第72話

――私、渡しましたよね。


うろたえながらも芽衣は主張した。


居酒屋の大きめの個室で、三十人ぐらいが入れるような畳の部屋だった。


幹事のそばには、ほかにも何人かが立っていた。


――いや、もらってないんだけど……。


幹事の人は困惑した顔つきで言った。


嘘をついたり冗談を言っている顔ではなかった。


人当たりのいい人で、今まで何かトラブルを起こしたこともない。


芽衣とも今まで普通に会話していた人だ。


だったらどうして?


反射的に芽衣は、そこに集まった面々の顔色を窺った。


誰が演技していて、誰がこの状況を仕組んだのか、誰の手による罠なのか。


幹事がとぼけているのか、本当に忘れているのか、それとも芽衣の渡した会費を盗んだのか。


そのとき芽衣は、白く干からびた視線に出くわした。


それは複数の人間から、声もなく芽衣に送られたメッセージだった。


『お前が盗んだんじゃないのか』と。


――私じゃない。


思わず、上ずった声が出た。


――私、盗ってません。さっき守本さんに渡しました。


主張するたびに足元を波がさらい、足場の感覚が揺らいでいく。


頭がぼうっとして、背中から冷や汗が噴き出た。


幹事の守本はとってつけたような笑顔で、


――誰も清瀬さんがとったなんて言ってないよ。


だが、いくつもの目が意地悪く体を貫き、芽衣を責め立ててくる。


『この子、どうして何も言われてないのに、盗ってないなんて言いわけを始めたんだ?』


『心にやましいことがあるから、こんなに必死になって否定するんじゃない?』


『本当は渡したなんて嘘で、集めた会費を自分のポケットにくすねたんじゃないのか』


――本当です。私、盗ってません。


悲痛な声で芽衣は訴え、はっと息を呑んだ。


いつの間にか周囲の喧騒けんそうは消え、静まり返った室内で全員がこちらを凝視している。


無数の視線が額や胸や足元に突き刺さる。


疑われているという事実に、芽衣は怒りと屈辱で頭がいっぱいになった。


――まあいいじゃん。


幹事の横にいた男性が、肩をたたいて促した。


――悪いんだけど、もう一回、みんな三千円ずつね。


彼はそう言い、芽衣が一度お金を集めた人たちのところに回って、頭を下げてお金を受け取り始めた。


――待ってください。


追いかけながら、芽衣は目の前が回りだすのを感じていた。足元がふわふわする。


このままでは、何もかもうやむやにされたまま、自分が犯人だという扱いをされる。


そんなことになるぐらいだったら、今この場で警察を呼んでもらったほうがましだ。


しかし、男性は芽衣を無視して「ごめんね」と言いながら、彼らからお金を徴収していく。


彼らも文句一つ言わず、財布から快く紙幣を取り出す。


そして芽衣のほうを見ずに、やたらとわざとらしい笑顔で渡して、何事もなかったかのように会話を続ける。


怖ろしくて悔しくて、絶望で目の前が真っ暗になった。


視界が物すごいスピードで回転を始めて立っていられなくなり、過呼吸を起こして倒れたのはその直後だった。

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