第104話 うがい(含嗽)

 3年次の呼吸器内科にローテート中、A型インフルエンザを発症され、低酸素血症を呈し入院管理が必要となった、COPDを基礎疾患に持つ60代男性の方を担当したことがあった。


 この男性、Rさんは、インフルエンザに対してタミフル内服を行ない、COPDの管理については、当時1日3回の吸入が必要だった吸入用抗コリン薬(確か「テルシガンエアゾル」という名前だったように記憶している)を使用し、重症化することなくインフルエンザは治癒、テルシガンでCOPDの症状も安定、酸素化も安定しており10日ほどの入院経過で退院となり、その後、私の外来に継続通院してくださっていた。


 数年経過を見させてもらったが、特にお変わりなく元気で過ごされ、途中、吸入抗コリン薬が1日3回のテルシガンから、1日1回のスピリーバに変更したくらいで、その他の薬も飲んでいるわけではなく、穏やかにお過ごしだった。


 研修医5年目から6年目に移ろうか、という春先の受診で、

 「最近、少し息切れが進んできたように感じます」

 と訴えられた。胸部聴診ではいつも通り、肺胞呼吸音はdistantでわずかにしか聞こえないのだが、ごくわずかにwheezeが聴取された。その当時は疾患概念としてACOS(Asthma and COPD overlapping syndrome:喘息とCOPDの合併例)は確立されていなかった(現在ではACOSの患者さんは多いと考えられている)。COPDと気管支喘息は、病理学的には全く異なる疾患であるが、治療方針としては非常に類似しているため、スピリーバに加えて、アドエア(吸入ステロイド+長時間作用型β刺激薬)の吸入薬を追加処方した。

 「新しい吸入薬は朝夕に使ってください。吸入後は必ずすぐにある程度の量の水分を飲むか、ガラガラうがいをするかして、喉に残った薬を洗い流してください」

 と注意して、その日は帰宅とした。


 それから1週間後、首がすごく痛む、との主訴でRさんは当院の夜間ERを受診。その時は頚椎のレントゲンや、頚部CTの撮影、血液検査を行なったが有意な所見なく、

 「原因不明の頚部痛」

 との診断で、鎮痛剤を処方され帰宅となった。しかし、頚部の強い痛みは全く改善せず、転げまわりたくなるほどの痛みが続いていたそうであった。前回受診から2日後、日中のERに「改善しない頚部痛」を主訴に救急搬送となった。その時のERでの精査でも頚部痛の原因はわからず、ERボスの石井先生から

 「保谷先生ですか?ERの岩井です。あんなぁ、お前がCOPDで外来でfollowされてる方やねんけど、数日前からひどく首を痛がって、ERに何回か来てはるねん。痛みの原因はよく分からへんねんけど、保谷、入院よろしく」

 との連絡があった。急ぎERに降りて、患者さんの診察を行なうが、頚部リンパ節の腫脹はなく、圧痛も認めなかった。頚椎についても棘突起の叩打痛はなく、レントゲンでも頚椎には問題なさそうだった。頭部を他動し、頚部を動かすが、特定の向きで痛みが強くなる、ということもなく、本当に頚部痛の原因ははっきりしなかった。とはいえ、ご本人も痛みで疲れてきており、自宅療養は難しいと考え、入院管理を行なうこととした。


 入院後は、Room airでSpO2 87%と低くなっていたので、鼻カヌラ1Lで酸素投与を開始、頚部痛については、耳鼻咽喉科的評価が必要と考え、耳鼻科の松田先生に診察を依頼した。


 入院第二病日、松田先生が診察してくださったが、下咽頭部にごくわずかにカンジダ疹が診られる以外に異常はないです、とのことだった。カンジダ疹は吸入ステロイドの影響かと思われた。ファンギゾンシロップを処方し、含嗽+内服でカンジダ疹の治療を開始した。


 入院第3病日、Rさんが、突然呼吸苦と右胸部の痛みを訴え、SpO2の低下がみられた。急ぎ胸部単純写真を確認すると、右自然気胸を認めた。おそらくブラが破れたものだろうと思われた。

