第肆章の弐【契約】1/2

「ねえ……これは一体何が起こっているのかしら……」

 教皇リリアンヌは、あどけなさの残る顔に困ったような表情を浮かべて、自身の付き人に尋ねた。だが、付き人は何も答えず、朝着を片づけては、公務用の聖装を棚から出そうとしていた。リリアンヌは、テレビの画面から目を離して、タマヨリの方を向いた。

「ねえ、タマヨリ、聞いているの?」

「……えっ、ええ、はい。何でございましょう?」

 リリアンヌがクスリと笑う。だが、付き人の顔色を見て、その笑みもすぐ消え去った。

「タマヨリ、あなた大丈夫? 顔色が凄く悪いけれども……」

「ええ、いえ、大丈夫です。何もお気になさらないでください……」

「いや、それは無理よ。だってあなた、真っ青よ……? どこか調子でも悪いの?」

「いえ……で、何のお話でしたでしょうか?」

「ああ、テレビよ、テレビ」

 リリアンヌはテレビを指差す。画面にはソウジ・アイゼン殺しの犯人が映っていた。

「ねえ、これ、ゴダイさんじゃない? 何で彼が捕まってるの? 昨日は別の女の子が指名手配されていたと思うんだけど……」

 リリアンヌは頭をかしげる。タマヨリは口元を戦慄かせて、呻きにも似た声を漏らした。

「ああ……リリアンヌ様……それは……」

「タマヨリ?」

「ああ、言えません。私の口からは言えないのです」

「タマヨリ、何が言えないの? ゴダイさんに関すること?」

「いいえ、違います。そうじゃないんです……そうじゃないんです」

「何がそうじゃないの?」

「リリアンヌ様、昨日の記者会見で発表された少女、あの少女の顔に何か気づかれませんか?」

「……あの子に?」

 リリアンヌは、タマヨリの泣き出しそうな顔を見て、動揺する。昨日の報道から、タマヨリの様子はずっとおかしかった。

「ごめんさない、私には分からないわ……」

「……リリアンヌ様。どうか、どうか、お気を確かにお持ちください」

「私は大丈夫よ、タマヨリ。落ちついて。何があったのか、落ち着いてゆっくりと話してくれない?」

「ああ、ごめんなさい……アレがもしも本当なら、これは一大事です……」

 リリアンヌは、タマヨリの目をジッと見つめて、次の言葉を待つ。タマヨリは決心をしたようだった。

「リリアンヌ様……昨日タケミカヅチ様が公表した被疑者の少女……私には見覚えがあるのです」

「見覚え? 誰なの、あの子」

「……あ、あの少女は、二十年前に私がお仕えした、あの方に、ナタァリヱ先代教皇にそっくりなのです。瓜二つ何てもんじゃありません。そばにいた私が言うんです」

「ちょ、ちょっと待って! 何、それってどういうことなの?」

「恐らく、いえ、多分ほぼ間違いなく、あの少女は、ナタァリヱ様の複写生命です」

 リリアンヌは言葉を失う。

「レ、レイガナ様が、タブゥに手を出されていたのです!」

 タマヨリは取り乱し、ついに泣き出してしまった。

 泣き声がさんざめく中、主はただそれを見守ることしか出来なかった。


 × × ×


 壱號のアジトには、幾つかの区画がある。一つは、皆が普段の生活を営むための区画。一つは、物資を保管しておくための区画。一つは、工作員がその技術を磨くための区画。そして最後の一つが、歪な鉄の腕が根城としている管理室である。

 ある深夜の頃。皆が寝静まったのを見計らい、彼女は物資が保管してある区画に足を踏み入れた。通常、彼女がそこに入るのは、食材などを調達するときだけであり、こんな深夜に入ることは珍しかった。そして今、彼女の目的は食材ではなかった。生活物資が積み込まれた棚のさらにその奥、武器が保管された区画まで彼女はやってきた。

