第5話

 比呂はもともと、物事を頼まれやすく、断らないタイプである。朝早い事業の代返など、もはや日課だった。文学科の授業は出席カードに名前と学籍番号を書いて提出するものが多い。比呂の携帯電話のメモ帳には、同じ講義をとっている友人のフルネームと学籍番号が男女問わず何人分も控えられていた。

「おはよ、洋太郎」

 退屈な専門学外の必修講義。比呂も出席したところで大体は寝ている。

 隣にバッグを置きながら何の遠慮もなく座るのは、文学科三年で古谷ゼミの尾川洋太郎おがわようたろう。近代文学専門で、のほほんとしている割りに要領がよく、また人当たりもいい。多くは語らず、目立たず、いつもにこにこしている。

「先週は代返ありがとね。バイト明けでさ。助かったよ」

 これお礼ね、と洋太郎はチョコレート菓子を渡した。受け取った比呂は早速開けて食べ始める。朝はギリギリまで寝ているため、朝食を抜くことが多い。今日も例外ではなかった。

「今日はタッキーと、あ、凛子にも頼まれてたんだった」

 出席カードを、ファイルから取り出す。この出席カードだって、本来はひとり一枚しか配られないもので、比呂はあらゆる手段を使ってこのカードを集めていた。

「よくやるよね、見返りもなしに」

「情けは人のためならず。そのうち私にもいいことあるって」

 九時。始業時間である。

 今日も眠そうな顔をしながら教室に入ってくる教授の顔を見て、比呂も小さくあくびをし、寝る態勢に入る。腕を組んで顔を伏せようとした瞬間、背筋にゾクリと冷たいものが走った。思わず起き上がって振り返るが、そこには何もいない。教室内を見渡す。何もいない。おかしいな、と小さく首をかしげるが、その気配はまったく感じなくなっていた。

「どうしたの、高杉」

「え? 何でもないよ」

 適合者ではない洋太郎にはわからないのだろう。比呂も、気のせいかと思い直し、首を傾げる。今はもう、何も感じない。

 授業が始まる。先週の続きのようだが、興味のない内容はするすると頭の中をすり抜けていく。出席カードに名前を書くと、比呂は再び寝る体勢に入った。しばらく眠ってから、なんとなく意識が覚醒し始めた頃。隣から、自分に話しかける声が聞こえた。

「高杉さ」

「ん?」

「怖い話とか平気?」

「なに急に」

 教壇では講義が行われている。大分進んだようだが、学生の大半は比呂と同じように寝入っていた。比呂は半分寝ながら、小声で話しかけてくる隣人の声に耳を傾ける。珍しい。洋太郎が講義中に話しかけてくるなんて。無駄なことはあまり話さないのに。

「俺、昔からよく見えるんだよ」

「なんで今そんな話」

 ゾクリ。背筋に走る感覚に、思わず言い掛けた飲み込んだ。飛び跳ねるように上半身を起こすと、自分の背後にそれはいた。

「もしかして、洋太郎、見えてんの?」

 上半身を捻って黒いモヤモヤとしたものを凝視したまま、比呂は問う。

「高杉も見えるんだ?」

 洋太郎は気付いていなかったのではない。もともと見えてはいけないものが見えることに慣れていたから、だから動じなかった。

「洋太郎。カード渡すから私の分もよろしく」

 スッと出席カードを隣の席へスライドさせると、静かに、しかし素早く、モノであろう黒いモヤモヤの前をわざと横切って教室を飛び出した。狙い通り、モノは自分についてくる。徐々に実体化するのを視界の端に見ながら、すぐに高田に電話した。

「出ました! 三十八号館! 今、裏庭に向かっています!」

 とりあえず、人のいないところへ。モノが人間にどんな害を及ぼすのかはよくわからないが、自分も刃物を振り回すのだ、あまり人の多い場所にいるのはよくない。

「こっちも反応を見つけたところでした」

「先生!」

 電話越しに聞こえる高田の声に被って、悠平の声がした。気配を察して研究室に来たらしい。

「俺が行きます」

「場所は裏庭。カメラと小刀持って伊坂先生も向かってる。頼むよ」

 和弓を掴むと、悠平は研究室を飛び出す。

「と、いうわけで悠平と伊坂先生が行くから」

「はい。ところで、高貴がもし暇なら三十八号館の洋太郎のとこに行かせてください」

「尾川洋太郎? どういうこと?」

「あいつ、見えてま、うわ!」

 ブツ、と電話が切れる音がした。

 追い付かれたか、と高田は舌打ちしたが、悠平も伊坂も向かっている。大丈夫だろうと判断し、高貴に連絡を入れた。三十八号館。古谷ゼミの尾川洋太郎。高貴は連絡を受け、研究室に向かおうとしていた足を三十八号館へ向けた。

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