第3話 その日、傾けられた傘

目を開けた時にはすでに夜になっていた。

民家の窓からは光で漏れ出て、向こう川にかかっている橋のオレンジ色の光とそこを通る車のライトが見えた。

首に時を冷たい風が舐めて、思わず身震いする。

寒い。夜になって気温が下がったせいだろう。雨に濡れている分より寒く感じる。

 今何時だろう。

 携帯からスマホを取り出し、電源を付けると白いホーム画面が目に入って、眩しさに目を細め、のけぞった。

 時間を見るとすでに21時を過ぎていた。

 普段なら、もうお風呂あがって、ゴロゴロしている所だ。

 やらかしたなぁ~。と内心反省しつつ、同時に何とも言えない気持ちになってしまう。

 家に帰らないと、そう思ってはいるものの立ち上がる気にはなれない。

 無気力とでもいうのだろうか。なんか変な感覚だ。

 アンパンマンの顔が汚れた時はこんな感じなのだろう。きっと、たぶん……。

 このまま自分は何も出来きないまま死んでいくのではないかと漠然と理由もなくそう思った。

 月が綺麗だった。

 何気なく空を仰ぐと月が見えた。

 吸い込まれいくつな不思議な黒にぽかり浮かぶ月。それを引き立てる何個かの明るい星。とてもきれいな夜空だった。

 耳に流れてくる名も知らない虫の声が心地いい。川の波に揺れる月を見下ろしながら。私はぼーとしていた。一つのメルヘンのその後みたいだ。

 そんな静かな夜には低い声がよく聞こえる。

「こんなところで何してんだ。あぶねえぞ」

 そう言われて差し出された傘。

 見上げるように後ろを見るとひとりの男性がいた。



「あの、雨、やんでますけど」

 その人はスーツ姿で片手に川のカバンを持って、もう片方の手で私にビニール傘を差しだしてきていた。見るからに仕事帰りの社会人だ。こんな時間まで仕事なんて大変だなと他人事のように思った。