「ねえ、そこで何をしているの?」

 サンジョウが、彼女の後ろから声をかけた。アジト内の照明は非常灯を除き、ほぼ真っ暗である。時折、思い出したように明滅する緑色の光を背景に、彼女は――ユリアはサンジョウに向いた。

「……別になんでもないです」

 ユリアは冷めた声で答えた。サンジョウの傍には、壱號が立っていた。こんな真夜中に二人で何をしていたのかと、ユリアは少しいぶかしんだが、そんな興味もすぐに失った。自分には全く関係のないことだ。

「こんな所で何をしている?」

 今度は壱號が高圧的な声で尋ねた。ユリアは彼を無視して、保管されている木箱の中を漁り始めた。

「おい……」

 ユリアは聞く耳を持たない。そして彼女はついに目当ての物を見つけて、それを手に取った。それは拳銃だった。武懺二十四口径。弾倉を見る。装填済みのものだった。ユリアはやっと口を開いた。

「私、ここから出ていくので……」

 恐ろしく平坦で事務的な言い方だった。

「あ?」

 壱號がユリアを睨んだ。だが、ユリアは動じずに、壱號を冷たく睨み返した。かつての少女は、もうすでにそこにはいなかった。

「だから、そこをどいてください」

「そこを、どいてください、だ? おいおいおい、お前――」

「何か問題でも?」

 ユリアは、壱號の言葉を遮って、言った。

 ユリアは怒っていた。理不尽なこの世界に対して怒っていた。昨日の指名手配から一転、何故かゴダイが逮捕されたという事実に困惑し、懸命に考えた結果、彼女は理解した。誰かに庇護される時期はすでに終わっていたのだ。世界は、彼女を守ってはくれない。これまでも一度だって、世界の側がユリアたちに優しかったことはない。戦わなくちゃいけない。だからまず手初めに、ここを出ていかなくてはいけない。ユリアは、壱號にもう一度言った。力強く、有無を言わさぬように――。

「そこを、どいてください」

 壱號の顔に不愉快な表情が浮かび、鉄の腕がわずかに動いたその瞬間、発砲音が夜の帳を引き裂いた。

 ユリアの持つ拳銃から一筋の煙が立ち上っていた。銃弾は、壱號とサンジョウの間を駆け抜けて、向かいの壁に穴を穿った。

「お、前……」

「次は、心臓を打ちます」

 ユリアは拳銃を構えた。

「あなた……拳銃を使えたの? ねえ、ちょっと、どういうつもりなの……?」

 サンジョウが戸惑いの声を上げる。ユリアは、長老が護身用に拳銃の扱い方を教えてくれたことに感謝した――だがそれと同時に、長老がこんな使い方を望んでいない事もよく分かっていた。

「まるっきりの素人ってわけでもないんだな……」

 壱號が髪をかき上げながら言う。ユリアは、壱號の動きから目を離さない。

「お前、何がしたいんだ?」

「ここを、出ていきます」

「その後だ。出ていくのは……まあ、よくはないが……だが、その後どうするつもりなんだ?」

 ユリアは拳銃を構えたまま――

「彼を助けに行く」

 明瞭な声で答える。壱號とサンジョウが反応に困った様子を見せた。

「彼? 彼って誰?」とサンジョウ。

 ユリアは返答を渋った。だが、言わないわけにはいかない。

「今日捕まった彼の事です」

「ああ、あのアイゼン殺しのあいつか……。ふふ、ふははっ」壱號から笑い声が漏れ出した。「俺たちの即位式襲撃を邪魔したあいつ! 何故あいつがアイゼン殺しで捕まったかは定かじゃないが、はははっ、俺としては、実に面白い!」

