Remember-17 不穏な空気/炭酸的な解決方法

『――ユウマ、ユウマ!』


 ……ぼんやりと声がする。ゴロゴロと暖かい何かベッドの上で寝返ると、頭に溜まっていた血液が全身に下っていく感覚が心地良い。

 滞留していた血が流れる涼しさと共に眠気で麻痺していた頭が、水面に浮上するみたいに少しずつ冴えてきた。


「ああ、おはようベル。俺、どれぐらい寝てた……?」


 思わず出たあくびを噛み殺す。目に溜まっていた涙を擦り拭いながらベルに呑気に尋ねた。しかし、帰ってきた返事は穏やかな雰囲気ではなかった。


『ユウマ! しっかりしてくれ! 今は寝ぼけている場合じゃないんだ!』

「……ベル? ああ、寝ぼけた頭で食べるのは食事に失礼だもんな……ちゃんと目を覚ましてから夕飯は食べる……」

『違う! そうじゃない!! ああもうなんだその食への変に丁寧な姿勢は!』


 俺はベルの様子に首をかしげながら、ガラスを手繰り寄せる。瞼を擦りながらベルの様子を伺うと、何故かベルは慌てているようだった。


「? ベル、どうかしたのか? もしかして何か――」


 何かあったのか、と言い切る前に妙な音が聞こえた。ガラスか、あるいは陶器が割れる音。それが一度では無く三、四度も続けて床の下から鳴り響く。

思っていたよりも壁とか床が薄いんだな――なんて、呑気な感想が浮かんでいたのだが、何度も聞こえてくると流石に妙だと思えてくる。


『なあ、ユウマ。さっきから聞こえるこの音、何だと思う……?』

「……不審な音」

『それは私も分かってる。もしかして下の階で誰か暴れているのか?』

「この部屋の下って確かキッチンだったっけ」


 物が割れる音に続けて、今度は何かが倒れる音。ベルの言う通り、まるで誰かが下で暴れているんじゃないかと嫌なイメージが浮かぶ。

 ……確か酒場もやっていたから、酒に酔った人が暴れているのかもしれない。


「ちょっと様子を見てくる。掃除の手伝いが必要かもしれない……もっと深刻かもしれないけど」

『……気をつけてくれ。念のため慎重に様子を見るんだぞ』

「ああ、わかったよ」


 入り口の上着かけにぶら下げていた上着を着込み、ベルをポケットの中に入れる。

 恐る恐ると部屋の戸を開いてみると、妙な雰囲気が漂っている気がする。大広間の方が妙に静かだ。


『繰り返し言うけど、慎重にな。やっぱりこの空気、妙だ』

「…………」


 俺は息を殺して慎重に大広間へ向かう。足音も靴底が床と擦れる音も最小限にして忍び足で廊下を歩いた。

 ……自身の音を最小限に抑えたおかげか、あるいは大広間に近づいているからなのか。何故か静かな大広間からは僅かに誰かの話し声がするのが分かる。


「……誰の声だろう」

『ユウマ、小声で話せ。何か様子がおかしい』

「分かった……何か護身用に欲しいな」


 様子がおかしなことはとっくの昔に分かっている。不審な雰囲気を感じているうちに動悸がして呼吸が不自然に乱れ、寝起きの頭も叩き起こされている。

 廊下の先には大広間に続く階段。この先を行けば真っ直ぐ大広間――ギルドのカウンターや酒場の席が並ぶ場所に出ることができる。


「……ここの従業員は三人。あとはあの野郎だけだが」


 階段を一歩降りたところで、誰かの声が聞こえた。

 声色は男性のもので、ペーターさんやバーンさんではない。どうやら誰かと会話をしているらしい。


「……クソッ、無駄足だったなチクショウめ。だがまあ、リーダーが向こうに行ってるなら無駄じゃなかったか」

「バッカお前、リーダーは単に手柄を独占したかったんじゃねーの? 邪魔な俺らをこっちに寄越してさ」

「……なるほどな。やっぱりチクショウめ」


 会話に耳を傾けながら階段を一歩一歩、足音も息も、衣類の擦れる音も最小限にして階段を降りる。

 無事に大広間への出入り口に辿り着いたところで、俺は陰に身を隠して大広間がどうなっているのか覗き込んでみた。