 あまり私はこの手技は好きではないのだが、chest tube挿入を行なった。自然気胸のchest tubeは前胸部の高位肋間鎖骨中線上から挿入することも多いが、私自身は同部位からchest tubeを挿入したことがなく、胸水貯留時と同様に、側胸部からchest tubeを挿入した。挿入後の位置は良好で、脱気もできているのだが、翌日の胸部写真では肺野は広がっているものの、chest tubeに陰圧がかかっているので、ボコボコとair leakが止まらなかった。


 入院時にあれほど痛がっていた頚部痛は、ファンギゾンシロップ開始後すぐに痛みが消失し、下咽頭の小さなカンジダ疹が原因だったようである。Rさんに伺うと、吸入後のうがいはついつい忘れてしまい、よく抜けてしまっていたようであった。きっちりとうがいをしてくださっていたら、と思うととても悔しい思いがした。


 なので、Rさんの入院目的は、頚部痛の治療から、COPDの管理、自然気胸の治療に主軸が移ってしまった。一旦陰圧をかけるのを止め、水封の状態で経過を見たこともあったが、水封でも空気がボコボコと出てきて、肺からのair leakは止まっていないことが分かった。


胸部レントゲンをfollowするが、air leakのため、ごくわずかだが、気胸は残存している状態であり、胸膜癒着術をするのも難しそうな印象だった。


 その数日後、Rさんは、左胸が痛くて息がしづらい、前回と同じような感じだ、と仰られた。胸部CTを確認すると、左胸部に新たに気胸が発症しており、右肺は、わずかな気胸の残存と、液体の貯留が見られた。ご本人には大変申し訳ないが、Rさんは両側気胸で、両側にchest tubeが挿入され、動けない状態となってしまった。


 お元気だったころに、一度VRS(Volume Reduction Surgery:気腫肺で大きなブラを作っている肺上葉を切除し、肺の量を小さくすることで、健康な残存肺胞に空気が入りやすくなり、COPDの症状が緩和される手術)を提案し、呼吸器外科に紹介したこともあったのだが、呼吸機能検査の結果があまりに悪く、VRSの適応ではない、と診断されているので、chest tubeを挿入し、脱気する以外に手はなかった。


 そのような状態なので、食事も食べるのが難しくなり、また人工物が挿入されているので、人工物に感染が起き(おそらくMRSA)、血液検査でも炎症反応が急速に上昇してきた。


 非常に悲しいが、生命予後は不良と判断し、ご家族に来ていただき病状説明。

 「改善しない両側気胸に加えて、挿入しているチューブの感染を併発しています。本来は感染している人工物を抜去することが必要なのですが、肺からの空気の漏れが止まっておらず、チューブを抜いて、新しいチューブを挿入する、というのは難しく、感染のコントロールは難しいと思います。生命予後は不良です。現行の治療は続けますが、それに加えて痛みや呼吸苦を取る方向で麻薬も使っていき、ご本人の苦痛を取ることを主眼に治療を行なっていきます」と説明した。


 奥さんと、特に娘さんは非常に悲しんでおられたが、こちらの病状説明には納得された。ご本人に面会してもらい、5分ほど言葉を交わされ、娘さんたちは帰宅された。


 Rさんには、「息苦しさを改善させるために麻薬を使います。医師の管理下で適切な量を使用していれば、麻薬中毒で「薬が欲しい、欲しい」ということにはなりません。便秘しやすくなるので下剤を増やします。少し最初は吐き気が出ることがありますが、吐き気は薬を使っていくうちに体が慣れてきます」とお伝えして投薬を開始。オキシコンチン20mg 分2(1回10mg)から投与を開始した。


 呼吸苦は中程度にまで軽快したが、感染のコントロールはうまくいかなかった。MRSA感染、また誤嚥などの要素も考え、VCM+MEPMという、感染症専門医が見たら怒鳴られそうな投薬を行なったが、徐々に全身状態は悪化し、入院約1ヶ月で残念ながら、Rさんは旅立たれてしまった。


 温和で穏やかな性格の方で、入院中も紳士としてのふるまいを崩すことなく旅立たれた方である。外来で長期にfollowさせていただいたことも併せて、Rさんのことをふと思い出したので、綴った次第である。

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