「大切なのは、信念だ。」と昭和の名横綱は言う。

 カイリ様に、気になる人ができたらしい。


 その日晶子は、先週の内に予約しておいた美容室に行くため、鏡の前で伸びた髪をゆるく一つに縛っていた。生え際に負担をかけないように、ゴムでは無く、シュシュでゆったりとまとめる。なんだかとてもホッとした気持ちになった。毎日ポニーテールをしているせいか、生え際も少し気になっていた。雨が降ると髪がうねって重いし、蒸れるし、乾かすのも億劫で、洗うのも面倒で。ここまで伸ばしてみたけれど、慣れないせいかそろそろ切ってしまいたい気持ちに何度も襲われる。


 ここまで長いのは、物心がついてからは初めてのことだ。長い髪の毛がこんなに面倒だとは、思ってもいなかった。

 髪先を揃えるためだけに美容室に行くのもなあ。―――そんなことを考えながら家を出た。



『学校で気になる子がいるのですが、彼女に好かれるためにできることって何かありませんか?』



 少し早めに着いてしまったため、順番が来るのを待たされていた美容室。カイリ様のそんな書き込みを晶子が見たのは、待っているための席に置いてあったヘアカタログを何気なく見ている時だった。こんな髪型も良いなぁなんて思いながら、髪先を触っていたら携帯電話が揺れた。


 いつかはそういうこともあるだろうとは思っていたし、もう少しショックを受けるかなと思っていのだが。まあでも、想像できていたこと。―――ぐらいの軽い気持ち、いや、どちらかというとノリノリに近い気持ちで『可愛いとか言ってみたらどうでしょう?言われたら嬉しいかも。』とコメントを送った。

 カイリ様が普通の学生に見えてとても嬉しかったし、少し身近に感じる瞬間だった。あーちゃんがSHOUJOAとして参加したことで縮まった距離が、ますます近くなったような、そんな感覚だ。



(カイリ様が好きになるような人って、どんな人なのかなぁ。想像がつかん。)



 何だか、自分にも春がやってきたようなそんな感覚に、晶子は携帯電話を見ながらふふっと笑う。



(推しがいるって、やっぱり楽しい!)



 そんな時に、ちょうど開いていたヘアカタログのページがショートカットだった。ここまで短くしたことは今まで無い。せっかくだから短くしたい。そう思ってしまったのは必然だったと言うべきか。見た目を変えたときの両親の反応を思い出せば、おかっぱに戻すのもどうかなと思っていた。

 席に案内されて、担当の美容師さんに「どうしますか?」と聞かれると、晶子はルンルンで「短くしちゃってください。」と言ったのだった。





 ――――――――――



「何それ!超可愛い!」



 朝のホームルームが終わり、あーちゃんが机にぶつかりそうな勢いで近づいてきて、開口一番にそう言った。



「本当?良かった。」



 実は、自分でも意外に似合っているのではないかと思っていたのだ。だからと言って、他の人から見た自分のイメージはどうかわからない。あーちゃんにそう言われ、晶子は少しほっとしていたし、素直に嬉しかった。

 首周りは、縛っていた時の方が涼しく感じていたのだが、それでもとにかく頭は軽いし、ひっぱられるような痛みを感じることも無い。痒い時は掻けるし、あーちゃんにも可愛いといってもらえたので、晶子は大満足だ。午前中にあった山田の授業の間でさえ、思わずニコニコしてしまいそうなほどだ。




 昼休み。晶子がいつものようにお弁当を持ってあーちゃんの席に移動すると、「酒井!見て見て!」と、あーちゃんが立ち上がり、近寄って来た晶子の手を引っ張って、後ろの席に座る酒井の方にその身体を向けた。


 あーちゃんと酒井は、席が前後になったことで随分と話すようになったようだ。お陰で、晶子も彼と話す機会が増えた。ブルーグレーのパーカーについてはあれ以来、どちらも着て来ていないので、なんとなく話せないでいる。


