トキ傳 観月の宴

天宮さくら

観月の宴

 山々の狭間にゆっくりと太陽が沈んでいく。空は橙から藍へと変化し、遠くで星々が瞬き始めた。その輝きに呼応するように、虫たちが小さな声を響かせる。先日よりも少し冷たく感じられる秋風が、そっとすすきを撫でていった。その冷たい風が宮中全体を通り抜け、その冷たさにはっとした阿瀬美あぜみは手を止め外を見る。

 ───空に月が昇るのもあと数刻。今夜は満月。空に雲は少ないので、その姿はとても美しく見えるだろう。

 その満月を祝う宴が今夜開かれる。観月の宴だ。一年の豊作を祝い神々に感謝する宴。阿瀬美はその宴の準備に朝から日暮れ時までずっと奔走していたのだ。

 ───月が昇る切る前にはなんとか宴の準備は終えることができるだろう。なんとか間に合って本当に良かった。

 阿瀬美はほっと胸を撫で下ろす。

 しかし、今年の宴はなんと質素なことか。舞を舞う者も楽器を奏でる者もいない、宴の食事も酒も必要最低限しか用意できなかった。宴の準備に携わる者も、例年なら宮中の役人も数名手伝いに来るというのに、今回はそれもない。トキの身の回りをお世話をする者たち数名だけで全てを準備した。

 そして、予想した通り、天元からの使者は誰一人として来なかった。

 ───先代天元が王位に就いていた頃は、こんなではなかった。

 そのことを思うと、阿瀬美は胸の奥を鷲掴みにされたような苦しみを覚える。しかし、阿瀬美にはこの事態をどうすることもできない。役人たちを動かすだけの権限は何も与えられていないし、彼らの意見を変えるだけの発言力もない。所詮はトキの世話役なのだ。宮中に使える役人ではないし、政治の中枢からは外れた存在だ。

 それでも───と思う。

 それでも、これはあんまりではないか。

 現在王位に就いている杏化天元は二年前に王位に就いた。先代が病で亡くなり、その直系であり第一皇子であった杏化天元が周囲の声に応えた形での王位だった。

 先代天元は国の平和を願い、安定のため兵を動かし役人を動かした。もちろん人の身だから至らぬ部分もあった。良策は多かったが失策がなかったわけではない。それでも、トキの言葉に耳を傾け頷き、時には説得し共に行動した。天元としての役目を全うしたのだ。

 天元はトキと共にあることで国を安定させることができる、とされている。その言い伝え通り、先代天元はトキと共にあろうと努力し、そして平和な時代を築いたのだ。

 しかし、杏化天元は先代天元とは違い、トキを毛嫌いした。

 その理由はわからない。先代天元があまりにもトキと近過ぎたのだという声もあれば、杏化天元は御伽噺がお嫌いなのだという声もある。

 だが、阿瀬美は政治の中枢にいる伽耶かや家の戯言に耳を傾けた結果だろうと睨んでいる。

 伽耶家は元々地方の小さな豪族だった。それが大陸からの技術を利用して急速に発展し、宮中まで上りつめたのだ。そのためなのか、伽耶家はトキの存在を意味不明な者として嫌っている。

「あれは人の形をした化け物だ。あれに国の行く末を任せるとは何事か」

 伽耶家の一人がそう発言したと、宮中で噂になったことがある。

 伽耶家は杏化天元がまだ幼い頃から世話役と言い張って側を離れようとしなかった家系だ。また、先代天元の妾の何人かは伽耶家の娘だ。杏化天元がトキを嫌う下地はとうの昔から準備されていたのだ。

 阿瀬美はそこまで考えを巡らし、首を横に振った。

 ───今考えるべきことは、こんな政治のことではない。

 止めていた手を再び動かし始める。

 阿瀬美は今、宴で使う盃を準備していた。これはトキが使う特別な盃で、二十年程前にとある職人に依頼して作らせたものだ。檜を薄く丸く削り口当たりが良くなるように塗装された盃で、盃の窪んだところは月を模している。とても品の良い一品物で、阿瀬美はこの盃を眺めるのが好きだった。

 その盃をそっと盆に乗せ、位置を確認する。

 ───音楽も舞もない、質素な宴だ。せめて、美しさだけでも追求したい。

 阿瀬美は昇る月のおおよその位置と盆、そしてトキが座る場所を頭の中で計算しつつ、少しずつ手を動かしては場所を探る。

「阿瀬美姉様ねえさま、お酒の準備が整いました」

 阿瀬美にそう声をかけたのは、まだ幼い表情が抜けない女子だった。トキの世話役として一昨年から仕えている子で、名を蓉奈ようなといった。今年で十二になる。阿瀬美よりも十五年下になるが、阿瀬美はこの蓉奈をとても気に入っている。細かいところに気が利くし、仕事が丁寧だからだ。

