259.童が二人、四十層に帰りました。その永き物語が、いまここで白く満ちる。
一面が白。
ぴくりとも動かなくなった巨人の居座る王都に、豪雪――いや、暴風雪が降り注ぐ。
――世界は真冬と化した。
そんな言葉すらも生ぬるいほどの殺人的な冷気に、ヴィアイシアは支配されている。
渦波の妹――新しき黒髪の『
王都を包むように張られた巨大な氷結魔法の結界から、
吹雪が顔に叩きつけられる。
目を開けているのが辛い。
睫が凍り、一度閉じてしまえば二度と開かなくなりそうだ。
息を吐くだけで細氷が輝き、息を吸えば肺が冷気で痛む。足元には雪が積まれ、街道や屋根上を踏むたび、水飛沫のように粉雪が散る。
これが渦波の妹――『水の理を盗むもの』ヒタキの力。
その異端過ぎるスキルと特殊過ぎる魔力性質によって、『水の理を盗むもの』でありながら水の魔法を一切使わず、あらゆるものを『停止』させている。
草花といった自然たちが寒さで、止まる。『凍死』ではなく『停止』――熟練の魔法使いでもある童だから、その魔法の仕組みがわかった。
千年前は一度も戦う機会はなかったが、間違いなく、この童――『風の理を盗むもの』ティティーにも迫りうる力だろう。
だが、一歩も退く気はない。
敵が『停止』させる力を持っているとすれば、童の力は【自由】だ。
「この童の力を舐めるでないぞ! 新しき『
王都の中央。
この国で最も広いと思われる大街道にて、童と敵は向かい合っていた。
街道に設置されている凍りついた大噴水を足場にヒタキは立ち、その正面で童は翼を使って浮かんでいる。
童は真っ向から魔法を紡いだ。
高密度の丸い盾のような風を生成し、それで盾ごと身体をぶつかるかのように直進する。
魔法のシールドバッシュだ。背中の両の翼で冷たい空気を扇ぎ、空中を駆け抜ける。
それに対し、ヒタキは眠たげに一言呟くだけだった。
「――《アイス・パララックスブルー》」
凍った噴水の上に立っていたヒタキの全身から、青い魔力が漏れ出し、童の《ワインド・アンブレラ》と同じような丸い盾が構築される。
噴水前で巨大な魔力の盾と盾がぶつかり合い、魔力の押し合いが始まる。
こういった力勝負になれば、絶対に負けない自信が童にはあった。事実、まともにやれば数秒も経たぬうちに童が勝つだろう。
しかし、
彼女は小技に長けた器用な『理を盗むもの』だった。
盾と盾のぶつかり合いによって、青と翠の魔力の粒子が空に舞う。すぐさま、その粒子をヒタキは操り、横から魔法を放っている童に襲わせる。
前に突き出していた両手が、指先から凍りかける。羽ばたく翼が、みしみしと音を立てて石のように重くなっていく。
「くっ――」
このままでは墜落してしまうと思った童は、魔力の押し合いを諦めて横に跳ねるように飛ぶ。
押し合いに勝利した青い盾が、童の翠の盾を呑み込んで直進し、王都をさらに凍りつかせていく。空中の水分が凍りつき、街の至る所に氷柱が発生する。余波だけで、空まで届きそうな氷細工がいくつもできた。
またアイドの街が凍らされたことに心を痛めながら、敵と自分の相性について考える。
先ほどからこればかりなのだ。
とにかく、ヒタキは魔法の同時使用が多い。
魔法を大規模に扱うのではなく、全く別物の魔法を同時に使っていく。
他の『理を盗むもの』にはない器用さだ。
いまの盾の魔法のような大技のときでさえも、息を吸うかのようにもう一つ魔法を生成した。一つ一つの魔法では童が勝っていても、その二つ目の魔法が厭らしく隙を突いてきて、攻めきれない。
焦りを感じながら、童は風で右腕に作った銃剣から、魔弾を放っていく。
「吹き飛ぶがよい! ――
「――《アブソリュート・ウィンター》」
しかし、真冬の世界を切り裂く魔弾は、あと少しのところでヒタキの身体に届かない。
ヒタキの目の前、空中でぴたりと『停止』してしまう。
『
舌打ちしながら、童は更なる魔法を構築しつつ、翼を動かそうとする。
「――っ!?」
重みを感じ、目を見開く。
いや、どちらかと言えば、重みでなく引っかかりか。
動かそうとした翼が何かに引っかかって、上手く動いてくれない。無論、この空中で引っかかるものなどない。あるとすれば、この真冬の雪のみ。
「――《アイス・アロー》」
「くっ! 《ワインド・アロー》!」
違和感で身体を鈍らせた童に、氷の矢が飛来する。それをこちらも風の矢で撃ち落そうとしたとき、魔法の生成にも同じ引っかかりを覚えた。
「これは……!!」
身体全体どころか――魔力すらも重くなっている?