「……男が二人。袋か何かを被ってて顔が分からないけど……」

『穏やかじゃないのは確かだな。他には何か見えないか?』

「……武器だ。二人とも刃物を握ってる」


 顔を隠した大柄な男が二人。二人とも共通して短剣を抜き身で握っていて、ブツブツと会話をしている。細かいことまでは分からないのだが、これでハッキリした。

 ……いや、部屋を出た時点で何か不穏なことが起きている予感はしていたのだが、これで間違いなくそうだと言える確信を得た。


「……そうだ。レイラさんにペーターさん、バーンさんは何処に居るんだろう」

『ちょうど外に出かけているか、あるいはその男二人に捕まっているかもしれない。もしかしたら――』

「……分かった」


 ……そこから先は聞きたくない。なんだか聞きたくない言葉を聞いてしまう予感を感じて、俺は続きを遮るように一言だけ小声で話した。

 男二人に気づかれないように身を伏せながら、すぐ隣のキッチンに音を立てずに忍び込む。レイラさんは俺のことを客だと言ってくれたが、今はまさに泥棒か虫の気分だ。

 こんなことを言ってる場合じゃないことは分かっているが、割れた食器の散らばる床を這って進むのはあんまり良い気分じゃない。


「……キッチンは大惨事だ。食器が怖いぐらいに割れてる」

『そこに誰か居ないのか?』

「誰も居ない。おかげで誰にも気がつかれずに隠れられる訳だけど……そうだ」


 割れて飛び散ったガラス片を見て閃いた。ポケットからガラスを取り出してベルと向かい合う。


「頼みがある。ベルはガラスの中を渡り歩けるんだろ? それで周囲の状況を見て回れないか?」

『ガラス……うん、散らかってるお陰でできそうだ。それにあそこの鏡にも渡れると思う。やってみるよ』

「頼む。気がつかれないようにな」


 ガラスの外に飛び出すみたいに、ベルが手元のガラスの中から居なくなる。原理も理屈も不明だが、お陰で斥候は任せられる。

 そしてほんの少し経った頃、ベルが手元のガラスの中に飛び戻ってきた。


『ユウマ、三人とも見つけた。縄で縛られているが全員無事だ』

「場所は?」

『酒樽とか置いてある倉庫の中。でも不審な男二人をやり過ごして近づくのは不可能な位置だな……』

「だったらまずは……キッチンだから、刃物は当然あるよな」


 床に落ちていた大きな包丁を拾い上げて、刃に付いた汚れを指先で慎重に拭い取る。刀身には不安そうに口を結ぶ自分の顔が映し出されていた。


『危険だぞ。本当にやるのか』

「…………ああ」


 今更迷いは無い。俺は包丁を首に添えて、軽く引っ掻くように切り抜いた。


「ッ――――」


 皮膚の上にまた皮膚のような膜があって、それが刃物で切られてちぎれるような感覚。

 そのちぎれた膜はゴム風船に穴を開けたみたいに一瞬で消え失せ、中身生命力が噴き出すような感覚がして――俺は転生していた。


「……シャーリィにいきなり切られた時もだけど、転生する瞬間って生きた心地がしない」

『生命力……だったか。たとえ不要な分でも命を使ってることには変わりは無いからな』


 口から風のような息を吐く。

 小さく愚痴をこぼしながら俺は嫌な汗を拭いつつ、用の無くなった刃物を静かに捨てた。


『流石にこの距離じゃ、ユウマの魔法も難しいんじゃないかな』

「距離がありすぎる……届きはしても威力が無い」


 ベルの言う通り、あそこまで離れた場所だと魔法でも手が届かない。圧縮した空気を撃ち出しても男二人をまとめて無力化は不可能だ。

 礫の散弾なら届くかも知れないが、狙いが疎らだから最悪の場合、レイラさん達に当たってしまう可能性だってある。


「俺の魔法じゃ、遠くで皆を守りながら攻撃をするのは無理だ……」


 ……何か無いか。遠くから一瞬で大柄な男二人をまとめて倒せるような、そんな都合の良い武器とかキッチンに備えてあったりしないだろうか。

