第83話 辦道話その七十二 出家しなくても仏道に入れる

 「とうていはく、出家人しゅっけにんは、諸縁しょえんすみやかにはなれて、坐禅弁道にさはりなし。在俗の繁務は、いかにしてか一向に修行して無為の仏道にかなはむ。

 しめしていはく、おほよそ、仏祖あはれみのあまり、広大の慈門をひらきおけり。これ一切衆生を証入せしめんがためなり、人天にんでんたれかいらざらむものや。ここをもて、むかしいまをたづぬるに、その証これおほし。」

 第十四問答。

 質問。出家した者は様々な世の中のしがらみから離れて坐禅し仏道を学ぶのに支障はない。(出家せずに)俗世間にいれば生きていくための仕事や日常起こる様々なものに忙しいが、どのようにしてひたすら修行してありのままの仏道を体得できるだろうか。

 答え。おおよそ、仏祖は憐みをもって広く大きい仏道に入るための慈しみの門を開いておいてくださっている。これは一切の生きとし生けるものを仏道を実証し仏道に入ることができるようにするためである。人間界だろうが、天上界だろうが、誰が仏道に入れないということがあろうか(誰でも入れる)。このことについて古今の事例を尋ねてみると、実証している事例がたくさんある。

 道元禅師は仏道修行という点では出家の方が適しているとはお考えになっているとは思う。しかし、仏道、仏教は一切衆生を救うものである。だから出家しなければ救われないなどということはない。

 確かに仕事をし、日常生活の様々な用事を済ませるというのは大変なことだ。しかし、時間の合間5分でも10分でも坐禅することは可能だと自分の体験から思う。わずかな時間でも見つけて毎日坐禅すればそれでいい。そう思っている。30分、45分坐禅することはいいことだと思うが、その時間が取れないからと言って坐禅を全くしないのでは仏教は理解できない。仏道に入ることはできない。大宇宙の真実・真理を実現・実証することはできない。

 道元禅師は坐蒲ざふという坐禅するときに腰を下ろす蒲団のようなものを持ち歩いておられ、坐禅に適した場所があればそこで坐禅されたという。

 一日の中でわずかでも坐禅する時間を見つけて毎日続ける。そのことで「広大の慈門」に入ることができるのだ。

 

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