そう思わずにいられないほどの違和感だった。
そして、それが真実であると確信する。
咄嗟に自分の両手を見る。
『風の理を盗むもの』になってから一度も凍えることのなかった肉体が、寒さによって震えていた。
肉体だけではない。
両手に纏われた魔力すらも震えている。
同時に、先ほどの攻めきれないという話が間違いであったことを確信する。
逆だ。気づかぬうちに、ずっと童だけが一方的に攻められていたのだ。
おそらく、この相殺合戦による時間稼ぎこそ、ヒタキの『攻め』。
戦いを長引かせ、じりじりとフィールドを冷気に包み、少しずつ敵の身体から熱を奪うことこそ、この新しき『
派手に敵を蹴散らす『風の理を盗むもの』ティティーとは真逆の力――それが『水の理を盗むもの』ヒタキの力。
「くっ……!」
震える身体を奮い立たせ、いったん距離を取ろうとする。
しかし、その動きの全てが重くて辛くて堪らない。
魔力と体温を真冬の世界に奪われ過ぎたせいだ。
一秒毎に勝機が削られていくのがわかる。
こと短期戦ならば童が圧倒的に有利だったが、余りに戦いが長引きすぎた。
もはや完全にヒタキの独壇場となった王都を、歯噛みしながら飛行し、短期戦で決着をつけられなかった理由を見つめ直す。
まず、この王都ヴィアイシアを守りながら戦いたいという気持ちが邪魔をした。いかに自分の知っているヴィアイシアと違おうと、ここがかつての故郷の未来であるのは間違いなかった。何より、ルージュのやつと、できるだけ破壊せずに戦うと約束したのだ。
それゆえに大技を出し惜しんでしまった。
あと、もう一つ。
後方で無属性の振動魔法で寒さに耐えている童の妹分の存在だ。スノウを守りながらとなると、必然と戦い方が制限されてしまう。
「スノウ! 大丈夫か!?」
後方に飛び退いた童は、雪原に座り込むスノウに声をかける。
だが、返ってくるのは弱々しい震える声。
「ごめん、お姉ちゃん……! 防ぐのが精一杯……!」
唇を真っ白にしたスノウは、いま球体の魔法の中に引きこもっている。その球体は童の風とスノウの魔力で作った強靭な防御結界だ。それでも、この有様だ。
この世界で最も寒さに強い種であるはずの
「よい! 防げるだけ大したものじゃ!!」
スノウが無事であることを確認し、すぐに童は敵であるヒタキに向き直る。
そして、そのヒタキの立つ噴水の右後方で笑う使徒も睨む。
つい先ほどまではスノウとシスが戦い、童と相川妹で一対一だった。だが、いまとなっては、二対一。状況は刻一刻と悪化している。
ただ、助かることに、使徒シスは全てを渦波の妹に任せて観戦の態勢を取っている。
どうやら、自分の用意した新しき『
「ふふっ……無駄よ、千年前の王様! あなたでは私の陽滝に勝てないわ。だけど、恥じることはないわ。だって、私たちには誰も勝てないと最初から決まっているのだから! そう世界が決めてるの! 所詮、あなたは私たちのいないところで最強を誇っていただけに過ぎないわ! 本物の最強は、この陽滝っ、私――使徒シスの用意した陽滝よ!!」
自分では戦いはしないくせに、自慢げに後方で踏ん反り返っている。
どうにか、あの使徒の鼻を明かしてやりたい。
しかし、余りに身体が重く、魔力の出が悪い。
確かに童は地下での戦いで未練を半分ほど果たし、弱体化している。しかし、それでもこれは余りにおかしい。
ヒタキも『理を盗むもの』である以上、強いのは当然だ。
当然なのだが――
「――《イクスワインド》!!」
小技では話にならないと判断して、数日前に迷宮で渦波相手に使った魔法を構築しようとする。この身を魔弾に変えて、世界を穿つ魔法だ。
足元に翠色の魔方陣を展開し、王都を越えるほど拡大化させようとする。だが、それは途中で咎められる。
「――《フリーズ・ニブルヘイム》」
そう一言ヒタキが呟くと、周囲の冷気が瞬間的に増幅された。
魔方陣の展開を氷結属性の魔力で抑え付けられ、『停止』させられたのだ。
その見事な反応に、童は眉をひそめる。
そして、この間もなお戦闘の違和感は大きくなり続ける。
まず頭に浮かんだのは「本当に『水の理を盗むもの』相川陽滝は眠っているのか?」という疑問。
