、これをしないと怪我をするリスクが高くなってしまう。


 本当は俺と手合わせする前にやるべきだったのだが、忘れてたのは内緒である、


 「ちなみに、訓練が終わったあともこれをやるからな」

 「私に死ねと?」

 「大丈夫大丈夫。クールダウンは楽だから」


 俺の言葉を聞いて絶望するリーゼンお嬢様。ちょっとからかってやりたい気持ちもあるが、あまりやりすぎると嫌われそうなのでやめておこう。


 リーゼンお嬢様は深くため息を着いた後、ゆっくりと立ち上がる。


 あれほど悲鳴をあげていた割には元気そうだ。


 「それで?この準備運動にはなんの意味があるのかしら?何も意味が無いとか言ったらぶっ飛ばすわよ?」

 「ちゃんと意味はあるさ。怪我の予防と身体全体の可動域を広げれるんだ。怪我の予防は言わずもがな、身体全体の可動域を広げることは戦闘に置いても役に立つ。今のリーゼンだと、顔面へのハイキックとかできないだろ?」

 「できないわね」

 「身体が柔らかくなればそれができるようになる。攻撃の手段がひとつ増えるんだ。自分の体が思い通りに動かせる様になるには必要なんだよ」

 「何となく分かったわ。1日2日じゃ効果は実感できないってことも」

 「察しがいいな。俺がいない時も毎日きちんとやるといい。1年もやれば十分身体は柔らかくなるはずだ」


 ふむふむと頷いてどこから取り出したのか、メモ帳に俺の言ったことを書いていくリーゼンお嬢様。


 やることの目的を分かっていてトレーニングするの、何も知らずにトレーニングするのでは大きな違いが出る。


 そこを自然に感じ取って俺に質問してくるあたり、この子は優秀なのだろう。


 俺だったら間違いなく適当にやってるね。


 俺はリーゼンお嬢様がメモし終わるのを待った後、地獄の一言を発した。


 「よし、メモは終わったな?それじゃやることはひとつ。走れ!!体力の限界まで走り続けろ!!」


 俺はそう言ってジョギングペースで走り始める。


 急に走り始めた俺を見て、リーゼンお嬢様も慌てて俺の後に着いてきた。


 「こんなにゆっくりなのかしら?」

 「最初だけだぞ。あ、無理して着いてこなくていいからな。もう走れないってなったらゆっくり歩くんだ。急に止まると筋肉が固まる」

 「分かったわ。死ぬ気で先生に着いていけばいいのね?」


 何も分かってねぇ。


 さっきまでの賢いお嬢様はどこへ行ったのやら。


 まぁ、着いてこれるものなら着いてくるといい。俺達のスピードがどれほどのものがこのお嬢様に見せてやるとしよう。


 そうして走ること3時間。


 リーゼンお嬢様が着いてこれたのは最初の15分だけだった。


 初めてにしては、頑張った方だと思う。

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