 しかし、当然そんな物はなく、あるのは割れた食器に無事な食器、ジョッキに作りかけの料理とか酒樽とか。一番武器になりそうなのはさっき捨てた包丁ぐらい。


『……ユウマ、どうするんだ』

「分かってる、分かってるとも。やるよ、やってやるとも」


 自分に言い聞かせるみたいな返事をして、この状況を打破するための武器を拾うために中腰程度に立ち上がる。

 まず床に転がったジョッキを二つ手にとって、酒樽の蛇口を緩めて二つとも酒を注ぐ。大きな音が出ないように慎重に注いだジョッキの中身は、シュワシュワと弾けている黄金色の液体と白い綿のような泡で満たされた。


『酒なんて注いでどうするんだよ』

「こいつで挑む」

『……どうやって?』

「真っ向から堂々と」

『ユウマのおバカ。でもその勇気は天才的だと思うよ』


 若干皮肉交じりの呆れた声。傍から見れば“何考えているんだこいつは”とかそんな指摘をいただくことになりそうだが、相手が二人ならこれで十分。俺なら下手な刃物を持つよりもこっちの方が確実だ。

 宣言通り、隠れもせずキッチンから男たちの元へ歩き出した。


「……あのー、失礼します」

「ッ……だ、誰だ!?」


 少し離れた場所から大柄な男二人に声をかける。すぐに男二人は驚いたようにこちらに振り返った。

 ……ポケットの中からは『あちゃー……』なんて声が聞こえたような。


「頼まれていたお酒を。ご注文通り、二人前です」

「ちょ――!?」


 向こうから驚いて動揺した声がした。多分、俺の行動に驚いたレイラさんの声だ。

 ……いや、奇行じゃないんです。これが俺の善策なんです、だからそんな呆れたような目で見ないで。


「ちょっと待て、酒の注文なんて……いや、そもそも――オイ、なあオイ! こいつに酒を頼んだのはテメェか!?」

「は? 何? 酒だって? いやぁ、俺さ喉がカラカラだったから助かったよ」

「ふざけんな大馬鹿野郎! 俺らはお客様か? 違えだろ!?」


 覆面の男はもう一人の近づいてくる男に向かって、胸倉を掴みかねない勢いの大声で怒鳴り散らした。

 さっきから冷や汗が流れるし考えてた展開と少し違うけど、まあいいや。俺からすれば結果オーライならどんな回り道でも問題なし。


「……お客様、お酒は要らないのですか? 注ぎたてで今が一番美味しいですよ」

「あの馬鹿に酒は要らん。あと俺は酒が苦手だ。それよりも、お前も状況は分かってるな? おとなしく縄に縛られてもらえりゃ何もしない。あの馬鹿に付き合わせた分、そこんところは保証する……別に俺達は殺しが目的じゃねぇからな」

「ちょっと待てよ、俺は酒なんて頼んで――」

「黙ってろ能天気野郎! ……それで、だ――」


 覆面の男が手にしていた、今までペーターさんに向けられていた短剣が今度は俺に向けられる。被った袋の穴からは睨みつけるような形相と、手にした短剣のように鋭い目が見えた。


「テメェ、何者だ。ここにいるのは従業員は三人、ギルドマスターが一人だけの筈だが。ギルドに新しく入った従業員か何かか? あるいは――」


 返答次第では容赦はしない、と短剣がギリギリ届く間合いに男二人は迫って来る。

 ……これ以上近づかれると俺の転生がバレてしまうかも知れない。いや、転生って分かるかは別として、何かしら気がつかれるかも。

 二人ともバーンさんに負けず劣らず大柄だから、別に短剣が無くても殴りかかられたらタダじゃ済まないだろう。そう思えるほどの体格差で、抵抗は無意味だと嫌でも感じられる。


「あー……仕事を手伝おうとしたら断られたんですよね……そんな訳で正直、自分でも立場がよく分かってないんですけど――」

「分からない……? そんな訳あるか!」


 だが、その無意味のように思えてしまうことを、可能にする手段を俺は今持ち合わせている。

――改めて、一息だけ空気を吸い込み、全身から力を絞り出すように一瞬だけ“力”を込めて、手にした酒に伝達させる――!