小技は相殺し、大技は初動で止める。
その判断と戦術が完璧すぎる。
眠っているのだから童の魔法に反応して迎撃魔法を撃ってくるのかと思っていたが、そんなことはなかった。
あの薄く開いた目から漏れる眼光が、一切の隙を逃すまいと燦々と輝いている気がする。
眠っている相手どころか、どこかの聡明な軍師を相手取っている感覚だ。
違和感はそれだけじゃない。
戦場にて百戦錬磨となった童だからこそわかるものがある。
根本的なところで『水の理を盗むもの』を勘違いしているような……そんな感覚がするのだ。
先ほど使徒シスは「私たちには誰も勝てないと最初から決まっている」と言っていた。渦波と同じ異邦人で、召喚の条件は『この世界の誰よりも心の強い子』と言っていた。
しかし、それでは『理を盗むもの』の条件から外れ過ぎていないだろうか。
相川陽滝は本当に童と同じ『理を盗むもの』なのか?
ただ、その分析の間も、敵の冷気は王都の結界内に溜まっていく。
身体と魔力の震えは大きくなり、体術と魔法の完成度が少しずつ落ちていく。代わりに、敵の魔法は力強くなっていくのだから冗談ではない。
劣勢になっていく童を見て、使徒シスは高笑いをあげる。
「あはっ、あはははは! 流石は私の陽滝! ええ、当然の結果よ! 古きものが、新しく用意されたものに勝つ道理などないもの! 世界の理として【誰も相川陽滝には勝てない】のよ! 存在のレベルが違うのよ! ははっ、さあ陽滝っ、もう勝負を終わらせていいわよ! その埃被った古い伝説さんを氷漬けにしてあげて!!」
もう童は周囲への被害を考えるのをやめる。
そのシスの言う世界の理ごと、童の【自由の風】で何もかも壊してやろうと、全力の魔法を構築しようとする。
「魔法《ロード・オブ・ロー――」
「止まれ。――《フリーズ・ニブルヘイム》」
しかし、それは冷気によって咎められる。
相殺はされていない――だが、余りに構築が鈍くなった。
仕方なく童は右拳に魔力を集めて、強引に王都ごと敵を破壊しようとする。
「く、砕けろぉお――!!」
「止まれ。――《フリーズ・ニブルヘイム》」
だが、右拳に集まる魔力は少なければ、振りかぶった腕も余りに鈍い。
国を破壊するつもりで放った全力の拳だったが、結果的には風属性の上位魔法程度の力しかなかった。
周囲の街の家屋を十数軒ほど吹き飛ばし、軽く街道に亀裂が入り、空の結界に拳圧がぶつかった程度だった。
その本来の力の百分の一もない力に、童は事態の深刻さに気づき、休む間もなく全力の風を放ち続けるしかないと判断する。だが――
「止まれ。止まれ止まれ止まれ。
ヒタキの放つ冷気が一段階増す。
ここまで手を抜いていたことがわかる冷気の増加だった。間違いなく、童の表情と反応を見て、戦い方を変えている。
「くっ、うぅっ、手足が……!!」
童が力を温存していたのと同じように、ヒタキも力を温存していた。
一気に身体が芯から冷えて、指先がかじかみ出した。
もう一発放とうとした拳から力が抜けていくのがわかる。
「どうかしらっ、一つ前の『
シスは先の全力攻撃によって場所の移動をしていた。噴水の後方ではなく、遠くにある家屋の屋根上で高笑いしている。
それに少し言い返そうとして、唇と喉の動きの遅さに愕然とする。
シスが自慢したくなるのもわかるほどの冷気が、童の全身を纏わりつき、声を漏らすのも難しくなっていた。歯がガチガチと音を鳴らすだけで、声となってくれない。
「――《アイス・アロー》」
その震える身体へ追い討ちをかけるように、陽滝から氷の矢が放たれる。
それを童は、ぎりぎりのところで銃剣で払いのける。
ただの氷結属性の初級呪文が、恐ろしく速く重く感じた。
この真冬の世界のおかげで強化されているのもあるが、何よりも童が弱体化しているのだ。そして、その弱体化を成功させたのは、目の前のヒタキの状況に見合った魔法の取捨選択――見事な戦術の運び。
――強い。
間違いなく、ヒタキは強い。
童が五十層の
それでも圧倒されている。
千年前、使徒シスが途中で間違えて怪物化させなければ、歴史が丸々変わっていたと確信できるほど、この少女は強い。
「うぅ、うぅっ……」
