進展編

【A視点】もっとお近づきになりたい

・SideA


 やってしまった。


 あの日、彼女の新居にて誕生日を祝ってもらった時のこと。

 私は調子に乗った。

 恋人という立場を利用して、欲求を半ば強引にぶつけてしまった。

 愛でるべき可憐な花を手折るかのごとく。


 そして、何より醜悪なのは。

 事を終えてもなお、反省の念よりも機会を伺う思考が己が内に住まわっていることだ。


 そして、その感情は日々膨れ上がっている。

 汚らわしいと戒める理性もせめぎ合って、最近の私は自問自答の日々を送っていた。



「では、それの~を始めとした所有格の単数を始める」

『はい』


 少し前から始めたオンライン家庭教師のバイトは、それなりではあるがスムーズに進めるようになってきた。


「your(あなたの)は複数形になっても変わらない。Youの法則だ。

ただしmy(私の)の複数形は、『we』に習って派生する単語ではない。『our』だ」


『うぃーあー、って繋げるとどこかのOPみたいですね』

「……そこ、脱線しない。

いいか、『私たち』は『we』だが『私たちの』は『our』だ。次は先ほど説明した代表的な3人称、『彼』『彼女』『それ』についてだ。こちらはわりと法則に沿っているが、『our』同様見る影もない進化を遂げた奴がいる。それは?」


『she、ですね。他にSが付いているのに、これだけはherと別物です』


「うん、よく覚えたね。

次回は『○○に~』の目的格から始まる1、2、3人称の変換と名詞の単数、複数に入ろう。be動詞も関わってくるから主語とセットで覚えておくこと」

『わかりました』


 本日の授業分を終えて、最後に軽く雑談をして私はzoomの通信を切った。

 少しづつではあるが、中学生の理解は進んでいる。


 幸い、英単語自体の語彙は豊富だったのが意外な収穫だ。


 英文解釈では固まるものの、個々の単語を抜き出して答えさせるとさらさらと和訳が口から出てくる。

 Avengerは復讐者、Averageは平均といったように。

 記憶力は優れている子なのだ。


 であれば英文法の基礎を重点的に固めることで、骨組みを把握させていく。

 地道に叩き込んでいくしかないのだ。柔道の打ち込みのように。


 全体を一通り網羅させたら、問題集を通しでやらせて理解が浅い部分を洗い出すのが次の課題だ。


 ……身も蓋もない話をすれば、語学は聞く・話すが先で読み書きは後回しのほうがいい気もする。

 受験英語の教え方に倣う以上は仕方がないのか。


 次の授業に備えてあらかたの範囲を絞り、一息つく。

 時刻は午後8時半を過ぎたところか。

 まだ、彼女が訪れるまでは余裕がある。


 私はスマートフォンを取り出し、ある一つの答えを求めて検索の海へと流れ出た。

 喉に引っかかった小骨のごとく、いつまでも己の中で解消しない疑問を晴らすために。



「毎度こんばんはー」

 ちょうど、顔を合わせるのはあの誕生日以来か。


 いつも通り遊びに来た彼女は、今日は抱擁に趣向を変えてみると言い出した。

 マンネリ防止にしては早すぎないか。少し突っ込みを入れてみると。


「やったことないから、やりたくなった」

 新しい挑戦に貪欲な姿勢は見習いたいものだ。

 人は歳を重ねるごとに、二の足を踏みがちになってしまうものだから。


 いつまでも寒い玄関先に立たせるわけにはいかないので、ストーブを解禁した客間へと案内する。


「……それで、どういった傾向で?」

 かじかんだ両手をすり合わせる彼女に伺うと。


「その前にぬくもりをおすそ分けくだされ」

 ぬっと赤い指先が突き出される。


 両手で包み込むのが無難であろうが、長らくスマートフォンを使用していたことにより外気にさらされた指は冷たい。

 十分に体温が行き渡っているとは言えない状態にあった。


「じゃあ」

 ふと思いついて、私は手を取るとある部位へと引き寄せた。

 ここなら、温かいはず。


「およ」

 手首を掴んで、自身の首元へ。手のひらが覆いかぶさるように。

 片方の手では手の甲を包み込んで、静かにさすっていく。


「ぬくいかな」

 指先の冷感が滲みていくのを感じ取りつつ、添えた手のひらで丹念に撫でさすっていく。

 手っ取り早く暖を取るなら首に手を当てるのが一番だ。


「あー、解凍されますわー」


 少し顔を赤らめつつ、彼女が『今日は積極的だね』と声を弾ませる。


 ……確かに。

 合理的に考えるならストーブの前に座らせればいいだけで。

 私は素でこうしたことをやってのける人間だっただろうか。


 その後、座ってと言われたのでとりあえず腰を下ろすと。

「というわけで、今日は気分を変えて」


 背中に一人分の重みが伸し掛かってきた。

 背後から抱きついたらしく、首の横に彼女の顔が、両腕が胸下で交差される。


 負けず劣らずの積極的な飛びつき方に、早くも鼓動が早まるのを感じていた。


「昔親にやってたんだけどね。広い背中って抱きつきたくならない?」

「あ、ああ……」


 吐息が耳元をくすぐる。

 背中に体重をかけているので、それなりにボリュームのある部位の柔らかさを嫌でも感じ取ってしまう。


 ……おかしい。

 何度もこの程度の密着はしているのに、今になって不埒な想いを抱くことでもなかろうに。何を考えているのだ私は。


「聞いてるかーい」

 上の空にいる私に彼女が呼びかけるが、とても落ち着いて話ができる状態にはなかった。


 普通に話そう、と残念がる彼女を離して、頭を冷やすように自身の頬を叩いた。

 残念だと内心感じているのはこちらも同じであった。



「で、なんだい。話って」

 茶を振る舞い、改めて向き直る。


『すれ違いのカップルには総じて”話し合い”が不足しております』


 とあるブログ記事を覗いたときに目に飛び込んできたこの一文は、私の宙ぶらりんな心に鋭い矢を放った。


 大事なのはお話すること。

 互いの認識をすり合わせて、信頼関係を築き続けていくこと。

 率直に、私は結論から口にした。


「私は頭がおかしいらしい」

「は?」

 何いってんだこいつ、とでも言いたげに眉根を寄せて、彼女が真顔になる。


 言葉が足りなかった。即座に付け加える。

「いや、おかしいというのは心境の問題で。つまり、意識していなかったところを意識するようになったと言うべきか」


「具体的に、どういうところを?」

 聞き返されて言葉に詰まってしまった。


 それを面と向かって言わないといけないのか。

 いや、察してほしいと濁すのは駄目だ。はっきり言葉にしなければ。


「その、密着しているときとかに。変な気分になるようになって」

 自分で言っていて、想像以上に劣情に傾倒した告白をしていることに鳥肌が立ってきた。


 心を通わせて、触れ合うことで幸せを享受しているだけで何もいらないと思っていたのに。

 どうして、今になってそれ以上を欲する心変わりを起こしたのか。


「ふむふむ」


 彼女は顔色一つ変えず、黙って私の言い分を聞いていた。

 洗いざらいを吐き終えると、しばし主張を自身の中で処理すべく考え込んで。


 短く、一つの言葉へと彼女は総括した。


「あんたは」


 確かめるように、はっきりと問う。



「あたしと、したいの?」

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