「――色々忘れててすまないな。実際分かってないんだよ、記憶喪失だからさ。あえて自己紹介するなら、ギルドに新しく入った転生使いだ……ッ!」


 俺は両手に持っていたジョッキを顔の高さまで持ち上げる。発泡酒に溶け込んだ気体をジョッキの底に圧縮し、圧縮した気体を爆発させる。二つのジョッキの中身発泡酒をそれぞれ大男の覆面目掛けて吹き出させた。


「ぐぉ――!?」


 二人の男の顔に向けて撃ち出された液体発泡酒には、魔法によってを与えてある。水飴みたいな粘性を持って男二人の顔に貼り付いた。

 袋の上から水が固まったり隙間から入り込んで男の口を直接塞いだのだろう。息ができなくなった男二人はうめき声を漏らしながら貼り付いた水を引き剥がそうとするが、中々引き剥がすことは叶わず――そして間もなくすると、地面に膝をついて崩れるように倒れた。


「よしよし、大成功は気持ちが良い」

『お見事。どうなるかと思ったが、気持ちよく計画通りに事を運んだな。上手くいったお祝いでもしようか?』

「祝杯ならもう撃ったけど……っと」


 ちょっとだけ楽しげな会話を挟みながら、倒れて動かない男二人の顔を覆う水を掴み、あっさりと引き剥がす。

 ……空気に関しては圧縮と放射しかできないが、水に関してはある程度自由が効くようだ。変化が目に見えるから凄く扱いやすい。


「……息はしてる、よな?」

『窒息は短時間なら問題ない――とは言い切れないな。窒息時間が長かったら意識の回復は難しいと聞くぞ』

「……悪人相手だからって思い切ってやったけど、次からは気をつけて使うよ」


 手にしたゼリー状の発泡酒を一塊にグニグニ丸めて投げ捨てながら省みる。

 殺すつもりで殺したのならまだ良いと思う。だけど殺すつもりが無いのに殺してしまうのは、俺にとって良くないことのように思えた。


 この作戦は非殺傷で確実な妙案だと思っていたが、今後は余程切羽詰まっていない限り控えよう……


「って、そうだ。みなさん、怪我とかはしてないですか!?」

「うん、僕たちは大丈夫だよ! ただ、バーンが打ち身と……食器の破片が肩に……」

「これぐらいなら気にしなくて良い。それよりもこいつを使ってくれ」


 縛られたまま胡座をかいて座っていたバーンさんは、そう言うと尻の下敷きにして隠していたカミソリの刃を俺の方へ蹴り飛ばした。

 カミソリは取っ手が意図的に折られていて、どうやって拾い上げれば良いのか困惑したがなんとか怪我なく拾い上げることができた。恐らくコレで縄を切るつもりだったのだろう。


「本当は隙を突いて抜け出す予定だったが……まさかこうなるとはな」

「ユウマ君、あたしの縄を先に切ってもらえる?」

「分かりました……ちょっとこれ、扱いが難しいな」


 プチプチと縄の繊維を一本一本削るように断っていく。慣れない持ち方なので如何せん時間がかかってしまうが、両刃のカミソリなので力の入る持ち方をしたら指がざっくりと切れてしまいかねない。

 やっとのことでレイラさんを縛っていた縄が切れると、レイラさんは素早く精密に俺の手からカミソリをつまみ上げて、残る二人の縄を切断し始める。


「レイラさん、一体何があったんですか? 強盗とか?」

「いいえ……ユウマ君は知らないかもしれないけど、ギルドには敵対組織――ゲリラみたいなことをやっている集団がいるの」

「……反ギルド団体のことですか」

「そう。知っていたの」


 ピッ、と縄を断ちながらレイラさんは呟くように言いながら、申し訳なさそうな顔をしていた。

 ……凄い。レイラさんはこの数秒の間で怪我をすることもさせることもなく、ペーターさんとバーンさんの縄を切ってしまった。


「……見れば分かるけど、やられた。もしかしたら客に偵察員が紛れていたのかも。反ギルド団体が今日のギルドの営業時間を把握していたみたい。時短営業の今日を狙って動かれた」

「でも今日来た客の中に初顔は居なかったよ?」

「新顔も何も、昔から客として偵察していたんじゃないの? ほらバーン、しっかり縛る! 親指も結んでおきなさい」

「レイラ、顔の紙袋は脱がすか?」

「好きにして。顔を見たところで今更だし」


 自分たちを縛っていた縄を再利用して、バーンさんは大男たちを縄で拘束していく。先程の仕返しと言わんばかりにギチギチと血が止まりかねない強さで縛っているが、大丈夫なのだろうか……?


