第伍章の伍【帰還】3/3

 国家元首からの突然の依頼。

 沈黙が辺りを支配し、誰もしばらく口を聞けなかった。

「ちょ、ちょっと、まま、待ってください!」

 テイスケが口火を切る。ユリアは彼を見る。彼がこれほど声を張り上げるのを初めて聞いた気がした。

「あなたたち、ちょ、ちょっと勝手じゃないですか? い、いきなり来て、そんな無茶な……」

 イトウがテイスケを見つめる。

「君は彼女の保護者かね?」

「……ほ、保護者? ……いや、ち、違うけれども……」

「これは彼女の問題だ。申し訳ないが、少し黙っててもらえないか」

「い、いや、駄目だ。ぼ、僕だって、か、か、彼女を守る義務が、ある」

 テイスケの精いっぱいの抵抗。イトウがそれをジッと見つめる。そして言った。

「……あなたは、立派だ。家族のいない彼らと懸命に生活を営んでいる」

 イトウは立ち上がり、深く頭を下げた。

「今日いきなり押し掛けたこと、また、このような生活を強いていることを心からお詫びする。この通りだ」

 一国のおさが一介のたみに頭を下げている。ユリアたち三人は何も言えない。

「だが、これはこの国を――ひいては世界を救う大事な選択だ。そしてこれは、君にしか出来ないことだ」

 イトウが顔を上げて、ユリアを見る。

 ユリアは自身に向けられる視線を強く感じる。俯いたまま何も答えない。一体何て言えばいいのだろう。

「あの……亡くなったリリアンヌ教皇の遺伝子は使えないんですか?」

 ゴダイが口を挟んだ。ユリアは顔を上げて、見る。そうだ、あの壱號も御聖廟の開帳にリリアンヌの遺伝子ゲルを使っていた。

「使えるなら、とうにそうしている。だが、ダイスマンの一派がそれをさせてくれないのだ。リリアンヌ教皇の死後、聖貴族たちは勢力を盛り返している。遺体は教会で厳重に保管され、彼女の遺伝的痕跡は、ほとんど手に入らない。数日後の国葬を持って、遺体は完全に処理されるだろう。そうなれば、今後御聖廟を開帳出来るのは、教会だけ、それもダイスマンの息のかかった者だけになる。この国の感染拡大を防ぐ手立ては立ちゆかなくなるだろう」

 イトウが言葉を切る、ユリアたちが理解するのを待つかのように。だがそれは、理解は出来ても、納得出来るかどうかとは別だった。

「今、ダイスマンや教会と政治的駆け引きをしている時間はない。御聖廟解体は、早ければ早いほどいい。もちろん無理なお願いをしている事、また、君がそんな大役を担いたくないだろうことも分かっているつもりだ。だが……もし君が我々の法案に協力してくれるのであれば、ここに連絡をしてほしい」

 イトウはテエブルに一枚の名刺を置く。それからチラリと辺りを見回して、言った。

「ところで、その……君たちには、何か連絡する手段はあるのかね?」

「ありますから、心配しないでください」

 ゴダイが答える。イトウが、それは済まなかったと、ニッコリ微笑んだ。総理大臣らしからぬ屈託のない笑顔だった。

 そして、老齢な議員たちは去っていった。あとに残されたユリアたちは、何も言わず、テエブルに座ったままだった。そのうちに、夜の帳が地下にも降りてきて、テイスケがランタンをつけるために立ち上がった。次いでゴダイが階段上の宿直室へと戻っていった。

 ユリアは考えないように努めた。そしてふと、今晩の夕食を考えなくては、と思った。


 その日の夜。ガラクタに囲まれたベッドの上。ユリアは眠れない。当たり前だ。あれだけの事を突然に頼まれたのだから。

 ユリアは仕方なく、どうにか眠ろうと、羊の数を数え始める。だが、思い起こされるのは、これまでのユリアの人生だった。それは、今日食べた昼食の事だった。それは、先日来訪したリリアンヌ教皇の事だった。それはまた、歪な鉄の腕、壱號たちの事だった。長老やニイダ、ハナやナナヒト、テオ、マオ、テイスケたちの事だった。そして、ゴダイに初めて会った日の事だった。

 ユリアは、しばらくしてから身体を起こし、毛布を羽織って、外に出た。暗い構内、冷え切った世界。静かな階段をゆっくりと上がっていく。宿直室の部屋から、明かりが漏れていた。