使徒シスがヒタキこそ、本物の『
強さこそが『
神秘的で伝説的――同じ伝説である使徒を背中に置き、何者も寄せ付けない伝説の王。
童のような『ごっこ遊び』の延長で至った偽物とは違う。
いまヴィアイシアの王都の中央で、氷柱の上に立つ彼女は本物だ。
偽物が本物に勝てる道理などない。
どれだけ力に自信があれど、圧倒的な力の前には無力。
無力なのだ。
童は子供……無力な子供。
そう迷宮で認めてしまった。
『
勝てないから、こうして童は膝を地面に突き、手を突き、いまにも倒れそうに――
「――ち、違う!!」
いまにも倒れそうになる瞬間、咄嗟に否定して首を振った。
いつの間にか、両手を地面についていた。
雪のベッドに身体を預け、眠りそうになっていた。
まだ戦えるのに、戦う前に諦めかけてしまっていた。
その異常から、この真冬の世界《フリーズ・ニブルヘイム》の本当の力に気づく。
冷気が
この氷結空間は、目に見えぬ魔力まで凍らせるだけだけではない。どういうわけか、人の心の内の闘志まで冷やしていっている。
すぐさま童は萎えかけた闘志を再燃させようとする。
「くっ、むむっ……!!」
伝説の王だろうが何だろうが関係ない!
ここにいるのはティティーという人間とヒタキという人間が二人、どちらも変わらない!
偽物が本物に勝てない道理などない!
圧倒的な力が相手だろうと、戦い方次第で覆せる――!!
そう自分に言い聞かせて、闘志を燃やそうとする。
だが――
「……ぁ、ああ、くっ……」
童の決意を嘲笑うかのような寒さが襲ってくる。
皮膚に張り付いていた痛むかのような冷たさは、少しずつ消えていき、むしろ暖かさを感じる。触覚が『停止』したのだとわかった。
身体は震えを超えて、動かなくなった。
いまや、冷たさを感じるのは脳の芯のみ。
思考力は落ちていない。ただ、熱を失い、どこまでもネガティブなことを考えてしまう。これが敵の魔法の力とわかっていても、どこまでも敗北感が募っていく。
その敗北感が、魂さえも冷やしていく。
このままだと何もかもが凍らされ、『停止』してしまうと思った。しかし、危機感という機能は、とっくの昔に『停止』してしまっていて、それに抗う気が起きない。
寒い。
ああ、寒い。
ただただ、寒い
もう眠ってしまいたい。
考えるのも億劫だから、何も考えずに眠りたい。
眠って、何も考えず、暖かいところで、ずっと休みたい……。
ああ、もう……――
「――……そろそろですね」
瞼が落ちかけたとき、聞こえてきたのは声。
友ノスフィーの声だった。
友人の声がしたほうに、瞼の閉じる寸前の瞳を向ける。
使徒シスの近くで透明化を解いたノスフィーが立っていた。もしかしたら、この戦いをずっと観戦していたかもしれない。
ノスフィーは童に目を向けながら、使徒シスと話す。
「この『
「当たり前よ。ふふっ、正直、勝負するまでもなかったわ」
それに使徒シスは即答する。
ただノスフィーは、その即答に可哀想なものを見る目を向ける。
「……相変わらず、使徒様は全てを見下し、自分の踏み台としか見ていませんね。一度、死んでしまったというのに、まだその性格は治らないんですね」
ノスフィーに似合わない憎まれ口だった。少なくとも、生前の彼女ならば使徒相手にこんなことは絶対に言わなかったはずだ。
「見下すというよりは、現実を誇っているだけよ? それとも、あの風使いの女の子が私の陽滝に勝つと言うのかしら? そんな奇跡ありえないわよ」
「はい。ロードだけでは難しいでしょう。しかし、彼女たちが力を合わせれば、ありえない話ではないとわたくしは思います」
その目を、童とさらに後方にいるスノウに向けて、ノスフィーはまだ勝機があると言った。それは使徒シスとの会話だったが、情けない童たちに「まだやれる」と激励する言葉のようにも聞こえた。
「彼女たち……? ああ、あの木の中にいる盟友のことを言っているの? あなたは相川渦波を妄信しすぎよ。たとえ、いまから盟友が合流しても無意味よ。【相川渦波は相川陽滝に勝てない】って、世界の理からして決まってるわ。それでも、奇跡が起こるって?」
