第111話 万米ヶ岡共同診療所

 子供のころから私の家族のかかりつけ医であった万米ヶ岡共同診療所(以下診療所と略す)と、私とのかかわりの一番最初の記憶は、私が、4歳だったか5歳だったか、発熱で休日に受診したときのことである。医療機関とは思えない民家のような外観の建物で、点滴を受け、苦い薬をもらって帰ったことが一番古い思い出である。


 実際に家族のかかりつけ医となったのは、6歳下の弟が喘息重積発作で、何度も診療所に入院したころからである。その時には診療所は現在の位置に移転しており、コンクリート製の建物に変わっていた。

 「小さいころの記憶は幻だったのかなぁ?」

と思いながら、でも、体調が悪くて私が受診すると、たいてい苦い薬を処方されて、

 「やはり、この苦い薬は診療所の特徴だよな」

と思っていた。のちに、医師として入職し、診療所の歴史を振り返ると、始まりは確かに民家みたいな(というか、民家を改造した)建物で、私の記憶が間違っていなかったことが分かった。また、その時は臨時受診で、5年間受診がないと、カルテは処分されることになっていた(医療法で、診療録は5年間の保存義務がある)。私たち家族のかかりつけ医になるのはそれから5年以上後なので、診療所の私のカルテは、初診が昭和55年であった。


 診療所は、もともと、夜間、休日は対応できる医療機関が一つもない複数の街をカバーするために、地域の某医療グループが昭和38年に建てた診療所であった。当初は日、祝日、夜間帯のみの対応であったが、開院半年後から平日の診察も開始したそうである。今の診療所を取り囲む環境を考えると隔世の感があるが、よく考えると、診療所が設立されてから60年近くがたち、その当時は、この辺りは医療の極めて薄い地域であったのであろう。


 九田記念病院の所属するグループの最初の病院が設立されたのが、昭和50年代で、その当時の医療界、医師会に激震を与えたのだが、診療所はその20年近く前から、24時間365日、診療を続けていたのである。それだけでなく、現在厚生労働省が注力している訪問診療、在宅医療にも当時から力を入れていた。60年近く先を見通されていたのである。とはいえ、その当時は所長も交代制で、本当の意味での常勤医が不在であり、当時の事務長、看護師長は医者のやりくりに苦労していたそうである。その当時から、80歳を超えるまで診療所に医師としてかかわってくださっていた北村先生の話では、当時は医師給料の遅配は当たり前で、事務長が金策に駆け回っていたそうである。その北村先生を非常勤として診療所に誘ったのが、恩師である上野先生であった。上野先生も当初はアルバイトで、交代制の所長を引き受けたり、一旦はアメリカ留学のため、数年間診療所を離れていたりされていた。


 アメリカから帰国後、先生がどういう決意で引き受けたのかは聞けずじまいだったが、本当の意味での常勤医、所長となられた。上野先生の人格とフットワークの軽さ、診断能力の高さから、診療所はどんどん地域の信頼を得られるようになっていった。私が小学生のころは、受付開始の17:45に診療所に到着し、それまでの間に待っていた人たちの後に受付簿に名前を書くと、診察を受けるのは20:30くらい、というほど混雑していた。子供のころからお世話になっていた、古株の看護師さんに当時のことを聞くと、

 「当直の先生が20:30に来られて、『当直の先生に診てもらう方が早いから、どうしますか?』と待っている患者さんに聞いても、『いや、上野先生に診てもらいたいから待っています』とほとんど皆さんが言っておられた」

 とのこと。遅いときには深夜0時を回るまで診察に時間がかかることも珍しくなかったとのことだった。確かに、そのようだったと記憶している。


 上野先生は、優しくて、優しいからこそ、厳しい先生でもあった。変に偉そうぶるわけではなく、人と人として、患者さんたちとかかわってこられた。先生の姿は颯爽としていて、小学生だった私があこがれるに十分なほどかっこよかった。もともと扁桃摘出術を受けるまでは、月に1度は必ず扁桃炎で高熱を出し、幼稚園、小学校低学年から、その寝込んでいるときに「家庭の医学」を読み込むほど病気に興味を持っていたこと、手塚 治虫氏の「ブラック・ジャック」に感銘を受けたことから、子供心に「お医者さんになりたいなぁ」という憧れが生まれてきた。


