第127話 ※薔子視点

いつの間にか大きないびきが聞こえてきて、由衣は父親が寝入ったことを知った。


うつ伏せになったまま、目だけを上げて時計を確認する。


十六時二十分。芽衣の乗ったバスが学校に到着するまで、まだあと二時間はある。


瞼が重くて開けていられず、由衣は意識を手放した。


そのまま気絶するように眠っていたので、その間に玄関ドアが開いて、誰かが居間に入ってきたことに気づかなかった。


そして、その誰かが父親の体を持ってきた包丁でめった刺しにし、内臓が半分飛び出した父が、抵抗しようと呻き声を上げていたことにも気づかなかった。


その父に侵入者が馬乗りになって執拗に腹や胸や首を刺し、とどめを刺したことにも気づかなかった。


全てを知ったのは、肩を揺さぶられて起こされたときのことだった。


最初に目に飛び込んできたのは、ペンキを塗ったような血まみれの手だった。


鼻血でも出したのかと思って見ると、それは自分の手ではなく、自分を抱き起こしている安藤比呂の手だった。


「もう大丈夫だから」


と比呂は言った。


何が?と尋ねる前に、由衣は視界の端に横たわる父の姿を見た。


それは確かにかつて父だったもの、かつて人間だったものだが、今は肉体としての形を留めてはいなかった。


衰弱しきっていた由衣は、言葉を出すことがどうしてもできなかった。


眠気にも似た疲労感と目まいで目の前がぼやけ、頭がうまく働かない。


「救急車呼んだから。それと警察も」


比呂は落ちついた様子で言った。その横顔は急に大人びて見えた。


まるで、由衣より十歳も年上の人間のようだった。


何で、と由衣は唇を動かした。


もどかしいほど時間がかかったが、声は全く出なかった。


答えるかわりに、比呂はそっと由衣を抱きしめた。血まみれの腕で。


彼の体のいたるところから血の匂いがした。


それから五分もしないうちにパトカーがやってきて、彼はいくつかの質問に簡単に答えた後、警察署へ連れていかれた。


由衣自身は担架に乗せられたところまでは覚えているが、それ以降の記憶はない。


芽衣と母に事情を説明してくれたのは病院関係者で、芽衣は急遽クラスメイトの家に泊めてもらうことになった。


修学旅行の後にお泊り会ができることになって、芽衣は喜んでいたらしい。


しかし事件が明るみに出ると、由衣の家には野次馬やマスコミが大挙し、石が投げ込まれ、無言電話やいたずら電話がかかり、落書きや脅迫状が相次いだ。

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