第182話 仏性その二十五 「そのうち」は仏教ではない

 「「時節若至じせつにゃくし」のどうを、古今のやから往々におもはく、仏性の現前する時節の向後きょうこうにあらんずるをまつなりとおもへり。かくのごとく修行しゆくところに、自然じねんに仏性現前の時節にあふ。時節いたらざれば、参師問法さんしもんぽうするにも、辦道功夫べんどうくふうするにも、現前せずといふ。恁麼見取いんもけんしゅして、いたづらに紅塵こうじんにかへり、むなしく雲漢うんかんをまぼる。かくのごとくのたぐひ、おそらくは天然外道てんねんげどう流類るるいなり。」

 「時節若至じせつにゃくし」の言葉を聞いて、古今の者たちは往々にして思うことに、仏性が目の前に現れる時がこの先にあるであろうことを待つのだと思う。このようにして修行していくところに、自然に仏性が目の前に現れる時に出会う。その時に至らなければ師を尋ねて法について質問しても、仏道を色々と学ぼうとしても仏性が現れることはないと言う。このように理解して何となく俗世間の中に入って行き、虚しく天の川を眺めている。このような者たちはおそらく自然の流れに任せていればよいという仏道以外の教えを信じている類の集まりである。

 仏教は今この現実を生きるためにある。「時節若至じせつにゃくし」を「時節がもし至れば」と読んでしまうと、今ではなく「この先」のことになってしまう。だから道元禅師はそれは間違いである。仏教、仏道ではないと説いてくださっている。

 怪しげな宗教を名乗っている集団は「言うとおりに修行していればそのうちに悟れる、幸福になれる、幸運が訪れる」という。将来を餌に金を巻き上げている。「寄付をすれば、お布施を出せばそのうちにいいことがある」などといって人を誑かせている。

 このようなものが宗教の名に値するかは置いておくとしても、少なくとも仏教ではない。仏教が問題にするのは今この瞬間なのだから。「そのうちに」なんて言ってるのは仏教ではない。断じて。

 そして今この瞬間何をすればいいか。それは坐禅が示してくれるのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る