「そんな理、真正面から打ち破るからこそ、人は人なのです。『理を盗むもの』たちは心弱いものから選ばれたといえど、元は人間。あらゆるものを打ち破る可能性を秘めています。私たちのような『劣化した
レプリカと言われて、饒舌な使徒シスが押し黙った。
反論できない何かが、いまのノスフィーの言葉にはあったのかもしれない。
会話が途切れたところで、ノスフィーは一礼と共に別れの挨拶を告げる。
「……時間がありませんので、そろそろわたくしは失礼させて頂きます」
「ええ、帰るといいわ。あなたの居場所へ」
それをシスは見送る。
これ以上ノスフィーと話をするのは不愉快であることが、その表情からはっきりとわかる。
そして、ノスフィーは最後に、童に向かって別れの言葉を残していく。
その表情は、一度も見たことがないほど穏やかで、同時に苦しそうで――
「さよなら、ロード……。わたくしの好敵手で――そして、友達だった可愛らしい魔人さん……。心配要りません。大丈夫。もうあなたは『王』ではなく、報われるべき心優しい『人』なのですから……」
「ノ、ノス……、フィー……? ま、待つのじゃ……」
「――次元魔法《コネクション》」
しかし、それを聞いたノスフィーは答えることなく、近くに輝く門を作って、くぐり抜けた。
確か、あれは遠くに移動するための次元魔法だったはずだ。
ノスフィーの姿が消え、その輝く門も消える。
「あやつめ……」
去った友の背中に、悪態をつく。
渦波のいないところだと、ノスフィーは冷静だ。苦しそうな顔だって、友人の童には見せてくれる。
少しずつわかってきた気がする。
ノスフィーも、童と似ている。
おそらく、あの童よりも心の弱い少女は、きっと――
「くっ、しかし、まずい……。寒さで身体が……」
だが、いま友の内情がわかったところでどうしようもない。
手足を動かそうとしても、赤子のような頼りない力しか入らない。
ノスフィーの激励で少しだけ心が温まったのは確かだ。
しかし、その熱は数秒で、また奪われしまうだろう。
「ま、瞼が重いのじゃ……。このままでは……」
耐え切れず、とうとう瞼を閉じてしまう。
極寒の真っ白な世界から、暖かで真っ暗な世界に落ちていく。
手足の感覚が消えて、身体が地面に倒れこんだ。柔らかなベッドに飛びこんだかのような柔らかい感触に包まれる。それが雪の感触であると頭でわかっていても抗いがたい誘惑だった。
全身を暖かな雪に包まれ、眠りに落ちかける。
そして、眠りを催促でもするかのように、本能が瞼の裏に先んじて夢を見せまでする。
その夢は数日前、死に物狂いで思い出した記憶だった。
渦波のおかげで拾うことの出来た大切な宝物。
かつてのヴィアイシア――暖かな日差しの中、草原が広がり、それを駆ける二人の子供に、それを見守る老夫婦――本当に
その二人の子供の名前はティティーとアイド。
「ああ……、そうじゃ……。童はアイドのやつに……、伝えねばならぬことが、まだあるのじゃ……。弟と会うまで、倒れ、るわけ……、には……――」
意識は遠のくのに、アイドのことだけは頭から離れない。
アイド……。
童の大事な弟……。
迷宮の六十六層から抜け出したおかげで、弟と一緒に過ごした記憶を思い出せる。
昨日のことのように思い出せる。
色んなことがあった……。
子供の頃、白い髪のちびだったアイドは、童の後を必死についてきたものだ。
男の癖に足が遅くて、いつも息を切らしていた。それでも一言も文句を言わなかったのは、あやつの意地だったのだろうか。
その意地に合わせて、あやつはちょっとずつ大きくなっていった。
背が童に少しずつ追いついていって、それが童は不満で生意気だと理不尽に怒ったこともあった。
そんな理不尽な姉に、ずっとアイドは黙ってついてきてくれた。
草原で遊ぶときも、川で遊ぶときも、山で遊ぶときも、ずっと傍についてきてくれた。共におらぬ日など、一日もなかった。
川の主を釣ろうとしたときも、飛竜を見に行ったときも、北の町へ繰り出したときも、一緒だったのだ。
ずっとずっと一緒だったのだ。
楽しかった……。
童はとっても楽しかった。
あやつがいてくれて、とても嬉しかった。
――けど、アイドはどうだったのだろうか?
