第98話 ACSと思ったら!

 2日前に、食欲不振を主訴に入院された70代の女性。身体診察では有意な異常所見を認めず、食欲不振の検査を進めていた。血液検査は電解質も含め異常なく、血液ガスも問題なし。入院時の胸部レントゲン写真も特記すべき異常を認めなかった。入院時の心電図は明らかな異常を認めず。腹部単純CTも、イレウスなどはなく、放射線科の所見はまだつけられていなかったが、大きな問題はなさそうであった。

 食欲不振や全身倦怠感などは、どのような病気でも起きることなので、鑑別すべき診断は山のようにあり、たくさんの検査をしても結局よく分からない、ということもしばしばである。総合内科医の実力を試されるような訴えであった。


 20時前だったか、そろそろ帰ろうか、と帰り支度を始めたとき、彼女の入院している病棟から電話がかかってきた。

 「保谷先生、2日前に入院された□☆さん、冷や汗をかいて、『胸がしんどい』と言われています。診に来てもらえますか?」

 とのこと。

 「冷や汗をかいている」ということは、高度に交感神経が刺激されている状態であり、患者さんに非常に重篤なことが起きている大事なサインである。冷や汗をかいて、胸が苦しい、ということなら、まず第一に急性冠症候群(ACS)を考えなければならない。緊急である。

 「わかりました。すぐ病棟に上がります」

 とこたえ、すぐに病棟に駆け付けた。


 「□☆さん、どうしましたか?」と患者さんに声をかける。

 「先生、15分ほど前から、胸のあたりが重苦しくてつらいのです」

 と答えてくれる。やはり訴えはACSを疑う。急がなければならない。


 すぐに、12誘導心電図、トロポニンを含めた緊急の採血、その日は心エコーのできる技師さんが当直技師さんだったので、心エコーをお願いし、急いで医局に戻った。


 新しく赴任されたばかりの循環器内科部長(部長は坂谷先生と吉松先生の二人になった) 吉松先生がちょうどお帰りになろうとしていたので、

 「先生、お帰りのところ大変申し訳ありませんが、今病棟でACS疑いの患者さんがおられるのです。先生、一緒に診ていただけませんか」

とお願いした。吉松先生は

 「それは大変だ。もちろん、私でよければお手伝いさせてください」

 と、こちらのわがままを聞いてくださった。大変ありがたかった。


 吉松先生と病棟に上がり、心電図を確認する。入院時の心電図とは明らかに異なっており、複数の誘導で、上に凸の形のST上昇がみられた。ただ、AMI(急性心筋梗塞)と考えるには、異常な波形を呈している誘導と、冠動脈の対応がすこし不自然だった。

 「あれ~っ?AMIにしては、なんか不自然なST上昇だなぁ」

と釈然としなかった。エコー室から私に電話があり、技師さんから

 「保谷先生、心エコー確認しました。心基部(いろいろな血管が出ている方)は動いていますが、心尖部のあたりはakinesis(収縮していない)でした」

とのこと。吉松先生にもその所見を報告、心電図も確認してもらった。その後しばらくして採血結果が出たが、心筋逸脱酵素の上昇は目立たないが、トロポニンTは陽性であった。吉松先生は結果をご覧になり、

 「この結果だと、緊急カテが必要ですね」

 とおっしゃってくださり、すぐに緊急カテの段取りをつけてくださった。


 「カテ室は私一人で大丈夫なので、保谷先生は外で見てもらっていていいですよ」

 と吉松先生がおっしゃってくださったので、カテ室の外から、CAGを見学させてもらった。右冠動脈、左冠動脈の造影を行なったが、不思議なことに冠動脈には明らかな狭窄病変を認めなかった。Normal coronaryであった。

 吉松先生は左室造影もしてくださった。左室造影では心基部の収縮は見られるが、エコー所見と同様に、心尖部側はほとんど収縮していなかった。


 CAGを終え、吉松先生から

 「保谷先生、この方は『たこつぼ心筋症』だと思います。循環器内科で、私が主治医を引き継ぎます」

 との診断をつけていただいた。それまで「たこつぼ心筋症」という病名を聞いたことがなかったので、吉松先生に

 「先生、私、初めて『たこつぼ心筋症』という病名を伺ったのですが、どのような疾患なのですか」

 と教えを請うた。メカニズムはまだ未解明だが、発症にはカテコラミンの異常分泌が関与している可能性があり、特徴は心基部は収縮するのだが、心尖部の方が動かないので、左心室がまるでたこつぼのように見える疾患であること、症状を速やかに改善させる治療法はないが、時間の経過とともに心機能は戻ってくる、とのことだった。


 もう時間は23時近くになっていた。

 「吉松先生、お忙しい中、こんな時間まで助けてくださり本当にありがとうございました。また、たこつぼ心筋症についても初めて経験し、大変勉強になりました」

 とお礼を申し上げた。ただ、病歴を振り返っても、何か強いストレスにさらされた、というエピソードはなく、何故、そのようなカテコラミン異常放出が起きたのか、また、それと食欲不振との関連はどうなのか、というところはさっぱりわからなかった。


 患者さんは総合内科から循環器内科に転科、吉松先生が主治医をしてくださり、私はカルテ回診、という形で患者さんの様子をfollowしていたが、その後は、心電図異常も改善、心エコーでのakinesisも消え、EFも改善し、asynergyも見られなくなった。しかし食欲不振は遷延しており、改善は見られなかった。胃瘻を造設したかどうかはもう記憶にないが、あまり状態の改善ないまま、施設入所となられたと記憶している。


 その後、「たこつぼ心筋症」という疾患の認知度も上がり、いろいろな教科書にも記載されるようになった。英語名も“Takotsubo cardiomyopathy”と、そのままの病名がついている。


 吉松先生にはご無理を申し上げたが、全く知らなかった病気を経験できたことはすごく勉強になった。

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