「そうですか。ありがとう」

「ただ………昨年のものより質が悪うございます。申し訳ございません」

 蓉奈は消え入りそうな声でそう言いながら、深々と頭を垂れた。

 酒の調達は、例年では必要のない仕事の一つだった。天元家から祝いとして送られてくるからだ。しかし、それが今年はない。なので阿瀬美は、トキの世話役の中でも一番の働き手である蓉奈に一任していた。

 ───きっと、どこの酒屋も酒を提供したがらなかったのだろう。

「蓉奈、あなたが謝ることではありません。顔をお上げ」

 蓉奈に近づきそっと背中をさすると、潤んだ瞳で蓉奈は顔を上げた。

 とても悔しかったのだろう、目端が赤く腫れている。もしかしたら阿瀬美の目の届かぬところで泣いていたのかもしれない。その心が、阿瀬美には申し訳なくもあり、嬉しかった。

「そろそろ宴を始めましょう。蓉奈、他の世話役たちは?」

「皆、食事を用意しています」

「なら、他の者たちにもそろそろ宴を始めること、伝えてきてください。私はトキをお呼びしてきます」

 はい、と蓉奈は答えお辞儀をして立ち去る。その動きを見て阿瀬美は、自分にはない軽やかさを感じ、苦笑した。



 国の始まりの話である。

 初代天元はまだ国のない時代、点々と存在していた村々を平定し大きな国にする旅に出た。そうすることで隣村同士の激しい争いが無くなり、より多くの農作物や有意義な人との交流を得ることができると考えたからだ。

 しかし、それは苦難の道のりだった。

 長い旅路の果てに、初代天元は南の方にある山───天に一番近いと言われていた山───の山頂に立ち、天に祈りの言葉を唱えた。それは、国の安寧のための力を貸してほしい、というものだった。

 国を作りそこに住む民に安寧を与える。そのためにならどんな犠牲も払う。

 初代天元は天に祈り、その声を天は聞き入れた。そしてその証として、人の身に神の御使を降ろしたのだ。

 それがトキである。

 トキは人に宿り一体となる。トキの言葉は民の言葉であり、神の導く先の言葉である。トキの想いは民の願いであり、トキの行動は神の思し召しである。故にトキは国の安定を導く神の御使である。

 そして、初代天元は初めの願いを叶え、国を作り民に安寧を与えるに至ったのだ。



 阿瀬美はトキを宴に誘うため、宮中の奥へと足を運ぶ。

 トキの住まうこの場所は、宮中の左端の一区画にある刻殿と呼ばれる区画だ。その中心にはトキの寝室と執務を行う部屋があり、それらを囲うようにしてトキの世話役───女官の部屋が充てがわれている。女官は多い時には三十人程になるが、今は八人程に減らされている。それは杏化天元の意向でもあるし、またトキの意向でもあった。この刻殿を、トキを嫌う役人は嫌味を込めて、鳥の巣と呼ぶ。

 阿瀬美は静かな足取りで刻殿の奥へと向かう。

 トキは天元が新たに変わってからというもの、寝室からあまり出て来ようとしない。杏化天元から必要とされていないことを嘆いているのか、人の世に関わることを諦めてしまったのか、もしくは時が変わったからなのか。トキは誰にもその胸中を話そうとしない。ただ一人、寝室に籠っている。

 そのためか、刻殿は光が失われたように暗く感じられた。

 阿瀬美はトキの寝室の前で膝をつき、声をかける。

「トキ様、失礼します」

 簾を避け、中へと入る。トキの寝室の側には小さな中庭が拵えてあり、その中庭には桃の木が一本植わっている。その桃の木は今、小さな実を数える程だけつけていた。

 その木を眺めるようにして、トキはこちらに背を向けて座っている。

 中庭から差し込む光が、トキの髪を透かすようにして微かに煌めかせる。その煌めきを見て、阿瀬美は忘れようと日々努力している不安を思い出してしまう。

 ───随分と、変わってしまった。

 阿瀬美が刻殿に移り住んできたのは五つの時だ。阿瀬美を産んだ母が昔、刻殿で女官をしていた縁で出入りするようになったのだ。その時のトキは先代天元と共に国政を動かし日々を忙しくしていた。そのため、大勢の女官がこの刻殿に住み、賑わっていた。あまりの忙しさに猫の手も借りたい、という女官たちの声に応えるために、まだたった五つしか年をとっていない子供が呼ばれた。それが阿瀬美だったのだ。