確かに笑ってはいた気がする。
童の後ろで小さく微笑んでいた……ような
ああ、心が寒い。
寒くて寒くて、嫌な予感が止まらない。
あの頃の
こんな愚かな姉に連れまわされたアイドは、本当は楽しくなかったかもしれない……。
一緒に笑っていた気がしていただけかもしれない……。
本当は童の弟なんて、やりたくなかったのかもしれない……。
だから、ああなったのかもしれない……。
『弟』でなく『宰相』になったのかもしれない……。
『宰相』アイド……。
似合ってない力を手に入れて、似合ってない夢を叶えて、似合ってない服を着て、似合ってない眼鏡をかけて、似合ってないことをしていた……。
まるで、童を責め立てるかのように……。
「あ、ああ、ぁぁあ……――」
もう駄目かもしれない。
心が凍えて、理由もなく不安で不安で、寂しくて堪らない。
人肌が恋しいのに、手を伸ばせど誰もいない。
暗闇の夢の中、一人ぼっち。
ここに弟のアイドはいない。
渦波もノスフィーもいない。
誰もいないのに、『
童が騙った伝説の王だけが、自分の目の前にいる。
捨てたはずなのに、敵として最後まで付きまとってくる。
最後に残ったのは友でも家族でもなく――『
その事実に心が折れそうだ。
駄目……。
心が折れる……。
誰か童を助けて……。
かなみん……、ノスフィー……。
ベスちゃん……、ヴォルスの爺さん……、北のみんな……。
ああ、お爺ちゃん……、お婆ちゃん……。
「アイド……――」
アイド……弟の名前。
その名前の意味は単純。
千年前の『
ああ、どちらでもいいのだ。
だって、どちらにせよ、その名前の意味するところは一つなのだから。
意味は一つ。
――
そう願ってつけた名前だった。
だから、童は弟を『アイド』と呼ぶ。
思えば、ずっとアイドの顔を見ていない気がする。
地上に出てからアイドと話すことはあれど、顔を向かい合わせることはなかった。
いずれとも遠く、何かが間で遮られていた。
だからだろうか、より強く思う。
一目でいいから会いたい。
最後に一度、アイドと会いたい。
だって、童は千年以上も会っていないのだ。
大事な大事な家族なのに会えていない。
地獄を転がり落ち続け、何度も何度も泣き叫んで、ここまでやってきた。
帰ってきたんだから、最後に……。
最後に一度だけでいい。
会いたい……。
寒い暗闇の中、一人――童は「会いたい」と願う。
もう世界は闇一色。
意識は遠ざかっていき、もう何も考えられなくなっていく。
感じるのは、もう心の冷たさだけ。
寒い。
寒い寒い寒い――
凍えて死にそうだ。
でも、会いたい……。
アイドに会いたい……。
アイドに……会いたい……。会いたい。
会いたい、会いたい会いたい会い……たいよ……。
……
――奈落に落ちてしまう間際。
「
その声は響いた。
同時に暖かな魔力が身体を駆け巡った。
いや、暖かいどころか、熱い魔力だ。
その熱によって、遠ざかっていた意識が引き戻される。
『停止』していた思考が動き出す。
「ぇ、え、あれ……?」
いま何か聞こえたような……。
とても大切な声が、いま――
いつの間にか、あんなにも重かった瞼が軽くなっていた。
そのおかげで、なんとか外界の白い王都を視界に入れることが出来た。
「…………っ!」
目を見開いた先で、記憶にない一人の男の背中があった。
衣服が襤褸切れとなっている。
袖口から除く手足が青痣と擦り傷にまみれている。
激戦を乗り越えたであろう大きな背中が見える。
その首筋から枝と葉が伸びていることから、
アイド――?
