第219話 醤油を造ろう
醤油蔵として造っておいた地下一階の独立部屋で、俺は必要な施設と備品を作り上げて一息ついていた。
そして、次の段階。
このミッションはかなり大変である。
醤油の原料、大豆、塩、小麦そして麹菌を手に入れることには成功した。
大豆は高圧・短時間で蒸して、小麦は炒って砕き、麹菌を加えて発酵させるわけだがこの工程が結構、繊細なのである。
麹菌は自らが成長するときに熱を発するので、適温化と酵素の力を強化するための『手入れ』をする。
この加減が、俺には全然解っていないのだ。
攪拌してほぐし、空気を送り込むのだがどの程度やればいいのかの見当が難しい。
ここの作業次第で醤油の味が決まると言っても過言ではないらしいので、細心の注意が必要なのだ。
自分の鑑定を信じて、作業を進めるしかない。
勿論、温度管理も魔法でサポートするのだが、俺自身が理解していなければ適温の調整がしにくいのである。
高温多湿でなければいけないのに、高温になりすぎるとコウジカビが死滅してしまったり、納豆菌が繁殖してしまうと言うのだから、この三日間はつきっきりである。
意を決して作業に取りかかり、勝負の三日間は寝不足と闘いながら乗り切った。
そして、大豆が白くカビで覆われ、更に繁殖が進んで黄色い胞子を付けだした。
うん、成功ではないかな?
次は、塩水に麹を混ぜ合わせる。
海水塩と、いつも使っている岩塩の二種類で造ってみよう。
違いが出るかな?
どっちも原料の麹の量に対して1.2倍の塩水にしてみた。
さあ、これで『
木の樽ふたつに移して、発酵熟成だ。
ここでも、温度管理と攪拌が大事。
そして乳酸菌や酵母菌を、ちゃんと活躍させなくてはいけない。
ここから、半年から一年かかるわけだ。
この発酵熟成のあとに圧搾して、火入れをすると醤油が完成するのである。
最初にちゃんと造っておけば、あとで【複合魔法】にしたときに品質のいい物ができあがるはずだ。
「タクト、何を作っているの? ここのところずーっと……」
「調味料を作っているんだよ。一年後には多分できる」
「あらあら、随分時間が掛かるのねぇ……」
「美味くできたら、店でも使ってよ」
「それって、魚の調味料?」
「原料は大豆だよ。魚に使うと美味しくはなるけど……肉でも凄く美味しいよ」
原料が魚だと思っていたのか、明らかに母さんはほっとした顔をした。
海の幸のハードルは、やはりかなり高いようだ。
だが、本日の夕食は『鮭と野菜のパイ包み焼き』である。
魚の姿はおろか、切り身すら見えないこの料理であれば母さんは抵抗なく作れるようだ。
パイに鮭を入れ込むのは当然、俺の担当だが。
そして、切り分けるのではないからそのまま出せる。
食べる方も魚だと意識せずに食べられるのである。
俺からしてみるとなんて残念な、とも思うのだが、海の幸克服の第一段階なのだから仕方ない。
美味しさが解ってもらえれば、水族館の展示を見てでさえ美味しそう、と呟いてしまう日本人の気持ちもいつか解ってもらえるようになるだろう。
……道のりは長いが。
醤油はきっとその苦手克服のための、いいサポート役の調味料になってくれるはずだ。
だから、絶対に美味しく造らねばならないのである!