「ん……あ、ほんとだ」

 男の人は傘を下ろして、声を上げた。そして、雨が降ってないことを確認すると差し出していたビニール傘を引っ込め水気を払って束にまとめて、カバンを持つ方の手に持った。

「それよりこんなところで何してるんだ」

 ビニール傘を持っている手を見ていると、男の人は再度言った。

 私はどう答えたらいいのかわからなくて、眉を寄せた。

「……風邪ひくぞ」

 気を遣うようにそう言われ、少し嬉しくと同時に、どうしてそこまで優しくしてくれるのだろうと思った。

「家には帰らないのか?」

 なにか事情があることを気づきがちにいわれ、わたしは「うん。帰らない」と短く返事をした。

「家出か?」とそう訊かれ首を横に振る。

「ただ家に帰りたくないだけ……」

「……そうか」

 男はとても言いずづらそうな困った顔で、静かに相槌を打つ。

まあそれが当然の反応だ。

「(家に帰っても誰もいないから……)」

 ほんとに小さい一言だった。

 独り言だった。

「…………」

「?」

 あまりにも男がだんまりしているため、男の顔を見た。

 その顔からああ聞こえていたんだなと察した。

 男はただ私を見ていた。

「私の顔に何かついてる?」

「いや、なんでもない。ちょっと考え事をな……」

 男は低く押さえつけたような声でそう答えたのち、思案するように顎に手を当て黙り込んだ。

 私は、欠伸を漏らした。

 少したった頃。不意に男が口を開いた。

「もしよかったら家に来るか」

「……え?」

 私はたぶんポカンとした顔をしていたはずだ。硬直した。

「いや、嫌だったら別にいいんだが、ただ声かけといて見過ごすのは気が引けるからな」

「いいんですか?」

「よかったらだが……」

 誤魔化すように後ろ頭を掻いている。

 私はこの人ならなんとなく大丈夫だろうなとそう思った。

 理由はない。強いて言うなら勘だ。

「じゃあ、お邪魔します」

 私はお尻をはたいてほこりを払い、立ち上がる。

「ああじゃあ、行くか」

「はい」

 そう言って私は歩き出した男の背中にくっついていく、すぐさま隣に追いつくと「名前」とそっけなく聞かれた。

「なまえ? あぁ、紗矢って言います」

「そうか、俺は馨、鈴木馨だ。よろしくな紗矢」

「はい」

 まぁ、そんな感じでその日夜に二人は出会った。



 あの河川敷から川に沿って歩いて、民家の方にそれた先に彼の家はあった。

 よくある白色の外装をした年季の入ったアパートだった。

 馨さんの背中を追って、アパートの左横にある赤さびのついた階段を登る。二階の廊下の一番奥から一歩手前の部屋で馨さんがとまり、私も足を止める。

 馨さんが「ちょっと待っててくれ」と鍵を開けた扉から滑り込むようにして中に入り、すぐ右の部屋の中に消えていく。

 私はどうしたらいいのか分からず、とりあえず玄関の前で待っていることにした。

 しばらくして馨さんが戻ってきて、真っ白なタオルを渡してきた。

「俺お風呂入れてくるから、それで軽く拭いたら上がって」

 馨さんはまたすぐ右の部屋の奥に消えた。

 私は一瞬ぽかんとなったものの、とりあえず髪を拭いた。

 しばらくして、だいたい拭き終わった私は靴を抜いて部屋に上がった。靴下はびじょびじょで気持ち悪かったからその場で脱いだ。

 馨さんのアパートはワンルームだった。ワンルームでキッチンとリビングが一緒になっている。部屋は16畳くらいで私の住んでいる所より一回り大きかった。

 思ったより綺麗だな。と心のなかでそんな失礼なことを思いつつ、床に荷物を置き、部屋の真ん中にあったローテーブルのクッションに座った。

 シャワーの音が聞こえてくる中、私は部屋の中を見回す。

 この部屋の構造はだいたいこんな感じだ。玄関を開けると廊下の突き当りに大きなキッチン付きリビングがあり、廊下の右側には脱衣所と風呂場、反対側はおそらくトイレ。リビングの中は掃除が行き届いていて、真ん中には長いローテーブルがある。それを玄関側と反対側で挟むようにしてクッションが置かれ、その右側にはソファが置かれ、反対側には少し大きなテレビが壁に付けるように置かれていた。

 リビングにはほかにも本棚やワークスペースらしきところがあり、リビングの玄関側の反対側には窓があり、そのすぐそばにベッドがあった。

 これが大人の部屋かぁ、と思いながらリビングを眺めていると馨さんがリビングにやって来た。

「なんか飲むか」と短くそう訊かれ、私は温かいものをお願いした。

やっぱり、雨に濡れた後はちょっと寒いや。

しばらくして、私の手元にはあたたかいココアが置かれた。ちなみに社畜さんはコーヒー。

「夜にコーヒー飲んだら眠れなくなりません?」

 馨さんに問いかけると「これから持ち帰った仕事をやるからどちらにしろ寝れねえからいい」と引きつった笑みを浮かべながら苦そうに言った。社会人と言うのはおそろしいなと思ったのを今でも覚えている。

 社畜さんと少し話した後、私はお風呂を借りた。

 なぜかいつもより念入りに洗ってしまったのは多分雨に濡れたせいだと思う。男の人の家に来た身体じゃないと思う。絶対に……、

 それはいいとして、お風呂を上がると涎を出させる匂いが鼻をくすぐった。見ると、薫さんがスーツ姿にそのままエプロンを着て料理をしていた。

 着替えてすればいいのにと思ったが、ワイシャツの上にエプロンの姿が思いのほか似合っていたからあえて触れないことにした。

 お風呂を貸してもらった礼を言った後、私はソファの上で何をするわけでもなく体育座りをしてそわそわしていた。手持ち無沙汰だった。正直、なにからなにまで人にやってもらうと言うのはあまり馴染みのない事だったからだ。

 落ち着かないなぁ。

 そう思っていると「紗矢」と名前を呼ばれた。「ひゃ、ひゃいっ!」と私の肩は跳ねた。わざ噛んだわけではない。驚いただけだ。うん。「なんですか」と馨さんのもとへ行くと台拭きを手渡された。「よかったら、拭いてくれないか」そういわれ私は快諾した。

 正直、退屈過ぎて死にそうだったのだ。

 まあ、そんなこんなでテーブルを拭きおわり、しばらくするとその上においしそうな料理たちが並んでいった。

「よだれ鶏に、春雨スープ、胡麻和えに、スライストマトともろキュウ、あとご飯と味噌汁ね。ご飯はいくらでもあるからお代わりしていいぞ」膝に手をつきながら座る馨さん。

 私がお風呂に入っていた時間は精々15分ほど、上がってから10分もたってないところを見るに料理の腕はすごいらしい。

 私が呆然とおいしそうな料理たちを眺めていると「早く食べないと冷めるぞ」と馨さんが笑っていった。馨さんの催促に促されよだれ鶏にかぶりつく、ぶりぶりの鶏肉と山椒の利いた独特のタレが絶妙で美味しかった。

「うまいか?」とテーブルに頬杖をついて私が食べるのを観察していた社畜さんが目を細めながらそう訊いた。私は口の中のよだれ鶏をよく噛んで、呑み込んだ後「はい! おいしいです」と素直に答えた。そしたら、馨さんは嬉しそうにより一層目を細めた。

人の作ってくれたご飯ってこんなにおいしいんだと思いながら私は遅めの夕食を頬張った。

しばらくして、夕食を食べ終えると馨さんは食器を片し始めた。

すかさず私は皿洗いをやります。と申し出て少し無理やりだけど仕事をゲットした。

やられっぱなしちょっと癪なのだ。

皿を洗っている途中、馨さんは風呂に入るって言って脱衣所に消えていった。

少しして皿洗いを終えた私はソファに背を預けていた。

することもなく目をとじ、深く息を吸う。

疲れた。

そう思った時には私は寝ていた。

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