第54話 ※薔子視点
「知り合いに少し当たってみましょうか」
ドスの利いた低音、オペラでいうならバス、一度聞いたら忘れられないような印象的な声が言った。
精悍な顔立ち、二メートル近い筋肉質な巨体、黒スーツに身を包んだ目つきの鋭い男だった。
「本当?」
薔子がぱっと目を輝かせる。
「ご用意できるか、聞いてみないことには分かりませんが」
薔子は彼の首に手を回して抱きついた。
「ありがと。ヤス大好きー」
抱きしめられている最中も、ヤスと呼ばれた男は真顔のまま、樹木のように棒立ちになっている。
「こらこら」
幸乃が呆れ顔でたしなめた。
「駄目よ。放っておくと、ヤスはすぐ薔子を甘やかすんだから」
ヤスは黙ったまま、幸乃に向かって目礼する。
「おはようございまーす」
裏口から声がして、アルバイトのスタッフが入ってくる。
薔子は腕を解いてヤスから離れた。そろそろ開店の時刻だ。
「薔子」
声をかけられて振り向くと、幸乃の目は張り詰めていた。
「何かやばいことがあったら、すぐに言うのよ。自分一人の手で解決しようなんて思わないで。分かった?」
「はーい」
明るく間延びした返事をして、薔子はるんるんと弾む足取りでトイレへと消えていった。
その場に留まった二人の手元に、静寂だけが残される。
「ヤス」
「はい」
店舗の隅にひっそりと影のように立つ男は、目を上げて応じた。
「もし私の身に何かあったら、そのときはあの子をお願い」
「承知しております」
初めてのやりとりではない。二人の間で幾度か交わされたことのある会話だった。
おぼろげで形のない不安が、
「時々、可哀想でたまらなくなるのよ」
誰ともなしに幸乃は呟いた。
「あんなに綺麗に生まれて、でもずっとひとりぼっちで、辛いことばかりで。なのにあの子、あんまり幸せそうに笑うから……」
目元を押し隠すようにして、幸乃は袖で顔を覆う。
テーブルに飾られた百合の花が、夜の闇に白くほのめいていた。
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