 阿瀬美は両親の教育の賜物か、幼い頃から読み書きが得意だった。それが呼ばれた決め手になったのだろう。初めは小さな手伝い───お茶汲み、掃除、物運びくらいの仕事ばかりだったか、いつしか書記、書類の取り寄せ、トキの身近なお世話をするようになっていた。その忙しさのためか、二十を越えても貰い手を見つけることが出来ず、こうして刻殿に住み続けている。気がつけば世話役の中で一番の年長となっていた。

 周りの者たちは阿瀬美を見ては、行き遅れ、と蔑んだが阿瀬美は気にはならなかった。

 ───トキ様にお仕えできるのだから、何も恥いることはない。

 あの頃のトキは、まさに光そのものだった。歩けば白く煌めく桃色の髪が煌めき、口を開けば華やかな音楽が奏でられているようだった。これを光と呼ばずしてなんと呼ぼうか。

 トキは人の身に降りた神の御使である。なので、その姿は人そのものである。しかし、人とは違うところがいくつかある。その一つが、見た目である。姿形は人そのものではあるが、年とともに容貌の変化をしない。そして、その髪は白と桃の色の髪であるということ。これが、トキである。

 人であるのに、人でない姿───それがトキの神々しさ、神秘さを高めている。故に、ある者はトキを敬愛し、ある者はトキを恐れた。

 そのトキの輝きが、杏化天元が在位してから日毎に失われている。

「そろそろ巣立ちの時ではないのか?」

 宮中内にそんな噂が広まったのは、トキの輝きが失われ始めた矢先だった。

 トキは人とは違い、長い寿命を生きる。しかし永遠ではない。時代の移り変わりと共に次のトキへと代替わりする。先代のトキが次代のトキを選び代わる時のことを、巣立ちと呼ぶのだ。

 今のトキは、悠に百年を生きている、と聞いている。

 ───時が変わった、のだろうか。

 トキに仕えて二十年以上経つ阿瀬美には、その事実が受け入れ難かった。なぜならトキは未だ衰えることなく生きていて、ここにいる。確かに輝きは昔よりは翳ってしまったが無くなったわけではない。

 ───巣立ちなぞ、私が生きている内に起こることではない。

 そう信じていた。

 しかし、トキの輝きが失われていくにつれ、宮中内からはトキを擁護する声は減っていった。トキの世話役が減ったのもその頃だ。不思議と皆、里から呼ばれて帰って行ったり婚姻を結んだりして、宮中を去っていった。

 阿瀬美は庭を眺めるトキの背に平伏する。

「観月の宴の準備が整いました」

「そうか」

 トキはそう返事しつつも、立とうとも、こちらを見ようともしない。行くとも行かぬとも言わない。ただ静かに座ったまま、動かない。

 ───やはり、傷ついておられるのだろう。

 阿瀬美はトキの胸中を思い、胸を痛める。

 観月の宴は年中行事の中でもとりわけ、トキにとって大切な行事である。

 宮中において、天元は太陽を司り、トキは月を司るとされている。太陽は先を照らし、月は行く道を照らすのだ。

 観月の宴は、満月を祝う宴である。そしてまた、一年の豊作を祝い感謝する宴でもある。そこから転じて、天元はトキの照らした道に間違いがなかったことを確認し、冬を超えるための備えを行う宣言をする行事となった。

 その宴に参加することを、杏化天元は断った。

 このことに傷つかないトキはいないだろう。宴に参加しないということは、トキが照らした道が間違いである、と杏化天元は考えた。そういうことになるからだ。

 阿瀬美は杏化天元が今年の観月の宴に参加しないことを知ったとき、激しい怒りに駆られた。

 ───いくらトキが嫌いだとはいえ、観月の宴は宮中行事の中でも重要な宴であることは変わらない。そして今年は豊作とは言えないにしても、不作ではなかった。それなのに宴に来ない、というのは天元としての役割を放棄しているのではないか。

