第106話 現成公安その五 自己の中に真実・真理はある

 「自己をはこびて万法を修証しゅしょうするをまよいとす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。迷を大悟だいごするは諸仏なり、悟に大迷だいめいなるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷めいちゅうゆうめいの漢あり。諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。」

 自己の外側に大宇宙の真実・真理があると考えて実現・実証しようとすることを「迷い」とする。(坐禅して大宇宙の真実・真理と一体となった状態となれば)大宇宙の真実・真理が自己の中にあると実現・実証することになりそれを「悟り」とする。「迷い」とはどういう状態なのかをはっきりとさせること(大悟)ができる人々が諸仏であり、悟りたい悟りたいとうろうろおろおろするのが(坐禅をしていない)普通の人々である。大宇宙の真実・真理を実現・実証したからと言ってそれで終わりではなくさらに坐禅を続けて向上していく人がいる一方で迷いの中でさらに迷いを深めてしまう人がいる。仏と言われる人々がまさしく大宇宙の真実・真理を実現・実証している時つまり仏の状態となっている時は「自分は仏だ」などと思うことはない。けれども大宇宙の真実・真理を実現・実証している仏であり、さらに実現・実証を積み重ねていくのである。

 宗教とは真実・真理を得るためのものであると考えている。坐禅すれば大宇宙の真実・真理と一体となる。一体となると言っても自分が変化して大宇宙と同じになるのではない。本来人間は大宇宙そのものなのだ。本来備わっている真実・真理の状態に戻るだけのこと。真実・真理は自己の中にある。坐禅すればそのことが体得できる。

 世の中には「こうすれば成功する」「こうすれば運が良くなる」「楽に生きる法則」なんてことを商売にしている人たちがたくさんいる。人間それぞれ千差万別だ。それに環境や自分自身も瞬間瞬間変化している。そんな単純なことでうまくいくようになんかなる筈がない。うっかりそんなものに触れれば逆に混乱が増すだけのことだ。こうしたらよいなんて自分の外側に求めるのは無駄であり危険だ。

 坐禅した身心は間違ったことをしない。できない。自分に今必要なこと、今はできないことがわかる。何を今したらよいのか瞬間にわかる。知識が不十分だとわかれば勉強すればよい。

 自分がどういう状態かわからず、他人の言説に右往左往するのは苦悩を深めるだけだ。「迷中又迷」である。

 統一教会で騒ぎになっている。こうしないと不幸になる、こうすれば幸福になれるなどと唆すのは宗教ではない。

 自己=真実・真理であることを体得する方法を示すものが宗教だ。その方法は坐禅である。坐禅するのに一銭もいらない。

 金銭を要求するものを宗教と言っていいのだろうか。

 統一教会以外の宗教も本当に宗教の名に値するのだろうか。何のために金銭を要求するのだろう?宗教団体関係者の生活のため?

 真実・真理は金銭でどこからか買ってくるようなものではないことは誰でもわかる。

 坐禅しましょう。

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