第45話 辦道話その三十四 ただ坐っていてどうなるというのか?

 「とうていはく、あるいは如来の妙術を正伝し、または祖師のあとをたづぬるによらむ、まことに凡慮ぼんりょのおよぶにあらず。しかはあれども、読経念仏どきょうねんぶつはおのづからさとりの因縁いんねんとなりぬべし。ただむなしく坐してなすところなからむ、なにによりてかさとりをうるたよりとならむ。」

 第三問答。その問いの部分。

 質問して言うことには、真実・真理を得た人々の方法、妙術として坐禅を正しく伝え、または仏と言われた方々のやってこられたことをたずねたことによって坐禅が正しい入り口ということになったのだろう。そのことは凡人の考えの及ぶところではない。そうではあるけれども、経典を読んだり、念仏を唱えたりすることはそれを続けるうちに真実・真理に到達する原因となるだろうと思える。ただぼんやりと坐って何もしていないのに何によって真実・真理に到達する契機となるというのか。

 まさに今の世の中の人間にとって一番の疑問だろう。

 坐禅は「ただひたすら坐っている」だけである。

 本を読んだり、人の話を聞いたり、ネットで情報を収集したり、それらをもとに色々考えたり、そういうことをすることが真実・真理に到達する方法だと信じ込んでいる。

 しかし、どんなに色々な知識があり情報を持ち物事を考えることが得意だとしても真実・真理に到達することはできない。

 プーチンなんて人は常人にはない知識も情報も持っているだろうしロシアという大国を統治できているのだから思考する能力も非常に優れているだろう。

 しかし現実に彼が行っているのは大規模な殺人と破壊だ。

 繰り返して書く。

 坐禅して大宇宙の真実・真理と身心が一体となっていない限り、知識も情報も思考も正常に機能することはない。邪悪な妄想に憑りつかれた愚行を生み、残虐悲惨をもたらすだけだ。

 坐禅は普段自分が正しいとおもいこんでいる身心を脱落させ、本来の真実・真理に立ち戻るためにするのだ。

 坐禅を虚しい、ただぼんやりと坐っているだけで何もしていないと考えることこそが、脳味噌に支配され本来の姿を見失っている証拠なのだ。

 坐禅しましょう。

 

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