 しかし、周りの役人たちは阿瀬美の怒りを理解しなかった。むしろ、これで開放されるとでも言いたげな様子を見せたことに、阿瀬美は愕然としたのだ。

 ───どうしてこうなってしまったのだろうか。

 トキが何かをしでかしたわけではない。無作法を働いたわけでもない。それなのに、誰も彼もがトキを見放していく。

 ───せめて、せめて私だけは。

 その先の言葉を飲み込み、阿瀬美は何も言わぬトキにもう一度平伏した。

「宴の席にて、お待ち申しております」

 トキは阿瀬美の言葉に答えず、静かにしている。その後ろ姿をもう一度見てから、阿瀬美は静かに立ち去った。



 月が昇った。月の光が宮中の端々を明るく照らしていく。影を減らし暗さを無くすその月明かりは、トキを待つ世話役たちの心を束の間、ほっとさせる。

 ───たとえ時が移り変わったとしても、この月明かりだけは変わらない。

 そんなことを阿瀬美が思っていると、背後から声がした。

「綺麗な満月だね」

 トキである。

 寝室から出て来たのだ。ゆっくりとした足取りて、トキは宴の席へとやって来る。その際、長く美しく伸ばされたトキの髪が月の光に照らされ光り輝く。光に当たっている部分は純白に輝き、その影になる部分は薄く桃色に色付くのだ。その髪の神々しさに、阿瀬美はトキと先代天元が築いた華やかな時が戻ってきたかのような錯覚を覚える。

 ───ああ、なんて美しい。

 何者にも変え難い、そしてこれこそがトキそのものである色。その輝きに、自然と頭を垂れた。

 トキは静かに、宴の席に座った。その動作で、床敷物がふわりと風を受けたかのように揺れる。

「トキ様、お待ち申しておりました」

「ごめんね、待たせてしまって」

 トキは優しく阿瀬美に声をかける。その声色に、先程寝室で聞いた時と違った響きを感じ取った阿瀬美は、思わず顔を上げてトキを見た。

 見た目は年の頃二十代の青年のように見える。髪の色が漆黒なら、年相応の若者に見えただろう。着ているものは観月の宴などの行事で着る正装ではなく、執務に当たる時に着る簡易な物を召していた。

 ───何も聞かずとも、宴には近しい者以外誰もいないことを知っておられたのだ。

 トキの表情は穏やかで、柔和だった。それはどこか、背負っていたものを置いてきたような表情に見えた。

「綺麗な満月だ」

 トキは空を見上げて呟いた。つられて阿瀬美も空を見上げる。

 丸く美しく光る月が、地上を照らしている。その光は眩しく感じられるくらいだ。

 蓉奈が奥から酒を持ってきた。それを阿瀬美の側にそっと置く。阿瀬美は蓉奈に目配せをして下がらせた。

「トキ様、こちらを」

 盆から盃を取り、トキに手渡す。トキは何も言わず、それを受け取る。阿瀬美はそこにそっと酒を注いだ。

「ありがとう。………用意するのが大変だっただろう」

「………いいえ、そんな」

 阿瀬美はトキに宮中の役人たちの態度や杏化天元のやりようを口にするつもりはなかった。どんなに寂しい宴であったとしても、その全ての責任はこの宴を仕切った自分の責任、ということにしたかった。

 そうしないと、全ては時代遅れとなってしまったトキの責任となりそうで、恐ろしかったのだ。

 トキは注がれた酒を一口で飲み、再び空を見上げる。阿瀬美はその横顔を黙って見つめた。

 静かに、秋風が吹き抜ける。少しだけ、肌寒く感じられた。

 ゆっくりと、トキが口を開いた。

「今度、トキを迎えに行こうと思う」

 ───巣立ちの時が来たのだ。

 阿瀬美はトキの言葉を聞いて、鼻の奥が痛むのを感じる。何かを言おうと思うが、言葉にできないもどかしさが胸を締め付ける。

 奥で控えていた世話役たちの、啜り泣く声がかすかに聞こえた。

 ───その言葉を聞きたくなかった。

 本音は、自分が死ぬまでのあと数十年の間はずっと、このトキに宮中にいて欲しかった。けれどそれは阿瀬美の我が儘である。来て欲しくないと願っていたその時が来てしまったことを、受け入れざるを得ないのだとわかっていた。

 ───時が、移り変わったのだ。

「長旅になる。………………その時はついてきてくれるかな、阿瀬美」

 気がつくと、トキは月ではなく阿瀬美を見つめていた。

 その真っ直ぐな瞳に、阿瀬美の頬には自然と涙が溢れる。

 ───いったいこの方の、何がいけなかったのだろうか。この方はただ自分の役目を全うしようとなさっていただけだ。決して、杏化天元がなさったような不作法はされていない。それなのに、こうして時に取り残されてしまう。それがトキという者なのだとは知ってはいるが、これではあまりにも───。

 ───けれど、その先は考えない。言葉には決してしない。それをすれば不敬である。この方は職務を全うした。ならば、私も全うせねばなるまい。

「はい、その時は是非」

 溢れる涙を抑えることなく、阿瀬美は応える。

 その阿瀬美の姿にトキは静かに微笑み、再び月を見上げた。

 ───あなたは私の光そのものですから。ですから、あなたがお隠れになるその時まで、お側にお使えしとう御座います。

 阿瀬美は深く、深く、平伏した。

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