弟のアイドが、童の前に立っていると気づき、放心しかけた。
一瞬、幻覚かと思ったが、目の前にいる『理を盗むもの』に相応しき魔力は間違えようがない。
アイドがいる。
あの城から抜け出てきて、身一つで童の前に立っている。
それはつまり――
童は期待してもいいのだろうか?
千年後のいま、国の『宰相』という立場に囚われていた弟が、帰ってきたのだと――やっと、童たち姉弟は再会できたのだと――顔を合わせて喜んでもいいのだと――期待していいのだろうか?
その
少し怖かったのだ。
確かめるのが怖い。
声をかけるのが怖い。
向かい合ったとき、まだアイドが『宰相』で、『
いま姉弟であることを否定されたら、寒さで弱った心が折れてしまう――
「――
先に声をかけたのアイドだった。
そして、童を『姉』と呼んで、振り向いた。
記憶にある『宰相』アイドと同じ大人の顔が見える。
ただ、表情がまるで違った。
「すみません。とても長い間――ええ、本当にとても長い間、お待たせしてしまいました……。けれど、いま『姉様』の傍に戻りました。……あなたの『弟』は、もうあなたを絶対に一人にはしません」
はっきりと弟は謝罪の言葉を紡いでいく。
『
「ア、アイド……!!」
この瞬間を、童は待っていた。
ずっと待っていた。
千百年の間、ずっとずっと待っていたのだ。
迷宮の中、あの偽りのヴィアイシアで、地獄のような贖罪を繰り返し、心を壊しても終わらぬ生に絶望し、奈落の底で泣き続け――それでも、この弟を童は待っていたのだ。
「はい。ここにいる自分はあなたの弟、『アイド』です」
「あ、ああっ、アイド! やっと正気に戻って――」
「いいえ、それは違います。違うのです、姉様」
童は歓喜と共に立ち上がり、すぐさま飛びつこうとした。
しかし、それをアイドは首を振って止めた。
そして、童と顔を向き合わすのを避けるように、前を向いた。
そ、そんな……まさか、まだ正気ではないのだろうか。
不安が頭によぎる。
せっかく心に灯った暖かなものが、冷えて消えそうになる。
その中、アイドは謝罪し続ける。
「すみません、ずっと自分は正気だったのです……。正気の上、全て計算ずくで、あなたを『
千年前どころか、生まれてから今日まで正気であったとアイドは言った。
その事実に恥じ入っているのは、弟の両の握り拳から落ちる血からわかった。いまアイドは童に合わせる顔がないから、前を向いているのだ。
「ええ、自分は
しかし、それでもアイドは心折ることなく、叫ぶ。
この心凍らせる極寒の地で、その心の炎を猛らせるように咆哮する。
「もうっ、二度と卑怯な真似はしません!! 決して、あなたを『
そして、迷うことなく、その身に纏っていた襤褸切れの上着を脱ぎ捨て、
「ティティー姉様の弟をやらせてもらってもかまいませんか!? こんなに情けなくて情けなくて頼りない自分ですが! それでも、これからもっと強くなりますから! 絶対に絶対にっ、強くなってみせますから! どうか――!!」
続いて、アイドはかけていた眼鏡も握り潰して、白い地面に捨てた。
その叫びと共に、アイドの熱と感情が童の心に届く。
いまならば、あんなにも遠かった弟の気持ちがわかる。
「――もう一度だけ、あなたの『弟』アイドとして傍にいさせてください!!!」
弟は弟であることを願った。
その願いを聞き、童は昔を思い出す。
ああ、懐かしくて、涙が零れそうだ。
始めて出会ったときの記憶が、頭の中を駆け巡る。
姉弟となった瞬間を思い出す。
いまアイドは、あのときと同じ姿だ。
腰に襤褸切れ一つ、ボロボロで歩くのもままならない。
自分という存在に自信がなく、名前を求めて彷徨っている。
けど、あの日と違うところが一つある。
それは童たちが、千年前と違って少しだけ大人になっていること。
だから、童の答えだって、少しだけ変わるのだ――
「き、聞くまでもなかろうが! ぬしは
もう童とアイドは小さくない。
余りに永過ぎる時間を生きてしまい、背丈は伸び、大人になった。
だから、変わる。
姉弟の契りの意味が、いま変わる――!