 中を覗き込み、そっとドアを開けた。

「ゴダイ……」

 ゴダイは、起きていた。彼は忙しそうに部屋の中で荷物を運んでいる。

「何してんの?」

「片づけだよ。近いうちにここを出るからさ。テイスケさん、部屋借りられたって言ってただろ?」

 ゴダイはそう言いながら、使えるかも分からない機匣の塊を部屋の片隅にまとめていく。

「ユリアこそ、こんな遅くまで起きて、どうしたの?」

 ユリアはドアにもたれ掛かり、言葉を探した。だが、あの件について自分がどうしたいのか分からないまま、ゴダイに何を言おうというのだろう。ユリアは、傷の付いた自分の靴のつま先を見つめながら言った。

「別に……特に用ってわけでは……」

 つれない一言。味気ない台詞。ゴダイはそんなユリアを見て、それからまた片づけに戻る。一瞬の沈黙。ゴダイがユリアの顔を見ずに言う。

「一応言っとくけど、俺はユリアがどんな選択をしたとしても、その……ずっとそばにいるから……」

 ユリアは顔を上げた。ゴダイは気忙きぜわしそうに、匣から抜いた電線やら何やらを束ねている。ユリアは、至極真面目な口調で訊いた。

「それ、どういう意味?」

「……意味も何も、その……言葉の通りだよ……昔、約束しただろ」

「……約束?」

「そうだよ……お前に居場所を用意するって……いや、お前は覚えてないかもしれないけど……」

 ゴダイが恥ずかしそうに頭を掻く。

「だから、ユリアがどんな選択をしたって、大丈夫なんだよ」

「本当に……? 私、決断するだけの覚悟なんか……まだ全然ないんだよ……」ユリアは心に浮かんでくるままに、言葉を口にしていく。「でも……分かってるの。決断しないといけないってことは……そうしないと、大変な事になるかもしれないって……よく分かってる……だけど、でも、それでも、私、怖いんだよ……」

 ゴダイは動かす手を止めて、ユリアを見た。

「もちろん、皆が皆、嫌な人じゃないことも分かってるよ。でも、私たちを嫌ってる人もたくさんいる……そう思うと、そんな人たちのために、そんな世界のために、何かを決断するなんてこと、私には出来ない……」

 ユリアは自分が涙ぐんでいるのに気が付いた。でも涙は彼女の意思に反して、とめどなく溢れ、そして零れた。どうしたらいいのか分からない。

「私、そんなに立派な人間じゃない……リリアンヌ教皇や、ナタァリヱ教皇みたいな立派な人間なんかじゃ……」

 その時、ユリアは抱き寄せられた。ゴダイがそばまで駆け寄って、彼女に腕を回していた。ユリアは突然の事に少し戸惑った。だが、すぐに身を預けた。涙は、流れるがままに任せた。さめざめとした泣き声が部屋を満たした。

 ひとしきりユリアが泣いた後、ゴダイは身体を離して、彼女の両腕を掴んで言った。

「ユリア、君が納得する決断をしてほしいと思う」

「納得……?」

「うん……君が納得出来る決断なら、俺は絶対に文句は言わない。君の決断の結果、世界中が敵になったとしても、俺は絶対にユリアの味方でいるよ」

「もし、私が先に進む事を選ばなかったら? み、皆死んじゃうかもしれないんだよ……それでも?」

「死ぬかどうかは分からないじゃないか。君が先に進まなくったって、世界は救われるかもしれないし……それにユリア、君と一緒に死ぬくらい俺はどうってことないと思ってる。心中ここに極まれり、だ」

 ゴダイの冗談めいた口調。それを聞いて、ユリアは少しだけ笑った。

「やっと笑ったな」

 ゴダイが微笑む。ユリアは目を拭った。顔を上げると、ゴダイと目が合った。顔が近い。緊張して、それから微かな悪戯いたずら心が沸く。ユリアは目を瞑った。何かをせがむように顔を少し前に出して、待った。だが、ゴダイは何もしてこなかった。代わりに一言だけ返した。

「もう夜も遅い。寝た方がいい」

 ユリアは目を開けてゴダイの顔を見つめた。赤い。

「意気地なし」

 ユリアはゴダイの唇にキスをした。ゴダイは驚いて目を見開く。ユリアはそんなゴダイを見て、満面の笑みを見せた。

 それから戸惑うゴダイに、彼女はそっと呟いた。

「ありがとう、ゴダイ」

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