「……うん。バーン、ペーター。貴方たちは怪我の治療と、そいつらを見張ってて。それと――ユウマ君」


 レイラさんが二人に指示を飛ばし、何か話があるのか俺を手招いた。


「……本当は、あんな無茶なことをしたことに一言――いや、沢山言いたいことがあるんだけど……取り敢えず貴方が無事で良かった。助けてくれてありがとう」


 レイラさんは優しい笑みを浮かべて俺の身を案じてくれた。しかし、その表情も間もなくしてムッとしたものになってしまう。俺に何か言いたげに口を尖らせている。


「でも、本当に冷や冷やしたんだから。せめて包丁なんかを持ってきたのなら、あたしたちも縄を抜け出して応戦しようとしたけど……まさか持ってきた武器がお酒だなんて」

「それは……すみません。これ以外に確実な手段が思い浮かばなかったと言いますか」


 これはあくまで結果論に過ぎないのだが、あそこまで近づけるのなら他の物でも武器として使えた気がする。礫の代わりに塩を撃ち出すとか、それこそレイラさんの言ったように魔法なんか使わなくても包丁でなんとかできたかもしれない。


「でも無事で本当によかった……いいえ、まだだった」

「まだ……?」


 まだだった。その一言を聞いて、何か嫌な予感がする。

 そういえば確かに、反ギルド団体の大男たちが話していた会話に心当たりがある。確か、リーダーが別れて行動しているとか――


「……どうやら、まだ残党が王国内に潜んでいるみたいなの。そしてどうやら、そいつはギルドマスターを狙っているみたい。コイツらもそれが目的だったらしいわ」

「反ギルド団体がギルドマスターを狙っている……!?」


 そういえば、ここにギルドマスターの姿が無い。

 まさか連れて行かれたのでは――などと考えてしまったが、冷静に考えてみたらレイラさんはあくまで“狙っている”と言ったのだからそこまで深刻な事態では無い筈。すでに連れて行かれてしまったのなら“連れて行かれた”と言うだろう。


「ええ、ギルドマスターは今大使館に行ってる。南西の大使との会議があるとかでしばらく帰ってこないって言われたけど……」

「……もしも、万が一襲われた時、ギルドマスターは大丈夫なんですか」

「あの人なら多分……だけど、だからって何もしない訳にはいかない」


 そう言うとレイラさんはブーツの踵を弄る。すると一体何処に隠していたのか、一本のカミソリを取り出した。さっきから何かとカミソリを見るのだが、ひょっとしてカミソリを護身用として常備するのが普通なのだろうか……?

 そんなことを考えていると、レイラさんは刃物を手にしたままギルドを出て行こうとしていた。手品のように取り出したカミソリに驚いている間に、何も言わずに出て行こうとするものだから少し反応が遅れてしまう。