 されるがままに酒井の正面に立たされた晶子は、心の中で『え?え?』を連発しながら、席に座って見上げている酒井の顔を見た。彼は少し呆れたような顔をしているように見えた。



「どっか、置いてきた?」



 晶子が少し不安を感じた、その瞬間だった。酒井の言っている意味がわからなくて、呆然とする。



(何を?髪?あ!ポニーテールか。)



 言っている意味がやっと分かって、晶子は口許が緩む。そして、冗談めかして「変、かな?」と聞いた。

 茶化したような答えでも返って来ると思っていたのだが。



「いや、…すごい似合ってる。」



 晶子が全く想像もしなかった答えが返って来て、一瞬、何を言われたのかわからなかった。頭が真っ白になっていくようなそんな感覚。



「え、あ、ありがとう。」



 顔がじわじわと赤くなっていくのがわかる。俯いて、それを誤魔化した。男の子に、「似合っている。」なんて言われたのは初めてだ。



「思いきったねぇ!」

「あはは。失恋しちゃって。」



 あーちゃんが髪を触って来る。晶子は、ドギマギしてしまった気持ちを切り替えて、理由を聞かれた時のために昨日の時点で既に考えていたそれを、舌をペロリと出しながら言った。



「カイリ?」

「気になる人がいるんだって。」



 晶子は、困ったように肩を竦めて、さみしそうなフリをする。そして、「なんてね。」と言って笑えば、あーちゃんも笑ってくれた。



「本当は昔から短い髪が好きだったんだけど、高校入るのに合わせて少し伸ばしていたんだぁ。でもやっぱり夏は暑いし、面倒で。」



 冗談はさておき、本当の理由を説明すれば、あーちゃんは納得したようにうんうんと頷いている。ところが、酒井はこちらを見たまま固まっていた。



「酒井、大丈夫?どしたの?」



 酒井の顔の前で、手を振ってみた。すると、驚いたようにハッとした酒井が「あ、いや。すごい、可愛い、です。」と言って、顔を真っ赤にして目を逸らした。



(え?何?)



 何を言われたのか、理解するまでにとても時間がかかった気がした。冗談にしては、それらしい雰囲気でも無い。でも、たぶん、彼は「可愛い」と言った。――気がする。

 酒井が言った言葉を、段々と理解していく内に、顔が茹でだこのように熱くなっていくのがわかった。きっと耳まで真っ赤なはずだ。

 助けて求めてあーちゃんを見れば、自分の椅子を逆向きに跨ぐように座り、酒井の席に頬杖をついて楽しそうに笑っていた。


 それからどうやってお昼を食べたのか、あまり憶えていない。酒井はいつものようにヘッドホンをつけて寝てしまっていたし、あーちゃんとは使っているシャンプーのメーカーとかどんなヘアケアしているかとか、そんな話で盛り上がった気がする。




「小学校の頃に戻ったようですな。」



 いつものように、同じ車両に乗り込んできたユタ氏が繁々と晶子の頭を見ながら言った。



「小学校の時よりももっと短いと思う。変?」

「よきよき。」



 ユタ氏は満足そうに笑ってくれて、晶子は一安心だ。



「髪を伸ばせば陽キャという、安易な考えを改めました。」

「それは、確かに安易。」

「お陰様で軽くなりました。」

「失恋したからかと思った。」



 昨日から考えていたネタを、先に持ち出されて晶子は苦笑した。先ほど不発に終わったそれだが、ユタ氏にはわかってもらえると思って「それもまあ、無きにしもあらず。」と頷いた。



「彼には幸せになっていただきたいのです。それこそ、推す側の使命。そして、願い。これは決意表明でございます。」



 握りこぶしを作り、力強くそう言えば、ユタ氏はうんうんと頷いて、「推す側の鏡。」と言って笑った。


 酒井のことは話せなかった。話せばきっと、再び茹でだこのできあがりだ。昨日からの幸せな、ふわふわとした気持ちが、ほわほわからふわんふわんになって、なんだか酔いそうだと晶子は思った。







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