 万米ヶ岡共同診療所は、昭和53年から有床診療所となったが、有床診療所となったのも、地域に病床数が少なく、本来入院させるべき人を入院させられず、訪問診療でfollowせざるを得ないことが多々あったためだと聞いている。その頃は専門医制度も確立されておらず、そういう点で、いわゆる「古き良き時代」の「町のお医者さん」を実践していた。内科、小児科を中心として、様々な患者さんを受け入れていた。私の実家でも、祖父、父、弟が診療所に入院でお世話になっていた。祖父がどのような状態で入院したのかは記憶に残っていないが、弟は喘息重積発作で数回入院、また、肝炎で入院したことがある。肝炎で入院したときは、

 「大人は見舞いに行っても大丈夫だけど、あんたは行ったらあかんよ」

と言われたので、今考えるとA型肝炎だと思っている。A型肝炎は、生活環境が改善されたことで劇的に発症数が少なくなったので、抗体価を持っている人の割合がある年代を境に激減しているのである。おそらく昭和30年代あたりに生まれた人を境に急速に抗体を有する人が減少していたかと記憶している。父は、糖尿病のコントロールのために定期的に通院。また急性心筋梗塞を起こした時も診断をつけて、救命救急センターへ搬送してくれたことを覚えている。


 私が小学5年の時、日曜日で私は運動会、父は職員旅行の予定だったが、私より少し前に家を出たはずの父が、私が忘れ物を家に取りに帰った時に自宅に帰っていて

 「お父さん、途中でしんどくなったそうやから、診療所に今から行ってくるわ。あんたは運動会に行っとき」

と母に言われ、運動会へ。運動会が終わり自宅へ帰ると、

 「今からお父さんのところに行くで!」

 と厳しい顔をした母に、弟と一緒に、これまで行ったことのないところに連れていかれた。そこが救命救急センターだった、ということはしばらく後で知ったのだが、そんなわけで、父の命を助けてくれたのも、初診で適切に急性心筋梗塞を診断してくれたからである。


 父が人工透析を始め、いよいよ体調も不安定になってきたときも、何度か診療所に入院させてもらった。父が亡くなった、と連絡をもらったのも、診療所の待合室であった。弟の薬をもらいに診療所に受診していた時に、受付の方が電話をつないでくれたからである。


 そんなわけで、私たち家族はみんな、上野先生を敬愛していた。私が17歳の時に母と継父の間に子供ができたが、上野先生の名前をいただいたほどである。


 私自身の努力不足のせいで、高校から大学への進学の時は、医学部に進学すること能わず、工学系でも、医学に近い学科に進学した。大学4年次の卒業研究は、異常ヘモグロビン症の一つであるHb St.Louisが、HbM症と呼ばれる一群の疾患群に含まれることを、遺伝子工学的に人工合成することで証明することがテーマであった。大学院は、その当時O大学医学部にしかなかった、医科学修士課程(医学部外から学生を募り、基礎医学者に育てる修士課程)に奇跡的に合格したのだが、その際に、上野先生から、

 「臨床の現場を見ることは、基礎医学を修めていく人にとっても大事なことだよ。うちの診療所で事務当直のアルバイトをしてみないか」

と声をかけてくださった。その事務当直をさせてもらい、臨床現場を見る中で、

 「医師になりたい」

という子供のころからの夢がどんどん強くなり、またその夢に対して、

 「若い医師を育てるのも医師の大事な仕事だと思っている。君の事務当直の仕事ぶりを見ると、君は応援するに値する人物だと思う」

 とおっしゃってくださって、6年間の医学生生活を応援してくださった上野先生と、上野先生が作り上げられた診療所。私の医師としての原点はそこにあると思っている。もちろん、私を医師として鍛えてくださった師匠と九田記念病院も、私にとって大切な場所である。


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