第143話 担任教師とネコで
下駄箱のある玄関先。
ざんざん降りの雨が、まるで壁のように立ちふさがっている。
なんとなく手を差し出してみるとあっさりとうずまって、ずぶ濡れになった手の先が生ぬるく浸っていく。
―――傘、忘れた。
「どうしよう」
「どうしたもこうしたもなかろうよ」
「わ」
振り向けばそこには先生がいて、ポンポンと頭を撫でられる。
「寄り道しないで帰れ。特にお前はな」
「いや、傘忘れちゃって」
なぜ私を特筆するのかとか、気にしたらたぶん負けなので気にせず言い訳する。
言い訳っていうか純然たる事実で、先生もさすがにそこで理不尽なことを言ったりしない。
「ふむ」
顎に手を当てるという妙に様になる姿勢で何やら考えた先生は、それから私の肩を抱き寄せて耳元でささやく。
「職員玄関で待っていろ」
「こっ、」
「よろしい」
私の返答もまともに聞かず、先生ははたはたと肩を叩いて颯爽と去ってしまう。
取り残された私は耳たぶにたまる熱と肩に触れた手の感触をぎゅっとしながら、いまさらになって声帯を通過してきた言葉をこぼす。
「こんな風にする必要ありました……?」
あたりまえだけどそんなつぶやきに答える人はいない。
私はしばらくたたずみ、とりあえず職員玄関へと移動した。
「待たせたな、島波」
「あはい。いえ」
待っていると、シンプルな黒のリュックを肩にかけた先生がやってくる。
そして当たり前のように私の肩を抱くと、携帯用の無骨な傘を開いて一緒に雨の中へ。
「あの、えっと、先生?」
「送ってやる。私と離れがたいのなら口をつぐめよ」
「ざ、斬新な脅しですね……?」
いやまあ、言われるまでもなくこんなこと誰にも言うつもりはないけど。
言う必要もないか、あるいは言えないし。
なにはともあれ私が先生の言葉を受け入れたのを察してか、わずかに頬を緩めた先生が目元にほんの少しだけ唇を触れさせる。
「ひぇっ」
「おかしな声を出すな」
「いやいやいや! おかしなことしたのは先生じゃないですか!」
先生ともあろうものがこんなっ、実質閉鎖空間みたいなところであんな―――ッ!
「きょっ、今日先生おかしくないですか? どういう風の吹き回しなんですかもうっ」
「ふむ? 特になにもないと思うが」
「いやそんなバカな」
私が胡乱な視線を向けると、先生はまた考えるそぶりを見せて、それから柔らかく微笑む。
……ああ。
私が理由じゃないんだ。
「今日は結婚記念日でな。そうか。浮かれているのやもしれん」
「そうですか。それはおめでとうございます」
先生が人妻であることを強く再認識させられて、私は子供みたいに―――っていうかまあ、子供だから、子供らしくすねた。
先生はそんな私に軽く喉を鳴らすように笑って、それから額にキスをくれる。
なんかもう本当にずるい。
こんな風に想っているのなんて私だけなんだろうって気分にさせるのが上手なんだ。
手玉に取られるちょろいガキだ、私なんて。
そんな風に不貞腐れながら車にエスコートされる。
一滴も濡れることなく助手席に乗せられて、そして運転席に座った先生はまたポンポンと頭を撫でた。
先生の濡れたバッグと片腕も、注意しないと気付かないくらいさりげなく隠すし……なんだかなぁ。
「いいんですか、こんな日に私なんてここに乗せて」
「アイツとは家で祝うのでな」
「ぐぬぬ」
要するにここに座るのは私だけだと言いたいのか、それとも奥さんの特別と私は違うのだと言いたいのか……やめろ私、ポジティブに考えるな……!
ぐぬぬぬぬとうなる私は、反逆するように黒リルカを取り出した。
「ほう」
面白そうに笑んだ先生はあっさりと私を買って。
「気は済んだか? ではいくとしよう」
「はぇ」
そしてそのまま先生は車を発進させる。
慌ててシートベルトを締めながら視線を向けてみるけど、先生はもう前を向いて安全運転を心がけている……模範的運転手め……
学校から私の家までなんてそう時間はかからない。
どんなに遠回りしたって30分もかかることはないだろう。
私をゆだねるというだけの黒リルカに、私からの強制力はない。
だからこのドライブは私が何を言ったところで進路に変更はない。
ああ。
だってそうだろう。
今日は結婚記念日で、私なんかに使う30分はないに決まっている。
こんなことになるのなら、いっそ雨の向こうに駆け出していればよかった。
―――なんて。
そんな風に落ち込んでいる間に、車は止まった。
「……ありがとうございます」
お礼を言って顔を上げる。
そして、そこがどこでもないことに気が付いた。
道路……路地?