 ユリアは壱號の下卑た笑い声、そしてゴダイへの侮辱を、ぐっと堪える。ゴダイは恐らく、私の身代わりとして捕まった――多少うぬぼれていたとしても、きっとそれが真実だ。

 ユリアは考える。であればこそ、自分がゴダイを助けなくてはいけない。だから、今ここで計画をしくじるわけにはいかない。

「で、なんだ? お前はあの男の知り合いだったのか?」

 ユリアは何も答えない。

「あの男は、お前のこれなのか?」

 壱號が品性の欠片もなく、小指を立てて、聞いてくる。

「あなたには関係ない」

「ふん……はははっ、最高だな……でもな、お前、そりゃあ無理だ。無理ってもんだよ。お前一人で助けられるはずがない」

 壱號が見下すような視線をユリアに向けた。ユリアは、ひるみそうになる。

「第一、その拳銃一つでどうするつもりなんだ? 首都警を倒せるって言うのか?」

 ユリアは下唇を噛む。ゴダイを助けることは出来ない、そんなことはユリア自身が一番よく分かっている。ユリアは顔を上げて言った。

「だから……自首するんです。この拳銃で議員を殺したと言って……」

 歪な鉄の腕の二人は、怪訝な顔をした。ユリアの今した発言の真意を図りかねているようだった。しばらくの沈黙の後、壱號が言った。

「お前は……何を言っているんだ?」戸惑いの混じる声。「お前がやったのか? あの殺しをお前がやったのか?」

「やってない。私は犯人じゃない」

 壱號の顔が険しくなる。機嫌を損ねたことは明らかだった。サンジョウが急いで訊いた。

「じゃあ、なんでそんなことするの? 彼を助けるんじゃないの?」

「そうです。彼を助けるために自首するんです。私が出ていけば、ゴダイは釈放されるはずだから……」

「意味が分からない」

 壱號が不快げな声を上げた。

「お前はやっていないんだろう? なのに何だ、嘘をついて捕まりに行くって? ああ? どういうことなんだ? 俺にはさっぱり意味が分からない」

 言葉の端々に苛立ちが垣間見える。

「あいつを助けたいんだろう? なんでそういう結論になるんだ」

 壱號が軽蔑するような目でユリアを睨んだ。未知なるものを見た戸惑いに似た表情だった。ユリアが呟く。

「……それ以外にどうしろって言うのよ」

「あ?」

「だから、それ以外にどうしろって言うのよ」ユリアの顔が僅かに歪んだ。「どうやったら私にゴダイを助けられるって言うのよ!」

 ユリアの声が大きくなる。

「私には、ゴダイやあなたたちみたいな力はないのよ! 何にもないの! 何にも出来ないただの偽者なの! だから私は、こうでもしないとゴダイを助けられない……」

 ユリアは泣き出しそうになる。前に立つサンジョウはそんなユリアをただ見つめることしか出来ない。だが、壱號は言った。

「……信じられない。俺には、お前みたいな弱者は到底受け入れられない。何だ? 自分には何もないって? 何だ? 何も出来ないからって、お前は世界に頭を下げるのか?」

 ユリアは潤んだ瞳で壱號を睨んだ。

「いいか、お前がやっていることは、戦いでも何でもない。ただの全面降伏だ。この世界に対しての敗北宣言だ! 拳銃一本で戦って死ぬのであればまだしも、何だ? 頭を下げて捕まりに行くだと? しかも、その拳銃は証拠にならない。弾痕は拳銃ごとに違うんだぞ!」

「分かってる! でも、それでもゴダイを助けられるなら……」

「そんなものは助けたとは言わない。教会に身を売って、世界の理不尽を何の抵抗もなく受け入れて、一体どこに勝ちがあるって言うんだ! 尊い自己犠牲のつもりか、このバカが!」

「うるっさい! じゃあ、どうすればいいって言うのよ! 私にはこれ以外に、あいつを助ける方法なんかないんだから!」

 ユリアが叫んだ。叫び声が地下空間に響いた。他の者たちが起きかねないほどの声だった。その大きさに気圧されてか、壱號は一つ息をはいて、ジッと黙り込んだ。

 そしていくらかの平静を取り戻してから――

「……分かった。一つ提案をしてやろう」

 壱號はゆっくりと言葉を紡いだ。そして予想外に真剣な口調。

 「お前の望みを俺らが手伝ってやる」


 それは思いもかけない、信じがたい提案だった。

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