「待って下さいレイラさん。まさか一人で行く気――――……ですよね。そう言ってましたし」

「ええ。そうよ。今から行ってくる」

「でしたら……レイラさん、俺もついていきます」


 背中を向けていたレイラさんに向けて、俺はそう宣言する。

 ……沈黙が痛い。ただ単に静かなだけではなく、困惑とか驚きとかそういった感情が周囲に満ちているような、少し耐えがたい雰囲気。

 俺とレイラさんだけじゃなくて、後ろの方にいる筈のペーターさんとバーンさんまでも静かに俺を見ているのが分かる。


「……貴方はここのお客様よ。この件に貴方は関係ない」


 凍った空気を冷たい一言が払い除けた。

 俺をこれ以上ギルド絡みの揉め事に巻き込まないつもりなのだろうか。レイラさんはこちらの説得に利く耳を持ってくれなさそうな態度を取っている。


「……いい加減ムカついてきた」

「ユウマ君……?」

「シャーリィもレイラさんも、揃って同じようなこと言って! どうして“関係ない”って言葉を使って人を遠ざけようとするんですか!」


 ……自分の何処かに、冷静に事を見守っている自分自身が居る気がする。

 その自分自身から見れば、この怒り任せな発言は相手からすればうっとうしくて迷惑なものなんじゃないか、と。そんな心配をしている。


「関係のない他人が力になっちゃ駄目なんですか!? どうすれば貴女の言う関係のある人になれるんですか!」

「それ、は……」

「……居場所を頂けたんです。それに、思い上がりかもしれないけど、まだ一日程度の縁だけど、仲間の一人みたいに受け入れて貰えた感じがして嬉しかったんです」


 居場所があって受け入れられるというのは、浮き足立っていた心がようやく落ち着いたような気分でいられた。宛ても頼りも無いという不安が少しは紛れて、初めてまともに息が吸えたような、そんな心境。


「だから……仲間が危険に晒されているなら、居場所が奪い去られそうなら、俺は守ります」


 そ今度はさっきとは違う、少しひんやりとした空気が流れている。どんな言葉も弾圧されてしまいそうな凍った空気から、逆に俺に対して何か言い返そうにも言葉が見つからないような、そんな空気。


「……レイラ、同じなんだ。ユウマ君も僕たちも感じているものは同じなんだよ」


 意外にも最初に口を開いたのはペーターさんだった。

 ただ見守っているだけかと思ったが、内心では俺の意見に賛成していたらしい。隣にいるバーンさんも同じく、相変わらずの固い表情で頷いていた。


「レイラ。彼が大切なことも心配なことも分かる。だけど“大切に扱う”ことと傷つかないよう厳重に“保管”することは別だ。今のお前の行動は彼を大切に扱っていない」


 続いてバーンさんが口を開いたことも意外だった。

 普段は周りに合わせて自分の意見をよく曲げる人が、どういう訳か決意を持ってレイラさんを説得している。


「……そうよペーター……私も感じてる。その通りよバーン、今の私は間抜けなことやってる」


 ふぅ、と息を吐いてレイラさんはいつもの調子を感じる声で答えた。

 その雰囲気に先程のような拒絶はない。観念して受け入れたような、そんな様子。


「……謝りたいことも感謝したいことも、たくさんあって挙げきれそうにないから、今はこう言わせて。ユウマ君、ごめんなさい。それと、本当にありがとう」

「わぶっ」


 そう言い終わると同時にレイラさんから突然抱きつかれたものだから、思わず声が漏れた。

 レイラさんの表情は見えなかったが、とても優しい抱擁だ。なんかポカポカしてきた。もしかして俺の周辺だけ気温が上がっているんじゃないか、って思うぐらいに。


『ユウマ、ユウマ! ギルドマスターはどうなった!』

「! れ、レイラさん! ギルドマスター! 今はギルドマスターの所に行かないと!」

「ッ、そうだった!」


 小声でベルから指摘を受けてハッとした。レイラさんも同じだったらしく、俺の声を聞いた途端に勢い良く引き剥がし――目と鼻の先ぐらいの距離でお互い顔を見合わせた。


「……ユウマ君、間違いなく荒事になるってことは分かってる?」

「はい、ですけど魔法を使うからもっと荒れるかもしれません」

「よろしい、頼りになる返答ね。……ああ、そうだ」


 何か思いついたように一言呟くと、レイラさんはまたしても靴の踵を弄る。

 何をしているんだろう、なんて思っていたのは束の間のこと。靴底の隙間からスルリと銀色の板が出てくるのが今度はばっちりと見えた。


「はいこれ、魔法使いでも武器はいるでしょ? 使い捨てだし雑に使っても良いから」

「……あのこれ、なんかのブームなの……? 身だしなみは足裏に仕込むのが流行なの? 何時でも無駄毛を剃れる配慮なの……?」


 ……なんでやっぱりカミソリなんだろう。

 取っ手をこちらに向けて手渡してくれたレイラさんの得意げな顔を見ながら、俺は礼を言うことを忘れて、狼狽えながら受け取るのだった。

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