建物の隙間みたいなところに、車は停まっている。
「さて。残りは25分ほどだな、島波」
「え、と」
恐る恐る視線を向けると、もう先生はすぐそこにいて。
ビックリして目を閉じるとそのまま先生は私ごと椅子を押し倒す。
「普段はこの私をずいぶんと好きにしてくれるからな。正直少々腹立たしくはあったのだ」
私が先生を好きにできたことなんていまだかつてありましたっけ……?
いつもだいたい先生にしてやられるはずなんですけど……?
「そうさな……島波。お前、犬と猫ならどちらを好く」
「えっ、……ね、ねこ……?」
「ならば猫になれ」
「へぃえ」
「アイツは犬派でな。そこはどうしても気が合わん」
その口ぶりからすると先生は猫派らしい。
つまり……どういうこと……?
「あの、」
「猫が人語を口にするな」
「いやでも」
「くどいぞ」
先生の手が顎をつかんで、強引に親指が舌を押さえつける。
「猫はどう鳴く。貴様なりにやって見せろ島波」
「ゃ、ゃあ」
「聞こえんぞ」
「なぁ、」
「聞こえんと、そういっているのだ」
「なぁおんっ」
ぐちぐちと舌をいじめられながら、猫の鳴きまねをさせられる。
これは……なん、なんかこう、えっと……
「なぁう、にゃお。まぁおん」
「ふむ。まあ悪くはないだろう」
ようやく満足した先生が私の指を解放する。
自由になった舌は抗議を発そうとして。
それなのに。
「なぁうっ、にゃあお、おぁん」
どうしてか、どうしても、私の言葉は鳴き声に捻じ曲がる。
まるで舌に呪いをかけられたみたいだ。
「実は結婚記念に犬を迎えるのだ。もっとも予定がズレ、実際の受け入れは明日になったが……」
だから私を猫にしてその猫飼い欲求を満たそうとしているのだろうか……
私を猫にしてその猫飼い欲求を満たそうとしているのだろうか?
バカかな?
いやでもなんかもう……
「なぁん……♡」
「お前は猫にしてはやや媚すぎるな。まあ悪くはない」
「ごろごろ♡」
私をもてあそぶ手にじゃれつく。
車という閉鎖空間。
雨の音による降り注ぐ静寂。
そのなかで私と先生は―――私と、ご主人様は、ふたりきりで……だから、私は逆に一種の解放感を覚えていた。
獣の快楽とでも言えるのかもしれない。
我を捨てて、ご主人様の望むままに甘えるというだけで呼吸を許される感覚。
「どれ。菓子をやろう。……本来猫にはやれんが、貴様にはもんだいなかろう」
そう言ってご主人様はバッグから一粒のチョコレートを取り出す。
そんなものを携帯しているだなんてかわいらしいところもあるんだ……えへへ。
「いいか。待て、だぞ、っと」
待てなんか聞かないで、ご主人様の指ごとお菓子をほうばる。
あまくて、おいしくて、とろとろとろけてきもちがいい。
「ふ。聞かんやつめ」
そんなことを言いながらも、ご主人様は私の顎をなでなでとさすってくれる。
心地よくて、たまらなく幸せで、しっぽがみゅんみゅん振れてしまう。
ご主人様の指をあみゅあみゅと舐り、甘噛みしながら撫でられる―――そんな幸福感が、もう、たまらなく、とろけてしまいそうで。
「にゃぅん♡」
「なんだ。まだ欲しいのか、島波」
「あぉん♡」
「仕方のないやつめ」
ご主人様はまたあまいお菓子を私にくれる。
生きているだけでご褒美をくれて、甘やかしてくれるんだから、やっぱりご主人様は私のことがきっと大好きでメロメロなんだ。
ああ。
えへへ。
しあわせ……!
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