第130話 現成公安その二十九 統一教会に思うその二

 「生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり」「死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり」「生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり」

 生きている時は生きているという状況となる。死んだ時は死という状況となる。生きている時はひたすら生きればいい。死んだ時は死んだ時だ。

 生から死になると仏教では考えないということだろう。死んだらどうなるなんて考えて何になる。今この瞬間を必死に一生懸命行動する以外に何があるというのか。

 生きているというのは一時の位であり、死も一時の位である。それぞれ独立した状態だ。

 「死後も幸福になるためにこうしろああしろ」などというのは、不安に陥れて金を巻き上げようという奴の常套手段だ。

 生まれ変わる、転生する。そのためにはこういうことをしなければならないなどというのも同じだ。

 そのような考え方は仏教ではない。少なくも道元禅師はそのようなことはおっしゃっていない。

 生きている間に良いことをしないと地獄に落ちる。天国に行けない。などというから統一教会のような怪しげな集団が跋扈するのだ。

 死後のことなど生きている時に心配したってなんになるというのか?

 極楽浄土に行けると説く宗派もあるようだけど、道元原理主義者の私からすればこれは仏教ではない。

 死んでも成仏できないと大変だ、何て言うのも仏教ではない。

 仏という状態は生きている時に成らなければ意味がない。

 死後の世界、地獄極楽、天国なんてことを言うから、それを使って人を脅し、不安にさせる輩が後を絶たない。

 この点をはっきりさせないと、同じような手口で金儲けしようとする奴はいくらでも湧いて出てくるだろう。

 道元禅師のおっしゃることを改めて現代に説く必要がある。

 本来、仏教界がそう主張すべきだけれど、葬式や霊園経営に依存しているから言えないだろう。

 いやはや、困ったもんだ。

 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る