「その寛大なる心っ、感謝します! ティティー姉様! 後は自分に任せてください!!」
千と百年前、童がアイドの前に立っていた。
姉の童が、弟であるアイドを導き、守ってやろうと誓った。
アイドの手を引いて、前を走り、迫る苦難を全て打ち払ってやろうとした。
けれど、千と百年の時を経て、立ち位置は入れ替わった。
いま、前に立っているのはアイドで、後ろで守られているのは童――!
嬉しい。
姉として嬉しくて堪らなかった。
この千年後の未来に至り、いまアイドは童を越えようとしている。
あのちびだったアイドが、こんなにも変わった。
未だに痩せ細り、不健康そうな身体だが、童よりも大きい。
何より、もうその背中の
その魔力の熱気が、敵の冷たい魔力を弾いている。
極寒の真冬の世界の中、アイドは一歩ずつ、前へ前へ進みながら、叫ぶ。
それは敵に向けた声でもなく、味方に向けた声でもなく――まるで世界に叩きつけるかのような誓いだった。
「――聞け! 自分は敬愛するティティー姉様の弟っ、アイド! 『アイド』だ!! もうっ、ここに心の弱い『自分』はいない!!」
世界に叩きつけるのは、童が名付けた名前『アイド』。
アイドはアイドであることを示し、その大きな背中で童を守りつつ、一歩ずつ前進する。
「ティティー姉様! どうか、今度は姉様が自分に期待してください! このアイドに任せてください! このアイドの背中を頼ってください!!」
アイドの叫び一つ一つによって、童の心が感じていた寒さは掻き消えていき、身体の震えが止まる。
それどころか、子供の頃に感じていた故郷の暖かさが、胸の内から溢れてくる。
「やっと『自分』のっ、『
あのアイドが、あの『
「姉様っ! いまっ、あなたを苦しめる全てを――自分が倒します! 『木の理を盗むもの』でも『ヴィアイシア国宰相』でもなく――ただのティティー姉様の『弟』として! このアイドがっ、ティティー姉様を苦しめる『
それは千百年の間、ずっと聞きたかった言葉だった。
一人ぼっち、奈落の底、泣き続けながら、ずっと待ち望んだ言葉だった。
「――ああっ、ようやくわかった! この私の
弟は宣言する。
条件が揃った『いま』こそ、アイドは世界に叫ぶのだ。
真なる
「
そして、誰に任せることもなく、自分で乗り越えると挑戦状を世界に叩きつけた。
「自分が『
目前の人生最強の敵を前に、一切の気後れなくアイドは踏み出す。
「自分の創った『
たった一人の姉である童を守るため。それだけのために――
自らの創った理想そのものである『
「あ、ぁあ、あぁぁあぁ……! アイド……!」
その背中を見送る童は、目の前が涙で滲んで見えなくなっていた。
溢れ出る涙が止まらなかった。
けれど、すぐに泣いてばかりじゃいられないと、その涙を振り切る。
もう二度と同じ失敗は繰り返さない。繰り返してはいけない。
この頼りになる弟の背中を、ぼうっと見続けては童は姉失格となってしまうだろう。
童たちは『姉弟』。
姉弟なのだから、二人で歩かないといけない。
その大切さを童は千年と百年をかけて学んだ。
命を賭けて、心を壊し、北の民を付き合わせてしまってまで――学んだのだ。
ならば、ここで動かなければ、見送ってくれたみんなに申し訳ない。
今日まで育ててくれた全てに申し訳が立たない――!!
絶対にアイドを一人で戦わせはしない。
大事な弟一人に全てを任せたりはしない。
童たちは二人だ。
もう一人ではなく、二人なのだ!
これから先、死ぬまでずっと――!
いや、死んでからもずっとずっと――!
童たち姉弟は二人――!
二人なのだから――!
二人で戦おう! アイド――!!
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