「……タクトくん! これは、魚ですか?」
おお、ライリクスさん、バラすの早いですよ。
「鮭、です。今が一番美味しい時期なのです。どうですか?」
「こんなに美味しいものを食べたのは初めてです! 臭みも骨もないし、身がふくよかで大変味わい深い!」
「そりゃあ……特別に仕入れた『献上品』ですからね」
魚、と聞いて少し躊躇した人を引き戻す『献上品』という必殺ワード。
この機会を逃したら二度と口にできないのでは、と思わせる。
「あ、内緒ですよ? ロカエ港のものなんて、なかなか手に入らないんですから」
更に特別感を煽って……よしよし、みんな興味と関心が出てきているぞ。
「道理で……この料理方法で、更に美味しさが増しているように感じますね」
ライリクスさんは新しい料理の、良いグルメレポーターになってくれている。
彼の最高級の賛辞で、戸惑っていた人達が勢いよく食べ始めた。
そして皆様もその美味しさに気付いてくれたようである。
「美味い……魚なんて気持ち悪いと思っていたけど、これは全然違う……」
「変な臭いもないし、ほくほくで美味しい。野菜とも合うし」
「本当に全然、骨がないよ! これなら食べてて苛々しない」
皆さん食べず嫌いというわけではなく、食べたことはあるものの美味しくなかったという経験が足を引っ張っていたのか。
ならば、これからうちで定期的に本当に美味しい魚料理が出せたら、もっと好きになってもらえるかもな。
だが、刺身を受け入れてもらえるとは……あまり思えないのだが。
「うわぁ……うまーーい……! 久しぶりだなぁ、こんな旨い魚……」
うっとりと幸せそうな声を上げたのは、ファイラスさんだ。
パイから引っ張り出して魚だけを食べているところを見ると、結構なお魚好きかな?
「ファイラスさんも魚好きなの?」
「僕の家は、リバレーラのアルフェーレ港に近い所だからね。でも鮭はセラフィラントじゃないと捕れなくって、なかなか食べられなかったけど大好きなんだよ」
へえ、ファイラスさんも海の近く出身なのか。
じゃあ、献立を魚料理にする時は教えてあげよう。
「ライリクスさんは海辺の出身じゃないのに、お魚に抵抗ないんですね?」
「こいつは、食い道楽だからね」
「マントリエルは、コーエルト大河で捕れた魚の料理がありますから、全く食べないという訳じゃありません。海の魚に、馴染みが薄いだけですよ」
そう、ドミナティアの領地マントリエルは、このイスグロリエストの最も北方。
アーメルサス教国との国境となる、未だに誰ひとり踏破できていないヴァイエールト山脈とコーエルト大河に沿った土地である。
他国との行き来まではできないが、コーエルト大河の対岸はヘストレスティア共和国に続いている。
その沿岸のマントリエルは、防衛上でも重要な土地なのだ。
セラフィラントのように陸続きの国境ではないから、防衛としてはさほど神経質ではないだろうがコーエルト大河の氾濫には手を焼いているはずだ。
だからこそ、ドミナティアのような大貴族が治め、管理しているのである。
「コーエルト大河上流の魚も美味しいんですけど、他領には出回りませんからね」
「マントリエルからじゃ、セラフィラントより輸送が大変だからねぇ……保存のきく堅めの乾酪ぐらいしか、入ってこないよねー」
確かにウァラク経由での山越えはできないし、ロンデェエスト領に入ってから隣のエルディエラ領・レーデルス経由では大回り過ぎる。
日持ちするものしかシュリィイーレに入ってこないのは、仕方ないことだ。
こうしてみると、シュリィイーレって正しく『辺境』だな。
「そうだ、タクトくん、乾酪はどうなったんですか?」
思いだしたように聞いてくるライリクスさんの声に、食堂の人達の耳がぐいん、とこっちを向く感じ。
みんなチーズ、好きなのかな?
「只今、順調に熟成中です。仕上がりにはあと、一ヶ月から三ヶ月といったところでしょう」
「え? 乾酪って、そんなに時間掛かるの?」
「全ての旨いものには、膨大な時間が掛かっているのですよ。ですから、ちゃんと味わって食べてくださいね! 残すなんて、うちでは絶対に許しませんからね」
「大丈夫だよぅ。ここの店の料理を残すなんて味覚がおかしいやつ、いないって」
それは嬉しいご意見だ。
醤油を使った料理も、そう言ってもらえるようになるといいんだけどな。
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