第43話 辦道話その三十二 信仰の危険性
「いまこの坐禅の功徳、
しめしていはく、これ仏法の
坐禅の力(効果、効用)=功徳は広大無辺、無限であることを聞き終わった。愚かな人は疑って言うだろう。仏法には色々な入り方がある。何をもってただひたすらに坐禅をせよと言うのか。
それに対して答えて言う。坐禅が仏法の正しい入り口正門だからである。
ここからいわゆる十八問答に入る。その第一問答。
仏教、仏法は坐禅しない限り絶対にわからない。澤木興道氏は正法眼蔵は「坐禅の中身を書いたもの」とおっしゃったという。坐禅せずに正法眼蔵を読んでも絶対にわからない。わかったという妄想を持つことはあるだろうが、それは妄想でしかない。
はっきりさせておかねばならない。正法眼蔵は布教のための書である。正しい仏教、仏法により人々を世の中を救済すために書かれたものである。
そして正法眼蔵を絶対的なものとして信じなければいけない。それが信仰というものだ。
信仰というものは危険なものともなる。オウム真理教なんてその典型だ。世の中には詐欺としか思えないものが宗教の名の下に存在している。
宗教とは信仰しない限り、絶対のものと受け入れない宗教にならない。
だから何を信じるかが人生を決することになる。その意味で信仰は極めて危険な側面を持っている。
私は正法眼蔵に出会い、坐禅し今日に至っている。正法眼蔵に疑問を持ったことはない。私はろくな人間ではないと思うが、もし正法眼蔵に出会わず坐禅することがなかったらとんでもない破滅的な状態に至っただろう。それは間違いない。
私は道元禅師原理主義者、正法眼蔵原理主義者、坐禅原理主義者だ。
これを読んでいただく人がいらっしゃれば、私の書いていることが正しいかどうかよくよく吟味していただきたい。そして興味を持たれるようなことがあれば正法眼蔵を読み坐禅して、それが正しいかご判断いただけたらと思います。
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